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第百三十四話
場末の焼肉屋。
入口の軒下には赤提灯が何個も並び、ひしめき
合うように揺れていた。
煙の匂いと油の焦げる香りが外まで溢れ、戸を
開ければすぐに鼻腔へ突き刺さる。
店内は電球色の裸電球が天井にぶら下がり、
黄ばんだ壁には油が染みつき、換気扇は役に立たず、白い煙がもうもうと漂っている。
二十数人の男たちが座敷やテーブルに陣取り、
あちこちでジョッキを掲げては「かんぱーい!」と叫ぶ。
笑い声、怒鳴り声、肉を焼くジュウジュウという音、ガチャガチャとグラスのぶつかる音が入り混じり、場の空気は熱気でむせ返るほどだ。
中には悪ふざけでジョッキを落として割り、破片が散ったのを見て腹を抱えて笑う者までいる。
――その喧噪の中心。
座敷の上座にあぐらをかき、分厚い腕を
どっしりと机に乗せている四十代の男――塩川。
黒光りする短髪に、日に焼けた頬。黒シャツの
胸元から覗くブランド物のネックレスが、
提灯の灯りを反射している。
その存在感は、周囲を圧倒するものだった。
塩川がジョッキを掲げて大声で叫ぶ。
「おーい! 今夜はこの店、うちらで貸し切りだ! 遠慮すんな! 好きに飲め、食え!」
「「「ありがとざーす!!! 」」」
一斉に上がる野太い声。店員までも仲間のように笑いながらジョッキを合わせ、油でギトギトの
手で皿を並べる。
「カルビ五人前! 」
「ロースも追加! 」
「タン塩、こっち6人前で! 」
「生、10杯いけ!! 」
次々に飛ぶ注文。各テーブルの丸網の上は
たちまち肉の山となり、白煙がさらに濃くなる。脂の跳ねる音が火花のように弾け、狭い空間は
狂騒の渦そのものだった。
そんな熱気の中、塩川の正面に若い男が二人、
正座していた。
まだ二十代前半、目つきにやんちゃさが残る顔。周囲の盛り上がりとは裏腹に、二人は緊張した
面持ちで頭を下げる。
「塩川さん、あざした! 」
「したッ! 」
その声に、塩川は当然のようにうなずき、
ジョッキ残ったビールを喉へ流し込む。ごくごくと鳴る音だけが、不思議と騒がしい店内で耳に
残る。
「……遊び方、考えろよ。」
重く低い声。それだけで若者たちは背筋を伸ばす。
「うちの商売に足がつくような真似、もうすんな。しばらくはおさえてろ」
若者たちはそろって頭を掻き、気まずそうに
笑った。
「わかりました! 」
「した! 」
軽い調子の返事に、塩川の目が細くなる。
片方の若者がためらいがちに口を開いた。
「その……しばらく遊んでるんで、金……いいすか? 」
塩川はジョッキを置き、淡々と一言。
「ジジババから奪った金、まだあんだろ。」
その声は荒げていない。だが重さがあった。
「うす……」
「す……」
若者たちは萎縮し、それ以上は口を噤む。
やがて塩川は、皿の肉をひょいと箸でつまみながら続けた。
「……けどよ。よく金のある家ばっか狙えたな……運が良かっただけか? 」
若者の片方が、隣の首を腕で引き寄せながら笑う。
「いやぁ、こいつが……。ホームヘルパーってやつでバイトして、下見してんすよ。
現金で貯め込んでそうな家を……へへへ……」
塩川は肉を噛みしめながら、呆れたように
ため息を吐く。
「まぁ、いい……。けどよ、金奪うついでに
バラすのはやめとけ。その歳で人バラしてケロッとしてるってのは大したもんだが、後処理が
面倒なんだよ……」
「……っす。」
「へへへ……悪ぃとは思ってるすけど……やめらんなくて♪ 」
「あぁ? 悪ぃだぁ……」
そう言うと、残ったビールを一気に飲み干し、
ジョッキをテーブルにドンと叩きつけた。
「いいか。犯罪ってのはよ、お前らが“悪いことをした”って思わなきゃ、罪じゃねぇんだ」
煙の中、塩川の声だけが鮮やかに響く。周囲のざわめきも一瞬薄れたように思えるほどだ。
「女買うだの、酒代だの、くだらねぇ理由じゃなく――“家族のため”“生きるため”にしたんだって、自分で思っとけ。正当化しときゃ、それでいいんだ……いざって時、そいつが役に立つ。」
若者二人は思わず目を潤ませ、口を揃えて叫ぶ。
「はいっ!! 」
その表情からは、先ほどまでの軽薄さは消えていた。塩川は満足げにうなずき、
「よし!」
短く吐き捨てるように言った。
煙の向こうで脂が弾ける音が、ぱちぱちと散って。
「んふふふ……♪ そないなわけあらへんやん……。」
九条京之介は、静かに座敷の横へ腰を下ろしていた。
誰にも気づかれぬまま、煙に溶け込むように。
朱を差した黒髪が炎のように艶やかに揺れ、
ワインレッドのスーツは煤けた店内の空気すら
美麗に変えてしまうほど異質だった。
塩川が振り向いた瞬間、その喉から飛び出した
声は恐怖に裏返っていて。
「な、なんだお前ッ!!? 」
京之介は頬を緩める。笑みは妖艶で、毒にも似て甘やかだった。
「誰でもええやん……。あんたは死ぬ前に、
こないな綺麗なものを見れたって、無限獄でクズ相手に自慢したらええ……♪ 」
その一言に、塩川の顔は怒りで赤黒く染まり、
怒鳴り散らす。
「ふざけるな! おい、お前らッ!! 誰かこいつ攫って犯……ッ! 」
だが、声は虚空に溶けた。
店内を満たしていた喧噪は消え失せ、耳に届くのは肉の脂が弾ける音のみ。
塩川が立ち上がり、周囲を見回すと……煙の
向こうに並んでいたはずの仲間も店員も、誰一人として声を発してはいなかった。
その代わり、首を失った身体がずらりと並んで
いた。
まるで時間が止まったかのように、立ったまま絶命している者もいれば、机に突っ伏した姿の
まま動かぬ者もいた。床には血が流れず、ただ
不自然に静まり返った屍ばかりが並ぶ。
「ひっ……ひぃッ!!? 」
塩川の背筋を冷たいものが走る。
慌てて向かいの若者二人に怒鳴りつける。
「お、おいッ! お前らもボーッとしてないでッ! 」
だが、返る声はかすれていた。
「ぁ……す……」
「……す……」
顔を上げた次の瞬間、二つの首が同時に床に
転がり落ちる……塩川の目の前で。
「ぎぃッ!?」
恐怖で腰を抜かしかけた時には、京之介はもう
立ち上がっていた。
ヒールが、すらりとした肢体から弧を描き、
刃のように振り下ろされる。
それは塩川の後頭部を叩き割り、轟々と燃える
焼き網へと叩き落とした。
「ぎょがああああががあああああああああッッッ!!!」
肉の焼ける音と同時に、人の顔が炙られる異様な臭いが店内を満たす。脂がはじけて火が移り、塩川の髪は瞬く間に溶け、燃え上がる。
それでも京之介の脚は微動だにしない。
華奢に見える足首から伝わる圧力は、頭蓋を粉砕せんばかりの強さで、塩川の身体を机に捻り
潰す。
「あぎゃッ! あぎゃあああああッ!!!」
断末魔は炎に飲まれ、失禁した身体は獣じみた
痙攣を繰り返す。
京之介は唇を緩め、熱気に照らされた横顔をさらに艶めかせ。
「んふふふ……♪ 慣れとくとええ。あっち
やったら……もっと熱い思うさかい……♪」
やがて、塩川だったものは動かなくなった。
顔面は肉塊となり、火に焼かれながら崩れ落ちていく。やがてその炎は首から下へ広がり、全身を舐め尽くしていった。
京之介はふうと短く吐息を洩らしながら、
ワインレッドのスーツの内ポケットから試験管
ほどの細いガラス筒を取り出す。指先で弄ぶように光を反射させ、4本まとめて無造作に店内へ放り込み店を後にした。
次の瞬間、爆ぜるような光。
炎は通常の火ではなかった。
空気を裂くような音を立て、異様な速度で広がり、朱からオレンジ、そして白に近い高温の輝きに変わり。
わずかな時間で店内全体を包み込み、木材も
鉄骨も、そして肉の残骸すら一瞬で灰に変えていった。
京之介は赤提灯が焼き尽くされて崩れるのを、
しばし立ち尽くして眺めていて。
「んふふふ……♪ 」
(ふたりとも、こないだは頑張ったさかい、
こないな雑仕事は、うちがこなしたらんとね……ん……? )
そして――ピキリ……。
足元から響いたかすかなひび割れの音。
「あら……」
視線を落とすと、愛用のヒールの片方に細い亀裂が走っていた。
眉をわずかに寄せながら、彼はコンコンと床を軽く蹴り試す。折れる様子はない。
「こら、また直しに行かななんかいな……?」
朱を帯びた髪を揺らしながら小さく呟く。
すでに焼肉屋だった場所は、全体が炎の柱に変わり果てていた。
通常の火ではあり得ない速度で燃え広がり、
やがて残ったものすべてを超高温の灰に変えて
ゆく。
「ま……ええか……」
そう言って踵を返す。京之介の後ろには、もう
人の痕跡すら残らない。
(明日も早いし、早う帰って……。そやけど、
部屋に戻っても1人……。愁に、きっす、なんて
してもろたら癒されるかも……癒されるやん♡
ちょい寄ってまおうかなー♡ )
――ただ、彼の前には甘く蕩ける様な幸せ
いっぱいの未来だけが広がっていた。
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