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第百三話

 『日向』の駐車場に停められたFDを見た 瞬間、心臓がひゅっと縮んだ。 だって、ボンネットの上に京之介さんが座っていて……それを見る開店待ちのお客さんたちの視線が、まるでステージのライトみたいに一点に集まっていたから。  僕はS15を駐車場のいつものとこに停めて、 降りて 「お、おはようございます……あの、ここで何してるんですか……?」 って声をかけるのも勇気がいった。 「おはよう♪ なにて、うちの可愛い愁に、 “この店の手伝いしてくれへんか”ってお願いされたから、来たんやけど?」 ……“うちの可愛い愁”。 その響きに、胸がざわついた。なんだろう…… あんまり気分のいい響きじゃない。 助手席から降りてきた凛くんが小さく 「おはよう、京兄ちゃん……」と声をかけたら、 「あらあら……♡朝から可愛いなぁ、凛ちゃん。おはよう♪」 と撫でるみたいに声をかけて、凛くんが借りてきた猫みたいにしゅんとする。 ……やっぱり、さっきから凛くん変。  それに、周りのお客さんの反応が異常だ。 ざわざわ、ざわざわ……まるで芸能人でも現れたみたい。目立ちすぎるし、これはマズい。 「あ、あの、とりあえず……店に入りましょう!ここじゃちょっと……」 慌てて促すと、京之介さんは艶やかに笑って、 「そうやなぁ。ここやとうちの美しさに卒倒してまう子らが出てもしゃあないしな……行こか♪」 その瞬間……なんだろ、心の中で音がした。 ……これって、あの音かな……人を嫌いになる時の…… ***  とりあえず店の中に入ってもらって、 カウンターに座ってもらった。 「お手伝いって言ってましたけど、こういうお仕事、したことあるんですか?」 恐る恐る尋ねたら、 「――あらへん♪」 満面の笑みで、秒で答えられた。 「じ、じゃあ一般のお仕事は……」 「――あらへん♪」 ……僕も詳しくはないけど、普通なら即落ちだ。 でも、愁くんが僕のために頼んでくれたんだから、ないがしろにはできない。 「……じゃあ、厨房で僕のサポート……お願いできますか……?」 「んふ……♪ 了解。うちはなーんでも器用に こなせるさかい、安心しいや♪」 ……嫌な予感しかしない。 *** 「京之介さん、コーヒー淹れるのは、ペーパーをこう折って……」 説明しても、朱を帯びた髪をさらりとかき上げて、困ったように首をかしげる。 「……こんな薄っぺらい紙、どう折ったらええんやろなぁ? うち、折り鶴しか知らへんで?」 そして本当にフィルターを折り鶴にし始めた。 「ちょ、ちょっと待って!それ違いますから!!」 「そやけど、こっちの方が可愛いやん♪ 添え物にしたら映えるで?」 ……駄目だ、この人。 さらに棚からお皿を出してもらったら―― ガラガラガラガラッッ!!! 山みたいに積まれてたお皿が何故か一気に崩れ 落ちてきた。 「はぁッ!?!?」 悲鳴を上げたのは、ちょうど厨房に入ってきた凛くん。 カシャンッ、カチャッ、シュバッ!って、信じられない動きで全部キャッチして、なんとか1枚も割れずに済んだ。 「……助かったわぁ♡ありがと、凛ちゃん。 やっぱり、可愛い弟は頼りになるなぁ……♪」 頬ずりされている凛くんの顔が、ぐったりしている。 僕は薄々気づいてきてたけど……これが凛くんが朝から浮かない顔してた理由、か……。 そしてさらに京之介さんは、包丁を手に取り…… 「まぁ……うちは小太刀は得意やけど、野菜切る方はさっぱりやなぁ。んふふ……♪」 見せてくれたのは、表面の皮だけを残して輪になった“謎のキュウリ”。 額を押さえる僕。この人を火の前に立たせたら 本当に『日向』が爆発する。そう確信した僕は 「……ダメです。もう厨房には立たないでください……!」 「せやなぁ……包丁はなかなか言うこと聞いてくれへんわ……♪」 笑いながら、言う京之介さんを、客室へ送り出した。 ……ごめんね、凛くん……。 *** ――案の定だった。 「おしぼりどうぞ、お嬢……」 ただそれだけで。店の空気が一瞬で変わった。 差し出す仕草は、まるで聖杯を捧げる巫女。 真っ白なおしぼりが光って見えて、お客さんは両手で震えながら受け取り、 「……き、綺麗すぎて……持てな……ぃ……」 バタンッ!とテーブルに突っ伏しそうになった。 「ちょっ、葵ちゃん!また一人倒れそうだよっ!」 凛くんが慌てて水を持って走っていく。 さらにコーヒーを運ぶ姿は、ただの配膳じゃなくて――舞。 髪がさらりと揺れて、指先の一挙手一投足に 光が宿っているみたい。 「オペラ座の……ラストシーンみたい……」 「尊い……」 テーブルの女性客全員が、胸に手を当てて涙ぐんでいた。 「こちら……ブレンドでおます……♪」 「きゃ……ッ……」 ただの一言で、隣席の女性が小さく悲鳴。 ……いや、恋に落ちる音が聞こえてくる。 そして―― 「お嬢は、甘いもんが似合うなぁ思て…… パンケーキお持ちしたぁ……♪」 「京兄ちゃんっ!注文勝手に推測しないで! やめてよぉ!!」 「んふふ……♪外したんは1割くらいや。あとは めっちゃ喜んではったやろ……?」 「そ、それは……そうだけどぉ!!」 ……凛くんの悲鳴とドタバタが、店内のBGMみたいに響いていた。 ほんと……ごめんね、凛くん……。 ***  夕方、オーダーストップを迎えた頃。 僕も凛くんも、ぐったり……。 だけど店内は……夢見心地の空気だった。 京之介さんが「おおきにどした〜また来てな〜♪」って微笑むたび、お客さんたちは胸を押さえてふらつきながら帰っていく。 「……ねぇ、凛くん」 「なに……葵ちゃん……」 「京之介さんって、いつもあんな感じなの……?」 「……そうだよ……」 「……そっか。愁くん、早く退院できるといいね……」 「うん……」 耳にはまだ、お客さんの余韻が残っていた。 「……美しかった……」 「一生に一度の体験だった……」 まるで、美術館の展示を見て帰るみたいに。 今日の『日向』は、確かにちょっとした劇場だった。

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