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第百二十七話 

 葵ちゃんや京兄ちゃんとみんなで過ごす穏やかな時間も、もちろん大好き。 でも――今日のふたりきりの時間は、楽しすぎて 胸がずっと弾んでる。 ……このまま「楽しかったね」で終わってしまうなんて……嫌だ。 水族館で唇を重ねた瞬間から、手が触れるたび、肩が寄り添うたび、胸の奥から熱が広がって……気づけば、お腹の奥が疼いてたまんない。 ただ並んで歩くだけじゃ足りない。 ……今日こそ、ひとりで……もっと、愁ちゃんと 繋がりたい…… そう思ったボクは、駅に向かう途中で、ふと足を止めて。 「こっち……」って、 「ちょ……凛、そっちは駅の方向じゃ……」って 驚いてる愁ちゃんの手を引いて。昨日検索して 覚えたばかりの道を、右に左にまっすぐに歩いてく。  そして到着したのは――『Level89』 オープンしたばかりのラブホテルの前。  普通のホテルと違って、高い壁の向こうにあるらしい入口は、中が見えづらい。 そこで足を止めた愁ちゃんが、ほんの少し戸惑った顔をして……ちょっと低い声で言った。 「……凛、ここは……その、つまり……」 胸がぎゅっと掴まれるみたいに高鳴る。 真っ赤になりながらも、ボクは勇気を振り絞って 答えた。 「……そ、そうだよ……だって、デートだもん…… 最後は……愁ちゃんと……し、したい……。」 言葉が口から零れた瞬間、心臓が破裂しそうな くらい暴れ出して……耳の奥まで、自分の鼓動しか聞こえなくなる。 愁ちゃんは一瞬、視線を伏せて。 「でも、葵さんもいないし……」 その小さな声に、僕は思わず震える声で返した。 「……ぁ、葵ちゃんが、いなきゃ……だめ……? ボクだけじゃ……愁ちゃんと、出来ないの……」 「……それは……」 愁ちゃんの頬が、ほんのり赤く染まってく。 でも――「帰ろう」とは言わなかった。 ふたりの間に沈黙が落ちて、そこへ別のカップル何組かが笑いながら通り過ぎてく。 「ねぇ見て、あの子たち……ふふっ、初々しくない?」 「可愛いすぎない……芸能人?」 「ていうか、あのふたり……ひょっとして……」 ……ぜんぶ聞こえてて、顔から火が出そう。 耳まで熱くなって、消えてしまいたいくらい恥ずかしい。 ……ゃ、やっぱり……だめ……なのかな……葵ちゃんがいなきゃ……ボクじゃ…… て、思った瞬間――愁ちゃんがふっと顔を上げた。 そして、僕の手をやさしく引いて……ほんの少し笑って。 「……ここに立ってるのも、余計に目立っちゃうから。……入ろうか。」 その一言に、胸の奥がじんわり甘く熱くなって、目が潤みそうになった。 愁ちゃんが、ボクを受け入れてくれてる……そう 思っただけで、もう幸せで。 頬を真っ赤にしたまま、でもどうしても嬉しくて――ボクはにこって笑って。 「……うん……♡」 ふたりで並んで、不思議な造りの入口をくぐる。 足を踏み入れた瞬間から、日常がふっと遠のいていって……まるで恋そのものに包まれるみたいに、胸がどきどきして止まらなかった。 ***  ロビーに足を踏み入れた瞬間――胸がきゅうって掴まれるみたいに緊張して。思わず愁ちゃんの 腕にぎゅっと抱きついた。 「……愁ちゃん、こ、こういうとこ……来たこと あるの?」 少し間を置いて、愁ちゃんが照れたように小さな声で答える。 「別の用件でなら……屋上から、ばかりだったから……入口から普通に入るのは初めて、かも……」 「……そっか。……ボクも同じ……えへへ、 お揃いだね……♪」  囁くみたいな声で交わしたやりとりが、余計に心臓を鳴らせる。 ただそれだけの会話なのに、まるで秘密を共有したみたいで……胸の奥が甘く震えてた。 ……これなら、いける……っ!  クラシックの音楽が静かに流れているのに、人の気配が全然なくて……。フロントにも誰も居なくて、そこにあるのは光るパネルだけ。 「……凛、これで選べるみたいだよ。」 愁ちゃんが、少し戸惑った声で教えてくれる。 近づいて見てみると、部屋の写真と空き状況が ずらっと並んでいて、選んだらボタンを押して、そのまま横のエレベーターで上がる仕組みみたい。 「わ……凄……」 思わず声が漏れた。 ほんとに、こういうの初めてで……。 「ぇ……こんなにあるの……」  画面に並ぶ部屋はひとつひとつ雰囲気が違っていて。大人っぽくて落ち着いた普通のホテルみたいな部屋もあれば、思わず笑っちゃうくらい 遊び心いっぱいの部屋もある。 そのどれもが新鮮で、映像を見るたびに胸の奥がじんわり熱くなってく。   「……しゅ、愁ちゃん……選んでほしいな……」 勇気を振り絞って言うと、愁ちゃんは少しだけ 伏し目になって、掠れた声で答えた。 「……せっかくなら……凛が好きなの、選んでよ……」 その声音に、ボクと同じくらい緊張してるんだって分かって……頬がさらに熱くなる。 「ほ……ぇ……えっと……なら……」 ふたりで初めて踏み込む世界――そう思うと、 どの部屋も特別に見えて、指先まで震えてしまう。  普通のホテルみたいな部屋は無難なんだろうけど、きっとかしこまって落ち着かなくなる気がするし。 電車内モチーフ……今日は電車に乗って来たから、絶対にイヤ。帰りに思い出しちゃったら 死んじゃう……。 ふわふわのユニコーンがぶら下がるファンタジー部屋も……きっと可愛いけど、雰囲気が出ない 気がする……悪くはないけどね……。 そして……赤と黒の壁に、X字の磔台がある SM部屋。 「……凄……」って心の中でつぶやいた瞬間、変な想像が浮かんできてしまった。 あそこにボクが縛られて、愁ちゃんに鞭で やさしくビシッ、バシッって……。 「ッ……♡」 ちょっと……いや、かなりいいかも……なんて、 頭の奥でとろけそうになって。 “好きな人からの愛の鞭”なんて、考えただけで 足が震えて。 「……決まった? その……後ろ、他の人達、待ってるみたいだから」 愁ちゃんの声に、ビクッと肩が揺れる。 「ふぁ!? うそ……!」 振り返ると、後ろには数組のカップルが並んでいて。 でも誰も文句を言わないし、みんな同じように そわそわして、視線を泳がせて……。 その空気が余計に胸をドキドキさせて、焦らせて。 「ッ……じゃあここッ!」 まともに見ずに、目についたボタンを思い切って押してしまった。 とにかく早く、この場から逃げたくて……。 「いこ……! 愁ちゃん!」 思わず手を引いて、ふたりで駆け込んだエレベーター。 扉が閉まって、鏡みたいな表面に映ったのは――頬まで真っ赤なボクと、同じように照れた顔で視線を泳がせる愁ちゃん。 それでも、ふっと目が合うと、小さく息を吐いて ……恥ずかしそうに、でも優しく笑ってくれた。 ……その笑みだけで、胸の奥がぎゅうっと締めつけられて、心臓が壊れそうに跳ねた。 ***  チン……と鳴って選んだ部屋の階に到着した エレベーターを降りたら、通路はロビーよりも 少し暗くて、壁のランプがぽつぽつと柔らかく 灯ってた。 相変わらずクラシックの音楽が流れていて、その落ち着いた旋律が、逆に胸の高鳴りを煽ってくる。 ……だいじょうぶ……この感じなら…… 指定された部屋の前に辿り着くと、上に付いた 小さなランプが「ここだよ」って知らせるみたいに点滅してた。 「ここ、だね……」 愁ちゃんの声が、低くて優しくて。 「……ぅ、うん……」 ガチャリ、と扉を開けるボクの手は震えてた。 中に入ってみると、普通の部屋の廊下みたいで。 「……あれ?ちょっと、普通……?」  どのボタンを押したのか憶えてないけど、 正直、社長室風の豪華なやつとか、さっき妄想した磔台の部屋とか……そういうのだったら…… もっと良かったのにって、ちょっと思ってしまう。 でも、その時。 「ん……?」 奥にある扉が、妙に気になって……。 足が勝手に、そっちへ吸い寄せられるみたいに 早足になって。 震える手で取っ手を掴んで、横にゆっくり引く。カラリ……と音を立ててスライドドアが開いた 瞬間―― 「にゃッ!?」 そこにベッドはなかった。 木の床。ベッドの代わりみたいに体操マットが 隅っこに1枚。左には掃除用具入れみたいなロッカー。その横から2段の腰ぐらいの高さの ロッカーがずらっと並んでて、反対側の壁には黒板。その前には、ちゃんと教壇まであって……そして机と椅子が八つ、きちんと並べられてた。 ……教室、だ。 どう見ても、教室。 「にゃ、なんで……っ?」 口から勝手に声が漏れる。 「なんでって……凛が選んだんじゃないの?」 ひょいと隣に愁ちゃんが立ってて、少しだけ笑いを含んだ声。 「ち、違うよ……! 慌てちゃって……間違えただけ……!」 一気に顔が熱くなる。だって、この部屋…… 「現実」すぎて……。 「あぁあ……」 ……ボクって、実はこういうのに弱い。 初めて愁ちゃんと結ばれた時も、メイド服って いう「非現実」を纏ってたから違う自分になれて、勇気が出せたんだ。 愁ちゃんが入院した時は、愁ちゃんを癒してあげたくて……慈愛のキスが出来ただけ……。 今日の水族館だって、幻想的な雰囲気に助けられてキスをねだれた……。 例えば葵ちゃんが傍に居てくれたら、負けらんないって、一緒に愁ちゃんに迫れたりするんだけど……居てくれないと、ボクは愁ちゃんに抱いてとも言えない……。  この「教室」。ここは、こういうところに来る人には「非現実」なのかもだけど、ボクの 「現実」に近い。 ……だから、心臓が壊れそうにドキドキしてしまう。 「……間違えたんなら、別の部屋に代えてもらおうか……?」 愁ちゃんは、本当に優しい。 僕の気持ちを察して、そっと逃げ道をくれる。 でも……。 「ううん……ここでいい! ここがいいっ!」 ふるふる首を振って、自分に言い聞かせるように強く言った。 だって、これも克服しなきゃ。 「現実」の中でだって……勇気を出せるはずだから……。 「そ、そう……?」 少し驚いたみたいに、愁ちゃんが目を丸くして。 そんな無防備な表情も、かっこよくて可愛くて――ボクは、愁ちゃんのために変わりたい。 「非現実」に頼らなくても、ちゃんと愁ちゃんに触れられる自分になりたいんだ。 ***  決意したら、胸が苦しいくらいドキドキして 「……ち、ちょっと汗かいちゃったから、先に シャワー浴びてくるね!」 そう言って、気づいたら駆け足で教室のもう一つの扉をカララ……!って開けて、脱衣室に逃げるみたく飛び込んでた。  シャワーのお湯が肩に当たって、つるんって 流れてく。 「……ボク……大丈夫、かな……」 小さくつぶやいた声は、水音にかき消される。 ――いや、逃げちゃだめ…… こんな機会めったにない……バレてないだろうけど、こないだデートって口にするだけでも…… 結構緊張したんだから……。 愁ちゃんの前に立つって決めたんだ。ちゃんと しなくちゃ。 猫っ毛は、もうふわふわにセットしてある。 だから首から下を、ゆっくり、念入りに洗う。 胸も……お腹も……腰も……太ももも。 愁ちゃんに触ってほしいところを、自分の手で なぞっていくたび、熱が広がってく。 お湯を止めた瞬間、きゅうっと静かになった。 浴室から湯気と一緒に出て、丸められて紙の帯 までついた真新しいバスタオルを広げて、 濡れた身体を拭う。 ふわっと布が肌に吸いつくたび、大きな鏡の中の全裸の自分と目が合って―― ……その全部に、愁ちゃんの手が触れるのを想像したら。思わずタオルを持つ手が止まって…… 唇を噛んじゃった。 ……ボクの身体って、葵ちゃんみたいに柔らかくて大きなお尻があるわけじゃないし……。 知らない間に何故か愁ちゃんの恋人になってた 京兄ちゃんみたいに、すらっとしたモデル体型でもない……。  子供っぽい……。そう思ってしまって、胸が きゅうっとなる。 ……愁ちゃんは可愛いって、言ってくれるけど 明らかに大人の魅力がない、それに「非現実」に頼らないと愁ちゃんに迫れない……。 不安で頭がいっぱい……葵ちゃんや京兄ちゃん みたいに、愁ちゃんを夢中にさせられないって……。 「っ……」 でもね……それでも、ボクは愁ちゃんに触れてほしい。たくさん抱きしめてほしい。キスして、 好きだって言ってほしい。 ……だから、頑張らなきゃ。ふたりに負けたくない。負けない…… そう自分に言い聞かせて、タオルを腰に巻いたとき。 ふと視線が大きな洗面台の横の、これもまた 学校にあるみたいなロッカーに止まった。 気になって、そっと手を伸ばしてガチャリ…… と開けてみる。 「こ、これって……」 開けた瞬間、中からのぞいたのは……。

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