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第百十話

日曜日。 愁くんの退院の日。 作戦に必要なものは、昨日の帰り道でぜんぶ揃えた。準備は万端。 あとは――『日向』の激務を僕と凛くん、そして マイペースすぎる京之介さんの3人で駆け抜けるだけ……。 ……だけど。 これがもう、本当に、大変だった。 *** 開店前からずらっと並ぶ大行列。 扉の札を「OPEN」に返した瞬間――ガラガラッ!!カランカランカランカラン!!! ドアベルが鳴りっぱなしで、嵐みたいにお客さんがなだれ込んできた。 そして最初に飛んでくるのは、やっぱり。 「月見くんは!?」 「まさか辞めたんじゃないよね!?」 「そんな……愁様がいないなんて……ッ」 悲痛な数十人の叫び。 “愁くんロス”金曜日から今まで、何百人から聞かれただろ……。 「ぁ、はは……すこーし風邪でして……明日には戻りますから……」 聞かれるたびにそう答えると、店内がふわぁっと安堵のため息で包まれる。 ……けど中には「看病に行かせて!」「住所を教えて!」なんて言い出す人まで出てきて、僕は 全力でスルーする。  そこからはもう、地獄のラッシュ。 次から次に積み上がるオーダー票、お客さんの注文の声は止まらなくて、お客さんの手が上がってない間がない。 時折、凛くんに助けてもらいつつ、僕は何個も 並ぶフライパンの上でパンケーキをひっくり 返し、ふわふわ卵を焼いて。 パンケーキや、ふわふわ玉子を焼く音が、 じゅわじゅわ響いて、グラスに氷を落とす音が カランカランと混ざる。お皿を下げる足音と、 新しい水を運ぶ足音、そんなのが全部重なって もう頭が混乱しそうだった。 そして凛くんは凛くんで、汗だくで客室を走り回って、息を弾ませながら注文の品を配ってた。 「葵ちゃん!アイスコーヒー9つ追加ッ!!」 「わ、分かってるっ!凛くん、そのパンケーキとサンドイッチ、テーブル3に!」 「う、うんっ!……あぁぁッまた注文ーー!ただいまーっ!」 ――そんな戦場の只中で。 「んふふ……♪ほんま、よう来てくれはるわぁ」 京之介さんは、余裕綽々。 マダムに囲まれて談笑したり、写真撮られたり、まるで芸能人みたいに笑って……それでいて、 さらっとオーダーを受け取って、いつの間にか僕らの横に置いていく。 手伝ってるのか振り回してるのか分からない。 でも、いつの間にか片付けや配膳をちゃっかり済ませてるから余計に腹立つ。 「あ、京之介さん……これ、テラス5に運んでくださいっ!」 「ええよぉ〜♪」 そう言ったくせに、ニコニコしながら別の お客さんの席で写真を撮られてたりする。 ……ほんとに、この人、自由すぎる。 けど、振り回されてるのに仕事はちゃんと回ってる。……ずるい。腹立つ。 でも、頼もしい……。  結局、汗だくになって「もう無理かも」って 何度も凛くんと目で訴え合いながら―― なんとか――ほんとに、なんとか駆け抜けた。 「……っはぁぁぁ……」  オーダーストップを迎えた瞬間、僕は厨房の 椅子にへたり込み、凛くんはカウンターに 突っ伏した。 京之介さんだけは、涼しい顔で髪をかきあげ、 妖艶に笑って。 「愁、待ってんで……?」 「「はっ……!!」」 呟いた一言は僕らを動かすには充分だった。 足を震わせながら、片付けを始める。 ……だって、愁くんが、待ってるから……。 この一点だけは――きっと3人同じ。 京之介さんの一言から、僕ら3人はパパパっと 片付けを終わらせて、『日向』を後にした。 *** 「ぁ……♪ おかえりなさい……♪」 玄関のドアを開けた瞬間、ぱたぱたとスリッパの音。 出迎えてくれたのは、いつもの猫ちゃんエプロン姿の愁くんの、いつもの赤い瞳をふんわりと細める柔らかな笑み。 ……もう、それだけで胸がいっぱいで、疲れなんて無くなった。 「はぅぅ……ただいまぁぁ……!!そして、おかえり愁くぅぅんッ!♡♡」 「愁ちゃぁぁん♡♡」 僕も凛くんも、革靴を蹴り脱いで、彼の胸に飛び込む。 ぎゅうぅぅぅぅ♡♡♡ってしがみついて、 すりすり……。 「ふふ……♪ 毎日、会ってたんですけどね……」 そう言いながらも、愁くんは僕ら2人をしっかり抱きとめてくれた。 ……甘えさせてくれる……あったかい……♡ 「お邪魔してんで……♪ 愁、そのエプロン、 よう似合うてるわぁ……♡」 気づけば京之介さんも愁くんの背後から抱きついて、首筋をすんすん嗅いでる。 「ぁ……京之介さん……くすぐったい……」 ちょっと赤らんだ頬で笑う愁くんが、可愛すぎて……僕の頬は、ちょっと膨らんだ。 そして―― *** 「どうぞ♪」 そう言って案内されたダイニング――。  テーブルいっぱいに並ぶ愁くんの料理の数々。 電気の灯りに照らされて、どれも宝石みたいに 輝いてた。 「わぁぁぁぁッ……!」 僕も凛くんも思わず声を上げる。 「これ……愁ちゃん、一人で作ったの!?」 「ふふ……♪頑張ってくれたみんなのために、 俺も、頑張ってみたよ……♪」 僕らは吸い寄せられるように席につくと、 「いただきますっ♪」 「いただきまぁすっ♪」 「いただきます……んふふ♡」 3人の声がぴたりと重なって、愁くんのご馳走を囲む食卓が一気に温かさで満ちた。 ローストチキンの皮はパリッパリ、切ればじゅわっと肉汁。 「凄い……香りだけで幸せになる……♡」 僕が呟くと、凛くんは「手羽はボクの……いいよね……ね♡」なんて聞きつつ、既に切り分けた 手羽を自分のお皿によそってた。 色とりどりのサラダは、トマトもアボカドも瑞々しくて本当に綺麗……。愁くんの料理を一皿一皿何枚もスマホで撮影する京之介さんは 「あぁ……愁の料理……もったいなくて……食べられへん……」 なんて言ってて、すぐに愁くんに 「いっぱいありますから、たくさん食べてくださいね!」ってスマホを没収されてた。 愁くん、強い……。 そしてグラタンはスプーンを入れると、チーズがとろぉ……。 「っあつぅぅ……でもおいひぃぃ♡」 凛くんが舌を火傷しそうになって、それでも食べるのを止めない凛くんが可愛らしくて僕は笑い転げた。 更に煮込み鍋からは、ごろごろ野菜と柔らかい牛すね肉のビーフシチュー。 ルーの香りが濃厚で、ダイニング全体が優しい匂いに包まれる。その味に、京之介さんも頬を抑えながら 「もぐ……んん……お肉、溶ける……最高や…… 今まで食べた、ご飯の中で1番美味しいわぁ……♡」と幸せそうな笑みを浮かべて。 そんな中、ふわりと差し出されたお椀。 赤出汁の味噌汁。豆腐とわかめ、三つ葉の香り。 洋食の中にひとつだけ混ざる和の温かさ。 愁くんは、その御椀を僕と凛くん、そして 京之介さんの前にコトリと置いて少し恥ずかし そうに目を伏せた。 「せっかくなので、ちょっと……作ってみました。きっと、勝てないですけど……」 一瞬、空気がやわらかく揺れた。 京之介さんは――目を見開き、それから、かすかに笑って。 「覚えとってくれたんや……」 胸元のシャツを、そっと撫でてた。 ……なんなんだろ? ちょっと不思議だった……。 けれどそんな不思議も最後に出された、 小さなデザートのガラスカップにのった手作り プリンが吹き飛ばした。 だって……カラメルが、とろりとかけられてて、 ちょこんってホイップと苺がのってて まるで僕に「早く食べて♪」って催促してるみたいだったから……♡ パクリ……。 「はむっ……んん……美味ッ♡」 それは口に含むだけで、ふるんって甘く蕩けて……僕のお腹が、きゅんって満たされていく 最高な味だった。

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