92 / 173

第九十二話

 学園祭の夜から……もう、何日経ったかな? 気づいたら、あの熱みたいな時間も夢みたいに 遠のいて……けど、胸の奥にまだ、余韻が残ってる感じ……。 「それでは葵さん、ちょっといってきます。」 「いってくるね、葵ちゃん♪」  夕方、喫茶店「日向」の片づけを終えたところで、愁くんと凛くんにお仕事が入ったとか……。 2人が揃って動くなんて、これまで一度もなかったから、ちょっとびっくり。 ……でも、本人たちはいつもと変わらない顔を してる。 それでも、どうしてだろう……? 胸の奥に小さなざわめきがあって、落ち着かない。嫌な予感っていうんじゃなくて……ただ、 なにかが変わりそうで……。 「葵さん、戸締まりだけは気をつけてくださいね。寝落ちして鍵の閉め忘れは、だめですよ。」 愁くんは、優しく目を細めて笑った。 その声も表情も、いつもと変わらないのに…… なんだか心が締めつけられる。 「わかってるってば。もう、子供扱いしないでよ?僕のほうが歳上なんだから。」 なんて口では強がってみせても、愁くんの笑顔には敵わない。やっぱり僕は、この子には甘くなる。 「んふ♪葵ちゃん、ちょ〜っと可愛いとこあるからね。それと……オヤツの食べすぎも気をつけて。特に、冷蔵庫のボクの濃厚チョコパイ、食べないでね!」 凛くんがふわっと猫っ毛を揺らして、子供みたいに笑って。可愛いんだから、ん……? 「……え?あれ、食べちゃいけなかったの……?」 「はぁ!?……ボクのだったのに!」 学園祭のあと、3人で朝まで無茶したから…… お腹空いて、つい手を出しちゃったんだっけ。 凛くんの頬がぷくっと膨れて、それがもう可愛いすぎて……思わず笑っちゃう。 「あはは、ごめん、ごめん。また同じの買っておくから。」 そう言うと、凛くんの表情がほんの一瞬、陰ったように見えた。……気のせいかな? 「……ちゃんと、買っといてよ。三箱でいいから!」 「ん……わかった。ちゃんと買っておくから…… 二箱ね。」 「もうっ!」ってむくれる声も、なんだか甘い。 そんな僕たちを見ていた愁くんは、小さく笑って言った。 「ふふ……♪凛、そろそろ時間だから。行こうか。それでは……」 そう言って、僕の頬にそっと―― チュッ、と。 え……?と戸惑う間もなく、反対の頬に凛くんも同じようにキスしてきて、 「約束……だからね♪」 って、小さく囁いた。 玄関を出ていく2人の背中を見送って……僕は、 しばらく動けなかった。 ――「いってきます」のキス。 生まれて初めての、それは、胸の奥を温かくも 切なくもする魔法みたいで。 小さく触れた唇の余韻を両頬に抱えながら…… 僕はいつも通りに思ったんだ。 どうか……必ず、無事に帰ってきてねって。 次の「ただいま」を……僕は、待ってるから。

ともだちにシェアしよう!