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第百二話
「……た、ただいま〜……」
朝の四時。ようやくアパートに帰り着いた。
結局……愁くんのお見舞いに行って、そのまま泊まってしまった。
(うん……愁くん、元気で……ほんと、良かった……♡……病院でって、どうかと思ったけど……今日も仕事が終わったら……お見舞い、行こうかな……
だって、僕は……将来、愁くんの……♡)
そんなことを考えながら、フローリングを鳴らさないように静かに廊下を歩く。あんまり寝てないのに、身体はむしろ元気いっぱい。足取りも自然と弾んでいた。
(……あれ?ダイニング、電気……点けっぱなしだったか……)
「おかえりー。葵ちゃん……♪」
「にゃッッ!?」
心臓が飛び出るかと思った。
ダイニングにいたのは、可愛い笑顔を浮かべて
待っててくれた凛くん。
……でも今の僕には、その笑顔がちょーっと
後ろめたく映ってしまって。
「……た、ただいま……ぁ、起きてなくても……良かったのに……が、学校あるんだから……」
目を合わせるのが難しい。けれど、凛くんは僕の目線を追うみたいに顔を傾けてきて――。
「あれ、愁ちゃんから聞いてない? 今日はボクも『日向』のお手伝いだよ♪」
(……あ、そういえば嘘つかれてイライラしてた時に愁くんが言ってたような……すっかり忘れてた……愁くん……あぁもう、ほんとにどれだけ僕
思いなんだろ……♡)
「んー?」
「はぅ!?」
覗き込むように顔を近づけられて、鼻でくんくんされた。小動物みたいで可愛いのに、今の僕にはどうにも罪悪感が刺さる。
「愁ちゃん、元気だったみたいだね♪」
「ぅ……うん、思ったよりも凄……じゃなくて、そ、そうだ! お腹空いたんじゃない?
朝ごはん食べなきゃね!すぐ準備するから……」
慌てて冷蔵庫に向かって背を向けた、その背中に――。
「ありがと……♪でも、ボクは、ちゃんとガマンしたのに葵ちゃんだけズルい……よね?」
「はぅ……」
いつもと同じ元気な声色なのに、妙に圧があった。
「愁ちゃんが戻ってきたら、ボクも……2人っきりで、いいよね……♪」
振り返れない。怖くて。
「も……もちろん。」
絞り出すように返すしかなかった。
ちょっと文句を言おうと心の隅で思ってたのに、全ッ然そんな雰囲気じゃなくて……。
***
そんなちょっぴりピリッとした朝食を終えて、フォーマルな接客服に着替えて、愛車に乗り込む。助手席には同じくベストスーツ姿、首元に
可愛いリボンタイを結んだ凛くん。
真紅のシルビアS15のエンジンをかけると、低い排気音がまだ眠る町を震わせた。
「……行こっか。」
「うん♪」
アクセルを踏み込んで、『日向』へと向かう。
「わぁ……やっぱり葵ちゃん、運転上手いよねー♪ どうやったらこんな上手くなるの?」
「んー、上手いかどうか分かんないけど……」
峠道を登っていくS15。タイヤはアスファルトをしっかり掴み、だけどほんの少しだけ流れるように。
ブレーキとアクセルを絶妙に入れ替えるたび、
エンジンの唸りとタイヤのグリップ音が車体を震わせる。
――グォォン……ッ シューーーッ……!
「頭○字Dが好きでね。真似してたら、いつの間にか出来るようになっちゃったんだ。」
「イニ○ャルD……?」
凛くんは首をかしげる。その仕草が可愛くて、
思わず笑みが零れた。
「ちょっと昔のアニメだよ。洋画ばっか観てるから知らないかも……今度、一緒に観よ? 長いけど、おすすめだから。」
「葵ちゃんのオススメなら間違いないよね♪ 愁ちゃんが退院したら、3人で観よ!」
素直に頷く凛くんは本当に可愛い。
「ふふ……♪そうだね。」
だけど、その時。バックミラーに、珍しく後続車の影が映った。
こんな時間帯に、しかもこの道で――。
「……FD?」
ワインレッドのRX-7。独特のロータリーサウンドが近づいてきて。
「うゎっ……!」
一瞬減速した左コーナー。狭い外側をすり抜けるように、そのFDはシルビアを抜き去っていった。
――シューーーッッ!!!
風を裂く音とともに、赤いボディが峠を駆け抜けていく。
「どうしたの、凛くん?」
「ううん……葵ちゃんも、そのうち分かるよ。」
そう呟く凛くんの様子が少しだけ妙に見えた。
***
『日向』に着くと――凛くんの言ってた意味がわかった。
テラスの下の道沿いの駐車場。
さっきのワインレッドのFDが停まっている。
そして、そのボンネットの上に腰かけていたのは……。
朱を帯びた艶やかな髪。フォーマルな接客服に
包まれたしなやかな身体。
長い脚を組み、どこまでも妖艶に微笑む赤い瞳。
九条京之介さん――。
朝の光を受けてなお、夜の匂いを纏うような
その存在は、駐車場の空気すら支配していて。
思わず僕は、運転席で息を呑んでいた。
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