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第百十八話
朝食を済ませ、接客用のフォーマルな制服に着替え、シルビアの助手席に座って店へ向かっても。
『日向』に到着し、自分の復帰祝いにと大行列を作る常連や新しい客たちの姿を目にしても。
開店準備に追われながらも笑顔を浮かべ、愛想を振り撒いていても――愁の心は晴れなかった。
恋人の葵を不安にさせた自分は、最低だと思っていたからだ。
凛とのことも。京之介とのことも。理由はあれど、繰り返す自分の弱さが情けなくて。
(……ほんと、最低だ……俺。態度にも出てるんだろうな。葵さんも、ちょっとよそよそしい……)
それでも店が開店し、客席に呼ばれれば、立ち止まることは許されない。
「月見くん、こっちお願いね!」
「ねぇ、月見くん!また写真、一緒に撮ってもらっていいかしら?」
「サイン……なんて、もらえたりします?」
席ごとに呼ばれては注文を取り、屈託のない
笑顔でカメラに収まり、差し出されたスマホに
応じてみせる。
「連絡先、交換しませんか?」と囁かれれば、やんわりと微笑んで断る。
そんなやり取りを続けながらも、愁の胸の内はずっと重苦しいままだった。
ふいに、背後から低く甘い声が忍び込む。
「んふふ♡ どないしたん……愁。今日は
ずっーと、考え事してるみたいやな……」
振り返れば、客席のマダム達を虜にして戻ってきた京之介がいた。
艶やかな仕草ひとつで周囲の視線を攫い、
ひらりと手を振れば「九条様〜♡」と黄色い声
が飛ぶ。
京之介がいるだけで、店内の空気がきらめいて華やぐのが分かる。
愁が復帰したのに、どうして今日も店にいるのか。今朝、アパートを出る時に尋ねれば、
「好きな人の傍におりたいって思うん、普通
やん……?」
と。それだけじゃなく、以前から組織に根回し
して、愁の近くに居れるようにしたのだという。
京之介に、頬を染めて
「毎日は、無理やけど……ちょいでも傍におりたい……」
と乙女のように言われてしまえば、愁に拒むことなどできなかった。
(……こういうところ、俺の甘さなんだろうか……)
「……なんでもありません。お仕事中です、集中してください。」
小声で返せば、京之介はくすっと笑った。
「なんでもあらへんことは、あらへんやん……。うちのことで葵ちゃんとギスギスしてるんやろ。チョコのこととか……」
「……っ」
「悩んでるんは、自分の優柔不断さやろ?
葵ちゃんにそないな思いをさせてもたこと……
ちゃう?」
核心を突かれ、胸がざわついたその瞬間。
「月見く〜ん! お願いしま〜す♪」
「おかわりをいただけますかしらー、九条様!」
「九条さーん、こっちにも来てくださーい!」
客席から、一斉に声が飛ぶ。
愁と京之介、それぞれを求める視線と熱気に
包まれて、逃げ場はない。
「んふ……集中せなあかんえ、愁♪」
耳元に甘く囁かれ、愁は胸を押さえながら、
「ッ……はい、ただいま……!」
逃げるように客席へ足を向けた。
***
夕方、『日向』のオーダーストップの時刻。
平日だというのに、京之介が店にいるだけで休日並みの賑わいだった。
ホールは笑顔と熱気で溢れ、愁は息をつく間も
なく客席を回り続けていた。
けれど、その忙しさのおかげで余計な考えを押しのけられている自分に、少しだけ救われている
気もした。
隣に立つ京之介は、疲れを見せるどころか、
相変わらずの余裕と艶やかさで客席を沸かせ続けている。
「ぁ……なぁ」
その横顔がふと愁に向けられ、少し真面目な響きを帯びた声が落ちてきた。
「愁……お昼の続きやけどな……葵ちゃんを責めたらあかんよ?」
「……そんな気なんか……」反射的に口を開いた愁に、京之介は穏やかな笑みで返す。
「のうてもや。愁が己を責めるのは……結局、
葵ちゃんを責めるんと同じになってしまうんと
ちがう?」
言葉に詰まり、愁は息を止めた。
その通りだと思った。だからこそ、朝からの葵のよそよそしさも、痛いほど腑に落ちてしまう。
「けど……俺が、不安にさせるようなことをしてしまうから、葵さんは……」
苦しく吐き出した声に、京之介はふわりと微笑みを添える。
「好きが大きければ大きいほど、不安も増えるもんなんやろな。……どれだけ完璧にふるまっても、消えたりはせぇへん。恋って、そういうもんやろ?」
そして彼は、ほんのり頬を赤らめながら続けた。
「まぁ……うちが言える立場やないけどな……。
葵ちゃんのおかげで、うちは、あんたと愛し合えたわけやし……」
その瞬間、普段の妖艶さではなく、まるで花が
開いたような笑顔が浮かぶ。愁は思わず見とれ、胸がきゅうと締めつけられた。
「……京之介さん……」
そして彼は急に、少し早口で問いを投げてきた。
「……愁は……憶えてへんかもしれんけど……うちと
したこと、後悔してる……?」
憶えていない――と言えば嘘だ。
ただ昨夜のことは、夢のように曖昧で記憶が薄いというのが真実……。だが確実に、幸せを感じた事は憶えている。
「……後悔してない、と言ったら嘘です……。
けど俺は……酔ってても、特別な好意がなければ……その、しないと……思うので……」
愁は、頬が熱を帯びるのを自覚しながら、
真っ直ぐに京之介を見上げ。
「これ、くらいで……許してもらえますか……?
俺……ちゃんと、責任は取りますから……。」
京之介の顔も真っ赤に染まり、唇が小さく震えた。
「ん……ふふ……♡ ええよ。……この約束、破ったら、許さへんけど……」
そう言って、彼はそっと近寄り、愁の小指を自分の小指でからめ取る。
その仕草は、あまりにも可愛らしくて、愁の胸の奥を熱で満たし。
「……ふふふ♡ ほんで――」
微笑む京之介は、まるで光をまとうように美しかった。
そして、その光景をまだ残っていた客たちが
一斉に目撃し――大騒ぎになる。
「きゃああああ!! 今、今、指切りした!
結婚の約束!?」
「愁くんが赤くなってるぅぅ! 天使! 尊いぃぃ!!!」
「これは京之介様が攻め! 絶対攻め!」
「月見くんが攻めに決まってるだろうが!! 見ろあの九条様の尊い照れ顔をっ!!」
「ぉ、お、落ち着きなさぃ貴女達ッ!ここは
リバですわッ!!摘んでっ、摘まれての素敵な
マーチッ!♡♡♡」
「うわあああッッ! どっちでもいいッ! 2人とも最高ッッ!!!」
客席は拍手と歓声とマシンガンの様なスマホの
シャッター音で揺れ、戦場さながらの熱狂ぶり。
「ッ……」
「んふ……♪ほら、行っといで……!」
愁は耳まで真っ赤に染めながら、京之介に押され、逃げるように厨房へと戻っていった。
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