126 / 173

第百二十六話

 夢みたいに幻想的で、初めての経験と発見で いっぱいだった水族館を満ち足りた気持ちであとにして、ボクたちはそのまま電車に揺られて、 賑やかな繁華街へ向かった。  朝から少し早めに待ち合わせたのは、水族館をゆっくり回って、そのあと街でもたくさん遊びたかったから。 ……愁ちゃんと……街デート……♡ そう思うだけで、胸がそわそわして、電車に 揺られる時間すら愛おしく感じちゃうんだ。  昼の街は行き交う人でいっぱいで、賑やかだった。でも――ボクにとっては、そんな喧騒なんて ぜんぶ霞んで見える。  だって街で見かけるたくさんの誰よりも 愁ちゃんは、かっこよくて綺麗で……そして、 ときどき見せる無防備な笑顔が可愛くて。  通りすぎる人たちが、何度も振り返っていくのがわかる。視線を集めているのは、間違いなく 愁ちゃん。 そのことがちょっとだけ誇らしくて、胸の奥で 甘い優越感が膨らんでく―― ……だって、その愁ちゃんは今、ボクの隣を歩いてくれてるんだもん……♡  夢中で横顔を見つめていたら、愁ちゃんがふっと声をかけてきた。 「凛、そろそろお腹空いたんじゃない?」  柔らかな声に慌てて首を振る。 「ううん……ちっとも……愁ちゃんと一緒だから……」  そう答えた瞬間――ぐぅぅ……って、裏切るみたいにお腹が鳴ってしまって。 「ほぁッ!?」 真っ赤になったボクを見て、愁ちゃんはくすりと笑って。 「なにか食べたいのある……?」  その笑みがまたやさしくて……胸が高鳴って 仕方ない。視線を逸らしながら、熱い頬を隠す ようにして。 「あぅ……そ、それじゃ……」  小さく希望を伝えると、愁ちゃんは迷いなく頷いてくれた。 それだけのことなのに、世界でいちばん大切にされてる気がして――ふわふわしてしまう足取りで、ちょっと歩いて、ネットで調べておいた イタリア料理のお店へ。 ***  繁華街の騒がしさから少し外れた路地に、 レンガ造りで古めかしくて、小さいイタリア料理店があった。  外壁はところどころ色あせていて、窓辺には 鉢植えの花が並んでる。 『dolci innamorati』って看板も派手じゃなくて、むしろ控えめなくらい。 「……凛、ここで間違いない?」 「たしかだよ……。住所も、お店の名前も……」 だけど、柔らかなランプの灯りが扉の上で揺れていて……開店してるのは分かった。 「そう、なら入ってみようか……なんだか、 美味しそうな匂いがするし、ね♪」 「うん……♪」  木の扉をくぐると、お店の外まで香ってたオリーブオイルと焼き立てのパンの香りが、ふわっと広がって胸がくすぐられる。 ……でも同時に、ちょっと想定外の壁とぶつかった。  案内された席は、本来は向かい合うはずの テーブルなのに、小さなお店だから椅子が ずれて、ほとんど横並びみたいに座る形になった。それは嬉しくて、実はこの席の写真を見て お店を選んだって言ってもいいくらい。 だって、愁ちゃんと自然にくっつけるから……。 でも、問題はここから――  ボク、ファミレスとか、マックとか、ケンタなら何度も行ったことあるし、大好き。 なんだけど……自分で選んでおいてなんだけど、こんな本格的な洋食――それもイタリア料理なんて、初めてで。  写真も説明もない分厚いメニューを開いた 瞬間、目が泳いでしまった。 「……なんだか、むずかしそう……ぺ、ぺポーソ……?」 小声でつぶやいたボクを見て、愁ちゃんが横から覗き込んで、少し考える顔をする。 「ペポーソって、たしかお肉を煮込んだ料理だよ……ちょっと辛いんじゃないかな」 「え、えぴぐら……みー?」 「エピグランミ……かな。子羊のお肉で作ったカツ……じゃなかったかな」 「ら、らばとん……?」 「……それ、グラタンじゃない?」  もう、恥ずかしくなるくらい噛んでばっかりなのに、愁ちゃんは笑わずに優しく答えてくれる。 「愁ちゃん、すごい……なんでそんなにわかるの?」 「すごくはないよ。前に料理の本を読んで…… 少し覚えてただけ。味はリクエストされたこと ないから、はっきりはわからないけど……」  でも、料理の具体的なイメージまでは浮かばないみたいで、愁ちゃんは一度だけ「うーん」と 目を伏せてから――ふっとボクに視線を戻して、 やさしく微笑んだ。 「……凛、コースにしてみない? それなら間違いないと思うし……ふたりで一緒に楽しめるんじゃないかな?」  ――いっしょに。 その言葉だけで胸がきゅんと熱くなって、自然に頷いてしまった。 「……うん。愁ちゃんと同じなら……それがいい♡」 その瞬間、なんだか背筋の緊張がふっとほどけて、心があったかくなる。 コース料理……って響きも、なんだか大人っぽくて、特別感があって。 愁ちゃんが隣にいるからこそ、ボクも安心して その世界に飛び込める。  やがて運ばれてきた前菜は、小さなお皿に少しずつ盛りつけられたカラフルな料理。 フォークを手に、そっと口に運んでみた瞬間、 驚くくらい優しい味が広がった。 「……おいし……!」 思わずこぼした声に、愁ちゃんがボクを見て、 静かに笑った。 「うん、美味しいね♪」 パスタも、メインのお肉も、デザートのケーキも……どれも全部、僕にとっては新鮮で、夢みたいで。 一口食べるたびに「ね、愁ちゃん!」って顔を 向けてしまう。そのたびに、愁ちゃんは少し照れたみたいに、でも嬉しそうに頷いてくれる。 ときどきフォークを伸ばして同じものを味見し 合ったり、ソースが口についてると愁ちゃんが 笑いをこらえたり……そんな小さなやりとりが、胸の奥を甘く満たしてく。 ***  最後のティラミスまで食べ終わって、お会計を待っていると……不意にお店の奥から、綺麗で 大人な感じの、多分オーナーみたいな人が出てきて。 「失礼を承知で……しばらくおふたりに見惚れておりました。まさに、うちの店名にふさわしい おふたりですね……ははは♪」 そう言われて、ボクはきょとんとして。 愁ちゃんも一瞬きょとんとしてから、照れたように小さく笑って「それは……どうも」と答え、 お金を払い、ふたり並んで店を出た。 昼下がりの光に包まれながら歩き出す。 「ごちそうさま、愁ちゃん。とっても美味しかった♪」 「……うん。けど、お店選びが良かったから…… ありがと、凛……。」 そう答える愁ちゃんの頬はまだ赤く染まってて……。 「ね……お店の名前の意味って?」 「さ、さぁ……ちょっと適当に答えちゃったから……」 「そうなんだ……じゃあ……」  気になってスマホで検索してみた瞬間―― 「ぁ……」 声が漏れて、ボクの顔も熱くなった。 でも、不思議と恥ずかしさよりも嬉しさの方が 勝ってた。  だって……愁ちゃんとボクが、誰かから見て、 “そう”だと思われたんだ。  それが、美味しかったティラミスより胸の奥を甘く満たして、どうしようもなく幸せな気持ちにさせてくれた。 ***  そんなことがあって、『dolci innamorati』 を出たあとの街は、ぜんぶが宝物みたいに見えた。 洋服屋さんの前に並んだ服を見て、 「愁ちゃんに似合いそう」って勝手に想像して 胸がどきどきしたり、雑貨を一緒に手に取って 指が触れるたびに小さく息を呑んだり。 ゲームセンターじゃ、子どもみたいに真剣に なってクレーンゲーム……愁ちゃんはボクが 欲しいってお願いした、ぬいぐるみの掴む位置とか計算して、なんでか取れないのが納得出来なくて、何度も挑戦して……それが可笑しくて、取れなくても楽しかった。  それから、ふたりきりのデートを許してくれた葵ちゃんへのお土産も選んで。 悩んでいるふりをしながら、実は「愁ちゃんと 並んで歩ける時間」を少しでも長くしたかった。  そうしてあれこれしているうちに、空がほんのり茜色に染まってきて……夕方の街は、昼間の 喧騒が少し落ち着いてきて、ネオンが灯り始めてた。

ともだちにシェアしよう!