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第九十九話

 木造の診療所は、不思議なほど静かだった。 古びた窓枠の外には緑の山々が広がり、小鳥の 囀りが微かに聞こえるだけ。 病室に横たわる愁の耳に届くのは、規則正しい 医療機器の電子音―― ……ピー、ピー、ピー…… 両腕は軽く固定され、四肢の感覚が鈍いままの 愁は横になっていた。  昨日の戦場を思い出すたび、喉がかすかに震える。 (……ほんと、死ぬところだった……凛と、京之介さんがいなかったら……) その思考を、ばたん、と勢いよく開く扉が打ち 砕いた。 「愁〜、ちゃんと寝とるかいな〜?♡」 ――ヒールの高い音。 カツン、カツン、と場違いなほど艶やかに響いてくる。 「きょ、京之介さんっ!?」 ベッドの上で愁が飛び起きかける。 「な、なんでここに……それに、その格好……」 そこに現れたのは、なぜか――真っ白でやたら短いナース服を纏った京之介だった。 赤みを帯びたボブを艶やかに揺らし、長い脚を惜しげもなくさらし出して。 「んふふ……♡日本の、住み慣れたとこの近くがええやろ思て、うちがここ手配したんよ?」 ここは日本。しかも「日向」とは山を挟んだ反対側の病院、というより診療所というのがしっくりくる建物だった。 「うちも最近こっちにおること多いし…… この格好は頑張ったあんたへの、ちょっとした さーびす……♡」 「サ、サービスって……」 愁の顔が瞬時に赤く染まる。 甘い香り、目を逸らしても鼻を刺すほどの妖艶な匂いが彼を包む。 ギシ……と音を立ててベッドの端に腰かける 京之介。 「嫌い……やないやろ……?」 ただでさえ短いスカートの裾がするりとめくれ、すらりとした太ももが露わになった瞬間―― 「ッ……!」 医療機器のピーピー音が、さっきよりもずっと 速く跳ね 「んふふ……♡ やっぱり正直もん……♡」 「ち、違いますっ! 俺は……」 色々と、伝えてしまう。 「……その、ぉ、お願いがあります……」 愁は熱を抑え込もうと視線を逸らす。 だが、京之介の吐息は甘く艶やかに鼻腔へ入り込み、意識を侵していく。 「んふ……♡ お願いごとぉ……ええけど…… うちのこと、ちゃーんと見て言うてる……?」 ススス……と音を立てて近寄ってくる京之介。 スカートの裾がひらりと揺れ、布地の陰影が目に刺さり、愁は息を呑んだ。 「ぁ……ぅ……」 「両手使えへんからって……それやったら、 そないに畏まって言わんでも……ちゃんと……♡」 ベッドが再び軋み、愁の肩がびくりと震えた。 「ち、違います……そんなんじゃなくて……お店のことです……」 「……お店?」 愁は視線を逸らさず、赤く火照った顔で答える。 「『日向』……俺、腕がこんなで……1週間は使い物にならないから。だから……代わりに誰か、 手配してほしいんです……」 一瞬の沈黙。 京之介の口元に、妖しい笑みが浮かび 「……ふふ、偉いなぁ♪ちゃーんと責任感持って昔のツンツンしてた頃とは大違いやわぁ……♡」 陶器のように清らかな白指が愁の髪に触れ、 撫でる。 「……も……ぅ……子供じゃ、ないんですから……」 両腕が自由でない愁は、抗えない。されるが まま。 「んふふ♡ ええやないの。お願いは、ちゃんと聞いたるし……たまには、こないすきんしっぷも……」 京之介は囁くように言い、身を寄せる。 艶やかに整った唇が、動けぬ愁の唇へとゆっくり迫る。距離はもう一息―― 「ちょ、近い……ですけど……」 「んふ……♡愁には、も、ちょい“慈愛のキス”が 必要やて……思うんよ……ンッ」 紅を含んだ唇が触れる。舌先が甘く絡み―― 「……ッ、ん……ぁ……」 ねっとりとした蜜音が静かな病室に響き。 ピーーーーーー……ッ! 機器の電子音が跳ね上がる。 愁の身体が熱を帯び、四肢に感覚が戻るのが自分でもわかる。  赤い瞳を持つ者の特殊能力。その身体を流れるエナジーは傷を負ったものの免疫力、治癒力を 極限まで高める。昨夜、致死量の負傷をおった 愁が生きているのも、このキスのおかげ……。 本来はもう少しソフトで良いのだが 「ぷ……ぁ、冗談、でも……こんな……」 「冗談……ちゃうねんけど……な……ンッ♡」 慈愛のキスは続く。治癒という大義名分をまといながらも、あまりに濃厚で甘やかなキス。 唇が重なるたび、愁の胸の奥に火が灯り、血が沸き立つ。身体は回復しているはずなのに、むしろ熱は高まり、理性がふわりと遠のいていく。 「……だめ……俺、好きな……大好きな恋人が…… います……から……ぁ……」 懇願の声すら、掠れて熱を帯びる。愁の赤い瞳は潤み、羞恥と熱情が入り混じっていた。 京之介は、そんな愁を見下ろし唇の端を上げて微笑む。 普段の飄々とした艶美さに加え―― まるで恋を知った乙女のように切なくも甘やかな色を宿しながら。 「……うちのこと……お嫁はんにしてくれる言うたん……愁やのに……」 吐息が頬を撫で、声そのものが媚薬のように耳を蕩かす。 「ぁ……あれは、子供のころの話でしょ……それに……俺が相談した時も、親身に……」 抵抗の言葉を必死に絞り出す愁の頬を、京之介の指先がそっとなぞる。白磁のように滑らかな指先はひどく優しく、それでいて触れられた場所が 火照りで痺れるほど妖しい。 「……愁に、恋を知ってほしおして……それに 初恋は破れる言うやろ? 安心してたんよ。 せやのに……」 耳元に注がれる吐息がくすぐったくて、愁の全身が小刻みに震える。 「上手いこといってもうて……うち、イライラしっぱなしやったんやから……」 「そんな……」 か細い声は、拒絶か、それとも甘美な誘惑への降伏か。 「愁は、うちのもんや……」 ベッドがぎしり、と軋んだ。 京之介は愁に負担をかけぬようそっと跨がりながら、その身を甘やかな色香で覆い尽くす。 吐息も香りも、すべてが愁を閉じ込める牢獄で あり、同時に抗えぬ快楽の温床だった。 「なぁ……愁……愁はうちのこと……欲しゅうてたんやろ?」 頬をすり寄せ、唇が耳朶を掠める。愁の喉は熱に詰まり、声にならない声が漏れる――その瞬間。 ――こんこん。 木の扉を叩く音が響いた。愁の身体がビクリと跳ねる。 「愁ちゃんー!お見舞いに来たよッ♪」 勢いよく凛が入ってきた。 次の瞬間には、京之介の姿はふっと消えていた。香りの残り香だけが甘く漂っている。 「ん、どしたの愁ちゃん? 顔真っ赤だよ?」 慌てて首を横に振り、愁は熱の籠もった声で答える。 「ぃ、いや……なんでもないよ……ちょっと熱がある……のかな……はは……」 その笑いはひどくぎこちなく、自分でも誤魔化しきれていないのが分かる。 愁は思った。――京之介は嵐のような人だ。甘美で、強引で、恐ろしく美しい。 そして、自分の人よりも少し複雑な恋路はこの先、果たして無事に済むのか……その予感すら 危うく蕩けるように胸を締めつけた。

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