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第百十九話
厨房に足を踏み入れた愁の視界に、皿を洗う
葵の背中が映った。
水音と食器の触れ合う音が、やけに大きく響いて聞こえる。
扉が開いた気配に気づいたのか、葵がふと振り返り。
「ぁ……愁くん……」
その表情はどこか浮かなくて、すぐに視線を
シンクへ戻し、皿を洗いながら小さく尋ねられる。
「……どうしたの……?」
その声に滲む寂しさが、愁の胸を締めつけ……。
瞬間――京之介に背中を押される直前の言葉が、
頭の奥でよみがえる。
「……ふふふ♡ ……ほんで、今日は葵ちゃんに
やさしゅうしたるんやで……客室はうちに任して、な……♪」
おどけた調子の囁き――。
けれど確かに、それは愁の心を突いて。このままでは駄目だと。葵に寂しい顔をさせてしまうなんて、あってはいけない。
そう意を決して、愁はシンクに並ぶ。
「ぁ、の……手伝います……!」
思わず、少し声が上ずった。
「ぇ……あ、うん……ありがと……」
葵は、わずかに驚いたように目を丸くし、それから小さく笑って頷いた。
――けれど、愁が思う様に物事は進まず。
ただ隣に並んで食器を洗っているだけなのに、
愁の胸は熱く震え、逆に言葉が出てこなかった。
カチャカチャと食器が触れ合う音と、水に溶ける泡の匂いだけが、静かにふたりの間を満たして
いく。
「ぁ……あのさ……」
その沈黙を破ったのは、葵だった。
「は、はい……」
声が少し強張る。
「……ごめんね……僕が、余計なことしたから……」
葵の唇からこぼれたのは謝罪。
その言葉に、愁の心が強く揺れた。
――そんなことを言わせたくない。葵は何も悪く
ない。悪いのは、自分だ。
「謝らないでください……」
とっさに返す声は震えて、葵が「でも……」と
俯いた瞬間、愁は泡に沈む皿を置き、迷わず
その手を探した。
水の中で触れた指先に、思わず胸も震える。
温かくて、弱々しくて、それでも必死に頑張っている手。ぎゅっと握りしめると、葵が小さく息をのんだ。
「……もう、お互いに自分を責めるの、
やめませんか……」
愁の声は、掠れるほどに真剣だった。
「凛も、京之介さんも……最初は兄弟みたいに好きだって思ってました。けど、それが少し違う
形に変わって……戸惑ったけど……」
ほんの一瞬、視線を泳がせ、それでも葵の瞳を
まっすぐに見つめる。
「嫌じゃなかったし……俺、葵さんのせいだなんて、これっぽっちも思ってませんから……」
水面の泡が、ふわりと弾ける音がやけに響いた。
葵は戸惑いながらも、繋がれた手を握り返す。
震える指先に、愁の鼓動がそのまま伝わってくるみたいで。
「……ぁ、はは……♪なんだよ、その変な告白……」
綺麗な瞳を潤ませて笑う葵は、まるで陽だまりのように眩しかった。
愁は堪らず身を寄せ、肩をほんの少し触れ合わせるようにして囁いた。
「俺、すぐ流されるし……葵さんを不安にさせてしまいましたけど……」
水の冷たさも、泡のぬるりとした感触も、すべてが甘さに溶けていく。
皿を洗う手を止めたふたりは、その場でそっと額を合わせ、小さな約束を交わすように水の中で指絡め合い。
「ずっと、傍にいますから……」
言葉を絞り出すようにしながらも、瞳は揺るがず葵を見つめ続け。
「俺……葵さんの傍、離れませんから……」
その告白は、重さを帯びていた。けれど同時に、愁の真っ直ぐなやさしさそのものでもあった。
葵は一瞬だけ伏し目がちになり……やがてふっと微笑んだ。
「……うん♪やさしすぎる彼氏だけど……それが
愁くんだし……そういうとこが、大好きだし……」
握られた手を、そっと親指で撫でる。
「……たとえどんなことがあっても……僕も、
愁くんから離れなぃ……」
その言葉に愁の胸が熱く締めつけられ、思わず葵を抱き寄せてしまう。泡立つ水音の中で、濡れた手のまま強く抱きしめ合うふたり。
「……葵さん……」
「ふふ……でも……いちばん、大切にしてょ……?」
「はい……」
額を合わせたまま交わした微笑みは、世界で
いちばん甘くて優しかった。
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