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第百一話

 凛はしばらくのあいだ、その小さな舌先で唇を重ね、ほんのり甘い熱を流し込み、傷ついた愁の 身体をじわじわと癒していく。 「ん……♡ ね、愁ちゃん、少しずつ顔色よくなってきた……」 さっきまでのしゅん……とした雰囲気は消え。 子どものように、嬉しそうに目を細める凛の表情は、どこか天使めいている。 その笑顔に愁は胸の奥を撫でられるような安らぎを覚え。 やがて凛はゆっくりと唇を離し、両手を膝の上で揃えて、照れ隠しのようにちょこんと首を傾げた。 「今日は……ここまでにするね……♡」 「凛……ありがと……」 「気にしないで……続きは、愁ちゃんが退院してから……ちゃんと“お返し”、してもらうから♪」 そう言って、小さく片手を振り、無邪気に笑う。 その仕草は年相応の可愛らしさと、恋する少年の一途さを同時に含んでいて――愁の胸に、くすぐったい温もりを残した。 ***  静かに病室を後にする凛の背を見送ったあと、 愁は手を握りしめる。 (……凛の、おかげで……) 確かに力が戻ってきている――そんな実感が、 熱く全身を巡っていた。 (……もう、歩ける……かも……) そう思い、ゆっくりと身体を起こす。 まだ痛みはあるが、肩も、腕も、足も問題なく 動く。 愁が立ち上がろうとした、その時―― こんこんこんこんこんこんこん……と木の扉を やたらと叩く音が響いた。 「は、はい……どうぞ。」 回数に驚きつつノックに返事をすると、続いて 扉が開き。 「愁くんっ!!」 そこに現れたのは私服の葵。 ポニーテールを揺らしながら、たたっと駆け寄ってきて―― 「買い出ししてたら、凛くんから連絡あってさ……身体、大丈夫っ!?」 第一声は、彼らしい真っ直ぐな優しさだった。 「ぁ、あぁ……ちょっと落ちたり、滑ったりして、軽くケガをしてしまって、大したことないんですけど念のためって……俺の方こそ、 すいません、こんなとこま……で……ッ」 けれど愁の言葉を遮るように、ベッドに駆け寄り、その胸に飛び込むように抱きついた時―― その腕の震えで、彼の内心が透けて見えた。 「嘘だ……。僕に心配かけないように嘘ついてるでしょ……?」 小さく、けれど確信を突く声。 愁は一瞬で息を詰めた。肩の傷はもう塞がって いるはずなのに、じんじんと疼きが広がる。 それは、罰のように思えた。 理由はどうあれ、大切な恋人に嘘をつこうとした自分への――当然の痛み。愁はそれを受け入れるように、強く葵を抱きしめた。 抱き寄せた腕の奥で、葵の黒髪がさらりと揺れ、上目遣いの瞳が潤んでいる。 その瞳は怒りを孕み、けれど同時に涙が浮かび…… 愁の胸を、鋭くも優しく、貫いてきた。 「……すいません……」 絞り出すような謝罪しか、彼には出来なかった。 「凛くんの言い方も違和感あった……ふたりとも、ウソが下手だ。特に君は……」 葵は頬を膨らませ、しかしすぐに力を抜くと、 顔を愁の胸にそっと寄せる。 「本当は……どうなの……?」 涙混じりの声が、愁の胸骨を震わせ。奥深くに 突き刺さる。 「……日曜日まで……お店をお休みさせてもらえたら助かります……。あの、俺の代わりに明日と、続けて土日は凛が手伝いに……それと――ッ」 言いかけた愁の言葉は、再び抱きしめられて途切れる。 葵の細い腕が、必死に縋るように力を込めていた。 「……途中からお店の心配になってる……僕は、 愁くんのことだけ聞いてるの。」 その声音は震え、少し怒っていて……けれど寂しげでもあった。愁は観念して、息を吐いた。 「……あの……日曜日まで休めば……治ると思います……」 「……うん、いいよ。けど……」 葵は涙を溜めた瞳で見上げる。怒りはもう消え、代わりに深い悲しみが滲んでいた。 「これからは、凛くんにも言うけど……ふたりとも僕を気遣ってウソつくのはやめて。そういうの……いちばん傷ついちゃうから、さ……」 その瞳を見て、愁の心臓が深く沈んだ。 どんな怪我よりも痛い、胸を貫くような痛み。 「……ごめんなさい……」 謝ることしか出来ない。けれど、葵はふっと息を吐き、小さな笑みを零した。 「ほんと……僕の彼氏は、優しすぎて困っちゃうな……」 ――どうすれば、この人を安心させられるのか。 答えは出ない。ただ、愁は真っ直ぐな気持ちを 告げるしかなかった。 「……葵さん」 「……なに……?」 「俺たちだって……永遠にこんな任務をしてる わけじゃない。……少しずつ、終わってきて ます……から……」 自分でも何を伝えようとしているのか、はっきりとは分からない。 けれど、それが確かに本心だと愁は感じていた。 「もし……終わっ、て……全部、終わった時……それでも葵さんが、俺を……好きでいてくれたら…… その時は、俺と……」 言葉が、喉で震える。 ピー……ピッ……ピピピッ……! 医療機器の音が急に跳ね上がり、病室がざわつく。愁の顔は真っ赤で、葵の目は大きく見開かれ、涙が止まっていた。 「俺、と……俺と……」 緊張で言い切れない。唇が震える。 だが、葵はもう察していた。頬を赤く染め、 小さく口を開く。 「な、なにを言おうとしてるのか……わかんない……っ……早く、言ってよ……」 その必死な声に背中を押され、愁は息を呑んだ。 「俺と……ずっと……」 ようやく紡いだ言葉は、震えていても確かな響きを持っていた。 ――その瞬間。  ばたばたと駆け足の音。扉が乱暴に開かれる。 「月見さんッ!大丈夫ですかッ!?」 「尋常じゃない警告が……ッ!」 1階で待機していた医療チームが駆け込む。 鳴り止まないアラーム、点滅する赤いランプ。 だが彼らの目に映ったのは――しっかりと抱き合い、見つめ合ったまま離れようとしないふたり。 固まった空気の中、チームは一瞬顔を見合わせ、そして気まずそうに視線を逸らした。 「……し、失礼しました……」 「……お邪魔しました……」 慌ただしく引き上げていく足音。扉が閉まると同時に、病室に残されたのは、心音のように跳ねる電子音。  葵の瞳にはもう悲しみよりも別の光が宿りはじめていた。 ふ、と堪えきれないように零れ落ちたのは―― 笑み。 「ぷ……あ、はは……っ……凄いタイミングだったね……あはは……♪」 その笑顔に、愁の胸を覆っていた苦しさがゆっくり溶けていく。心臓はまだ激しく打っているのに、不思議と安心感に包まれて、思わず肩の力が抜けた。 「……葵さん……」 「ん?」 「さっきの続き……いつか、必ず言いますから……」 愁の言葉に、葵は小さく息をのむ。 照れ隠しのように視線を落とし、そしてギュッと愁の手を握りしめた。 「……うん……聞かせて。その時は……僕も…… ちゃんと、答えるから……」 頬を染めた葵の声はかすかに震えていて、だけどどこまでも優しく、その声音に触れただけで、 愁の胸はぎゅっと締めつけられ……。 ふたり吸い寄せられるように顔を近づけ―― ほんの一瞬、触れるだけのはずだった唇は、 次の瞬間には熱に引き寄せられ、重なり合う。 「……ん……」 甘い吐息とともに、葵の柔らかな唇が震え、愁の舌を迎え入れた。 触れ合った舌先はおずおずと絡まり、やがて互いを確かめ合うように溶け合っていく。 ――ちゅ……ちゅる……くちゅ……♡ 蜜のような水音が静かな病室に満ち、互いの鼓動が重なり合って響いた。 葵の長い睫毛が震え、涙のような光が瞳に滲む。 「……愁、くん……♡」 名を呼ぶその声は震えて、けれどどこまでも甘く愛おしい。 愁はその声ごと抱きしめるように、唇を深く 重ね、ただひとつの永遠を確かめるように舌を 絡ませ続けた。

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