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第百三十五話
土曜の早朝。
喫茶店『日向』の静けさの中、厨房では
葵と凛が開店準備をしていた。
そして客室の方は、愁と京之介の担当。
木のテーブルを一卓ずつ磨いていた愁の背に、やわらかな声が降ってきた。
「なぁ。毎回思うんやけどなぁ……なんで
店終わった後に拭いたテーブルを、また朝も
拭いてるん? 無駄ちゃう? 」
振り返れば京之介が首を小さく傾げ、人差し指を唇に当てている。その仕草は大人の男のもの
というより、計算づくの可愛らしさで……。
愁は一瞬きょとんとし、それから小さく
微笑み。
「……昨日の夜に綺麗に拭いてても、もしかしたら拭き残しがあるかもしれないし。俺達がいない間に、天井から埃が落ちてるかもしれないでしょ?」
愁は吹き抜けの高い天井を指しながら、落ち着いた声で返した。ほんの少し、得意げな気持ちすら滲んだ瞬間――
耳に落ちる吐息に、背筋がぞくりと震える。
「ん〜♡ そうなんや……♡ 賢いなぁ、愁は……♡♡ 」
不意に胸へ、しなやかな腕が回り込む。
すっと抱き寄せられた身体は、強い力に捕らえられ。
「っ……な、なんで抱きついてくるんですか!」
愁は慌てて逃れようとする。けれど、京之介の
細い腕は鋼のようで、愁の抵抗を簡単に受け止めてしまう。
「んふふ♡ そないな賢い愁へのご褒美やん……♡ うちに“はぐ”されて、嬉しない人なんておらへんやろ? 」
耳の奥がくすぐられ、頬が真っ赤になり。
ふと――質問なんて、最初からこのための口実だったのではないかと胸の奥で予感が生まれると同時に、ざわりとする感情も浮かんでしまい。
(……ほかの人にも……こんなふうに……? )
想像してしまい、つい口にした。
「……ほかの誰かにも……こうやって抱きついたり……されたりしたこと、あるんですか……? 」
言った瞬間――「しまった」と心の中で頭を抱える。
だが、もう遅い……。
ぎゅぅ……♡ と、京之介の腕に力がこもる。
「ん〜♡ 気になるんやなぁ?♡ ……安心してや……♡ うち、“はぐ”したのは、あんたと
凛ちゃんくらいやし、これからも……」
ぎゅるりと身体を翻され、愁の視界いっぱいに
京之介の美貌が迫って。
赤い瞳が艶めき、薄い唇がふるんと開き――
「誰にも、うちに“はぐ”なんてさせへん……♡ 」
甘い言葉に、愁の頭は真っ白になって。
心臓が胸を叩き、呼吸すら乱れてしまう。
「……お店のど真ん中で、朝からなにする気ですか……!」
必死に言い返す愁に、京之介は囁くように唇を
近づけ。
「んふ……♡ “きっす”やん……♡ 愁だけに
するんやから……♡」
吐息が唇に触れるほど近くて、もう抵抗なんて
できなかった。
胸の奥が、くすぐったくも熱く疼き。
思い出したのは、昨夜のこと――。
「……昨日も、急にアパートに来て……いっぱい
したじゃないですか……」
自分で言ってしまい、顔がますます真っ赤になる。
「んー、やったけどなぁ……すぐに凛ちゃんと
葵ちゃんに邪魔されて、足りへんのやわ……♡
愛情不足なんやわぁ……♡ 」
京之介が帰った後、寝静まったはずのベッドで、左右から葵と凛にキスをねだられたのを思い出し、何故か今も似た予感がして。
「せやから……なぁ……?♡ 」
低く甘い声が鼓膜を撫でるたび、身体の奥が熱を
持つ。
「ッ……ぁ……」
唇が、いよいよ重なりそうになった――その瞬間。
「あーーーっ!! ふたりだけで、何してんのッ! 」
厨房から出てきた凛の、甲高い声が飛んだ。
「もぉ……凛くん、朝の静かな時間なんだから
大声出さないで……」
葵も厨房から出てきて、一瞬固まる。
「はぅッ!? 」
唇を奪われる寸前だった姿を目にしたふたりは、ものすごい速さで愁に駆け寄り。
「朝から抜け駆けなんて、京兄ちゃんズルいッ! だったらボクも!」
「いや何言ってんの凛くん!! ここは僕が優先
されるべきとこだからっ! 」
両側から抱き着かれ、愁はもうどうしていいかわからない。
その中で、京之介だけが妖艶に微笑み。
「んふ♡ 残念やけど、愁はうちと“きっす”したいんやさかい……なぁ……♡ 」
囁いた瞬間――愁は心の底から確信した。
……今日も、きっと大変な1日になる……と。
***
昼下がりの『日向』は、今日も大行列が出来、客室は常に満席だった。
厨房にはさまざまな音と香りが溢れている。
珈琲の深く芳醇な香り、玉子が焼ける甘やかな
匂い、バターが弾ける小気味よい音、そして包丁がまな板を叩くリズム。
忙しさは戦場のようだが、その只中に立つ葵は落ち着いた手際で、次々と注文をさばいていく。
「凛くん、サラダもうひと皿お願い! 」
「はーい! すぐやるね! 」
呼ばれる前に気配を察して動く凛は、軽やかに
厨房を駆け、葵の手の届かないところを埋めていき。
「葵ちゃん! パンケーキ追加で三つ! 」
「もう焼けてるよ、ほら持ってって! 」
「うわっ、早っ! さっすがーー♪ 」
「凛くん、オムライスのお皿温めてある?」
「もちろん! こっちも準備万端!」
合図もなく交わされるやり取りは、まるで舞の
ように息が合っていた。
熱気に包まれる厨房でも、葵の穏やかな声と
凛の元気な声が飛び交い、そのたびに店全体が
明るさを増していく。
一方、客室側では――
愁と京之介もまた、厨房の熱気に負けないほどの華やかさで、店内を鮮やかに回していた。
――厨房では役に立たないと初日に即判定された
京之介は、結局ホール専属。
しかも「愁とペアが一番回りがいい」という
理由で、こうして毎度コンビを組まされる。
愁は呼ばれれば即座に駆け、接客の場では片膝をついて客を見上げ。
「今日も来てくださって嬉しいです。……いつもので、よろしいですか? 」
柔らかな声音に見上げる微笑み。その言葉だけで、客は頬を染め、身も心も完全にとろけてしまい完全な虜にされる。
京之介はその横で、まるで舞台の花のように
艶やかに振る舞った。
若い客には頬に触れるか触れないかの距離で
手を添え、にこっと笑いかける。
「よう来てくれたね♪ 今日もぎょうさん食べるんやで……うちはぎょうさん食べる子が、好きかもやさかい……な♪ 」
ほんの一瞬の仕草に、触れられてもいない客の頬は真っ赤に染まり、両手で顔を覆いながら放心する。
落ち着いた年代の客には、低く艶のある声で。
「おまたせしました……あら、その装い、よう
似合うてはりますね。旦那様が羨ましいわ……
んふふ♪ 」
深い笑みに赤らむのは、奥様だけでなく隣の旦那様まで。小さな一言で、その場を幸せな空気に染めてしまうのだった。
ふたりが歩くだけで、まるで舞台の上の共演。客席は常にきらめきに包まれていた。
そんな最中――
「ぱきっ」
乾いた音が足元で響き、京之介の身体が傾いた。ヒールが折れたのだ。
「っ……!」
周囲の客が一斉に息をのむ。けれど動ける者は誰ひとりいない。
否――ただ一人、愁だけが即座に反応していた。
盆をテーブルに置き捨てると同時に床を蹴り、
倒れ込むその身体をすくい上げるように抱きとめ。
腕の中に収めた瞬間、衝撃をすべて自分の胸で
吸い込み、京之介をふわりと守りきった。
艶やかな朱を差した黒髪が肩にかかり、細い
体温がしっかりと腕に伝わる。愁の耳をかすめた吐息は、震えを含んで甘く。
「……っ」
京之介の吐息が、愁の耳をかすめる。
その光景に、客室のざわめきは一瞬で静まり
返った。客室内のその静けさに、テラス席の客
まで大きな窓越しに振り返り、誰もが息をのみ。
「……きゃあ……!」
「月見さんが、九条様を……お姫様抱っこ……」
「まるで……宝塚の舞台……美しいわ……」
「……違う……映画の……ワンシーンみたいだょ……」
囁きが波紋のように広がり、店全体が夢に酔う
観客席のようになる。
「ふぅ……大丈夫ですか、京之介さん? 」
優しく問いかける声に、腕の中の京之介は
さすがに羞恥を隠せず、眉を八の字に寄せて頬を真っ赤に染めていた。
普段の妖艶な笑みは影をひそめ、今はただ
美しく照れた瞳が愁を見上げるばかり。
「……か、かんにん……え……うちとしたことが……こないな……」
掠れる声は震え、胸の前で小さな拳をぎゅっと
握る。
「……気にしないでください……。それよりケガは……? どこか捻ったり……」
「胸が……しんどぃ……」
「胸? ……そんなとこ打ってな……」
「いや……ちゃう……。しんどい……いらって、確認して……」
愁の手を自ら導き、胸に置かせる。その下で
高鳴る鼓動が、はっきりと掌に伝わって。
「聞こえる……? うちの鼓動。あんたに、大勢の前で抱かれて……ドキドキ、止まらへんの……」
「っ……京之介さん……」
愁の鼓動まで釣られるように早鐘を打つ。
腕の中の存在は妖艶でも、今は可愛らしいほど
赤らみ、甘い震えを纏っていた。
「……治して……な……早う仕事に戻らなあかん
さかい……な……? 」
囁く声に、距離は自然と縮まっていく。
唇が触れ合う寸前――店全体が、夢見るように静まり返っていて。
「……京之介さん……ほんとに、立ち上がれないんですか……?」
「ん……絶対無理……♡ 愁が“きっす”してくれな……♡ 」
その甘やかな囁きが落ちる、まさにその瞬間だった。
「だからぁーーっ!! ふたりで何してんだよぉぉぉ!!!」
厨房のドアをばーんっと開け、凛が飛び出してきた。
その声の鋭さに、愁と京之介は同時にハッとして――ぴょんっと弾かれるように離れた。
「えっ!? 立てないんじゃなかったんですか!?」
「……あっ……♡ い、今は……立てるみたいやわ♡ 」
さっきまで絶対無理と言っていたはずの京之介は、器用に片足でぴょこんと立っている。
その間にすかさず凛が割り込み、愁の前に仁王立ち。
「愁ちゃん! こんなお客さんの前でベタベタするの禁止っ! ボクとなら……可っ!! 」
ぷくっと頬を膨らませて怒るその姿に――
「きゃあああああっ♡ 」
「凛くんマジ天使……!」
「三角関係!? 三角関係きたぁぁぁ!! 」
「尊すぎる……!! 」
客席は大歓喜。窓越しに覗いていた客まで
立ち上がり、拍手や黄色い悲鳴が飛び交う。
そこへ、厨房から慌ただしい足音。葵が心配
そうに顔を出す。
「何やってるのさ! 3人ともっ! 」
その瞬間、歓声はさらに大きく膨れ上がった。
「涼風様ぁぁぁ……♡」
「いつもは厨房から出てこられないのに……
今日は奇跡……!♡ 」
「見て……あの黒髪……絹糸みたいに艶やか……」
「最高の料理と珈琲を生み出す美料理人……♡」
「京之介様と愁様と凛様を取りまとめられる唯一の存在……天使……!」
「天使だ……! 天使が降臨したぞ……!」
「っ……ぃ、いつから僕、天使なんて呼ばれてたの……」
葵は思わず赤面し、眉を下げて小声で呟いた。
けれど、その胸の奥では――ほんの少し誇らしい
気持ちが芽生えているのを、誰にも隠せなかった。
客たちは拍手喝采、満面の笑み。
舞台のクライマックスのように華やかな騒ぎの中、愁は心の中で小さくため息をつく。
(……やっぱり、今日も大変そう……。
けど……みんなが満足して笑顔で帰ってくれるなら、それでいい……のかな……? )
結局その日も、『日向』は大忙しのまま、
客にとっては夢のように甘いひとときで終わったのだった。
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