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第百二十六話
夢みたいに幻想的で、初めての経験と発見で
いっぱいだった水族館を満ち足りた気持ちであとにして、ボクたちはそのまま電車に揺られて、
賑やかな繁華街へ向かった。
朝から少し早めに待ち合わせたのは、水族館をゆっくり回って、そのあと街でもたくさん遊びたかったから。
……愁ちゃんと……街デート……♡
そう思うだけで、胸がそわそわして、電車に
揺られる時間すら愛おしく感じちゃうんだ。
昼の街は行き交う人でいっぱいで、賑やかだった。でも――ボクにとっては、そんな喧騒なんて
ぜんぶ霞んで見える。
だって街で見かけるたくさんの誰よりも
愁ちゃんは、かっこよくて綺麗で……そして、
ときどき見せる無防備な笑顔が可愛くて。
通りすぎる人たちが、何度も振り返っていくのがわかる。視線を集めているのは、間違いなく
愁ちゃん。
そのことがちょっとだけ誇らしくて、胸の奥で
甘い優越感が膨らんでく――
……だって、その愁ちゃんは今、ボクの隣を歩いてくれてるんだもん……♡
夢中で横顔を見つめていたら、愁ちゃんがふっと声をかけてきた。
「凛、そろそろお腹空いたんじゃない?」
柔らかな声に慌てて首を振る。
「ううん……ちっとも……愁ちゃんと一緒だから……」
そう答えた瞬間――ぐぅぅ……って、裏切るみたいにお腹が鳴ってしまって。
「ほぁッ!?」
真っ赤になったボクを見て、愁ちゃんはくすりと笑って。
「なにか食べたいのある……?」
その笑みがまたやさしくて……胸が高鳴って
仕方ない。視線を逸らしながら、熱い頬を隠す
ようにして。
「あぅ……そ、それじゃ……」
小さく希望を伝えると、愁ちゃんは迷いなく頷いてくれた。
それだけのことなのに、世界でいちばん大切にされてる気がして――ふわふわしてしまう足取りで、ちょっと歩いて、ネットで調べておいた
イタリア料理のお店へ。
***
繁華街の騒がしさから少し外れた路地に、
レンガ造りで古めかしくて、小さいイタリア料理店があった。
外壁はところどころ色あせていて、窓辺には
鉢植えの花が並んでる。
『dolci innamorati』って看板も派手じゃなくて、むしろ控えめなくらい。
「……凛、ここで間違いない?」
「たしかだよ……。住所も、お店の名前も……」
だけど、柔らかなランプの灯りが扉の上で揺れていて……開店してるのは分かった。
「そう、なら入ってみようか……なんだか、
美味しそうな匂いがするし、ね♪」
「うん……♪」
木の扉をくぐると、お店の外まで香ってたオリーブオイルと焼き立てのパンの香りが、ふわっと広がって胸がくすぐられる。
……でも同時に、ちょっと想定外の壁とぶつかった。
案内された席は、本来は向かい合うはずの
テーブルなのに、小さなお店だから椅子が
ずれて、ほとんど横並びみたいに座る形になった。それは嬉しくて、実はこの席の写真を見て
お店を選んだって言ってもいいくらい。
だって、愁ちゃんと自然にくっつけるから……。
でも、問題はここから――
ボク、ファミレスとか、マックとか、ケンタなら何度も行ったことあるし、大好き。
なんだけど……自分で選んでおいてなんだけど、こんな本格的な洋食――それもイタリア料理なんて、初めてで。
写真も説明もない分厚いメニューを開いた
瞬間、目が泳いでしまった。
「……なんだか、むずかしそう……ぺ、ぺポーソ……?」
小声でつぶやいたボクを見て、愁ちゃんが横から覗き込んで、少し考える顔をする。
「ペポーソって、たしかお肉を煮込んだ料理だよ……ちょっと辛いんじゃないかな」
「え、えぴぐら……みー?」
「エピグランミ……かな。子羊のお肉で作ったカツ……じゃなかったかな」
「ら、らばとん……?」
「……それ、グラタンじゃない?」
もう、恥ずかしくなるくらい噛んでばっかりなのに、愁ちゃんは笑わずに優しく答えてくれる。
「愁ちゃん、すごい……なんでそんなにわかるの?」
「すごくはないよ。前に料理の本を読んで……
少し覚えてただけ。味はリクエストされたこと
ないから、はっきりはわからないけど……」
でも、料理の具体的なイメージまでは浮かばないみたいで、愁ちゃんは一度だけ「うーん」と
目を伏せてから――ふっとボクに視線を戻して、
やさしく微笑んだ。
「……凛、コースにしてみない? それなら間違いないと思うし……ふたりで一緒に楽しめるんじゃないかな?」
――いっしょに。
その言葉だけで胸がきゅんと熱くなって、自然に頷いてしまった。
「……うん。愁ちゃんと同じなら……それがいい♡」
その瞬間、なんだか背筋の緊張がふっとほどけて、心があったかくなる。
コース料理……って響きも、なんだか大人っぽくて、特別感があって。
愁ちゃんが隣にいるからこそ、ボクも安心して
その世界に飛び込める。
やがて運ばれてきた前菜は、小さなお皿に少しずつ盛りつけられたカラフルな料理。
フォークを手に、そっと口に運んでみた瞬間、
驚くくらい優しい味が広がった。
「……おいし……!」
思わずこぼした声に、愁ちゃんがボクを見て、
静かに笑った。
「うん、美味しいね♪」
パスタも、メインのお肉も、デザートのケーキも……どれも全部、僕にとっては新鮮で、夢みたいで。
一口食べるたびに「ね、愁ちゃん!」って顔を
向けてしまう。そのたびに、愁ちゃんは少し照れたみたいに、でも嬉しそうに頷いてくれる。
ときどきフォークを伸ばして同じものを味見し
合ったり、ソースが口についてると愁ちゃんが
笑いをこらえたり……そんな小さなやりとりが、胸の奥を甘く満たしてく。
***
最後のティラミスまで食べ終わって、お会計を待っていると……不意にお店の奥から、綺麗で
大人な感じの、多分オーナーみたいな人が出てきて。
「失礼を承知で……しばらくおふたりに見惚れておりました。まさに、うちの店名にふさわしい
おふたりですね……ははは♪」
そう言われて、ボクはきょとんとして。
愁ちゃんも一瞬きょとんとしてから、照れたように小さく笑って「それは……どうも」と答え、
お金を払い、ふたり並んで店を出た。
昼下がりの光に包まれながら歩き出す。
「ごちそうさま、愁ちゃん。とっても美味しかった♪」
「……うん。けど、お店選びが良かったから……
ありがと、凛……。」
そう答える愁ちゃんの頬はまだ赤く染まってて……。
「ね……お店の名前の意味って?」
「さ、さぁ……ちょっと適当に答えちゃったから……」
「そうなんだ……じゃあ……」
気になってスマホで検索してみた瞬間――
「ぁ……」
声が漏れて、ボクの顔も熱くなった。
でも、不思議と恥ずかしさよりも嬉しさの方が
勝ってた。
だって……愁ちゃんとボクが、誰かから見て、
“そう”だと思われたんだ。
それが、美味しかったティラミスより胸の奥を甘く満たして、どうしようもなく幸せな気持ちにさせてくれた。
***
そんなことがあって、『dolci innamorati』
を出たあとの街は、ぜんぶが宝物みたいに見えた。
洋服屋さんの前に並んだ服を見て、
「愁ちゃんに似合いそう」って勝手に想像して
胸がどきどきしたり、雑貨を一緒に手に取って
指が触れるたびに小さく息を呑んだり。
ゲームセンターじゃ、子どもみたいに真剣に
なってクレーンゲーム……愁ちゃんはボクが
欲しいってお願いした、ぬいぐるみの掴む位置とか計算して、なんでか取れないのが納得出来なくて、何度も挑戦して……それが可笑しくて、取れなくても楽しかった。
それから、ふたりきりのデートを許してくれた葵ちゃんへのお土産も選んで。
悩んでいるふりをしながら、実は「愁ちゃんと
並んで歩ける時間」を少しでも長くしたかった。
そうしてあれこれしているうちに、空がほんのり茜色に染まってきて……夕方の街は、昼間の
喧騒が少し落ち着いてきて、ネオンが灯り始めてた。
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