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第百三十六話

 営業終わりの『日向』の客室。 片付けを進めていた愁は、ふと京之介の横顔を 見やり、さりげなく切り出した。 「京之介さん、今から靴屋さんに行きましょう。」  その言葉に、紙ナフキンをスタンドに補充して いた京之介が、ひらりと身体ごと振り返る。 赤い瞳が柔らかに揺れて、ぱっと花のように笑みが咲いた。 「……あら……“でーと”のお誘いかいな?♡ 」  その調子に、愁は一瞬、頬がかすかに熱を帯びる。「でーと」という言葉の響きに、ほんの少し胸がくすぐられてしまった。 「……違います。京之介さんのことだから、 折れたヒール、接着剤で貼り付けてまた使う気 でしょ? 」  指摘すると、京之介の頬に咲いていた華は、 そのまま赤みを増して沈んでいき。 唇を尖らせ、子どもみたいに小さく拗ねて みせた。 「……ええやん、もったいないし……」  美しい顔をぷくっと膨らませる仕草は、どこか 凛を思わせて可愛らしく、愁は深く息をつきながらも、心の中では苦笑していた。 「……あのブーツも、ちゃんと修理してもらいますから。もったいなくないですよ? 」  そう言ってもまだ不満げで、ぷいっと視線を 逸らす京之介。 1度決めたら曲げない頑固さは、彼の変わらぬ 性分なのだろう。 (……相変わらず……しょうがない、かな……)  そう思った愁は、ちらりと厨房の方に視線を 走らせる。 葵と凛がまだ忙しそうに立ち働いているのを確かめてから、音を立てて一歩踏み込み―― 「……っ」 タン、と靴音を響かせ、京之介の間合いへ。 予想外の強引さに、京之介の長い睫毛がわずかに揺れた。  愁はそのまま正面から、そっと腕を回して 京之介を抱きしめる。  背筋をぴんと伸ばしている京之介の体温が じんわり伝わり、思ったよりも近い距離で見上げるかたちになる。  渡しておいた予備の革靴を履いた京之介と、 背丈が揃ってしまっていたから……。 「……ゃ、ややな……愁……お昼の続き……? 」  先ほどまで膨れていた頬は、触れ合った瞬間に 力をなくし、京之介の赤い瞳がとろりと揺れ。 愁はわずかに視線を上げ、その美しい顔を見つめながら、小さな声で囁いた。 「……ちょっと、デートするから……  一緒に、靴屋さん……行きましょ……ね?  京兄さん……。」 凛の愛嬌を真似したような、甘やかで高めの声。 普段は見せない、弟のように甘え切った言葉。  京之介の顔がみるみる赤く染まっていき。 瞳が震え、息を詰めるように抱き返してきて―― 「あぁ……♡ 兄さん……って愁に……そう呼ばれんの……久しぶり……♡ 」  熱を帯びた声が洩れた。 その腕は優しくも確かな力で、愁を包み込む。 「……しゃあないな……愁が、そこまで言うねやったら……♡ 」 その瞬間、愁の心臓がきゅうっと鳴った。 「やったぁ……♪」と小さく喜びを見せつつも、胸の奥に残るのは、耐えきれないほどの照れ。 自分でも気づかぬうちに、抱く腕へ力がこもっていた。 (……よし。けど……やっぱり、これは……恥ずかしい、かも……) ほんのり熱に浮かされたまま、愁は小さく息を 吐いて。 (……あとは、葵さんと凛を説得しなきゃ……) 思い浮かべると、今度は心の中でそっとため息。 その抱擁の余韻と、京之介の鼓動の近さに、まだ頬を赤く染めたまま――。 ***  愁は京之介の運転するRX-7の助手席に身を 預け、窓の外に流れていく街並みを眺めていた。 ――目指す先は『コマンシャルモール』。 以前、葵と凛と三人で訪れた場所で、近場でありながら靴屋も多く揃っている。  シルビアよりも少し狭い車内は、音楽もかけられておらず、ただ京之介の香りだけが穏やかに満ちていて。 静けさの中で感じるその存在感に、愁の胸は自然と高鳴ってしまう。 (……それにしても、大変だった……)  街並みに視線を送りながら、愁はつい先ほどの厨房を思い返す。 「京之介と出掛ける」と口にした瞬間、葵と凛のふたりから同時に「デート!」と冷やかされ、「ズルいっ!」と責め立てられたのだ。  その嵐を前に一瞬ひるみそうになったが―― ここで折れてしまえば、今度は京之介がふくれてしまうに違いない。  それが分かっていた愁は、頬を赤らめながらも、ふたりから提示された恥ずかしい代償を受け入れることにした。  そして今、こうしてふたりきりの時間を手に 入れられている。 「んふふ……♡ ふたりっきりで“でーと”やなんて……嬉しいわぁ……♡ 」  ハンドルを握りながら、京之介が微笑む。 その声音に、愁の胸はまた小さく跳ねた。 「……そんな風に言われたら、照れますよ……」  素直にそう口にすれば、京之介はすかさず 笑みを深め。 「ええやん……ふたりっきりなんやし……♡ 」  その甘やかさに、愁の頬はさらに熱を帯びていった。  ――そもそも、愁が京之介を靴屋へ誘ったのは、ただヒールが折れたからではない。 予備の革靴を渡した時、京之介の歩き方がどこか不自然で、危なっかしかったのだ。  京之介は愁たちと違い、装甲服を着ない。理由は「デザインが気に入らないから」。 身を包むワインレッドのスーツは特殊繊維の糸で仕立てられ、防弾・防刃に優れているが、足元のブーツだけは自前。 そして――なぜ折れたのかを問いかければ、昨夜 アパートに来る前に踵落としのような真似を した、と涼しい顔で言うのだから。  接着剤で貼り付けたヒールのまま任務に赴くなど、あまりに危険だ。 「もったいない」なんて、そんな無茶の果てに 京之介が傷を負うことなど、愁には耐えられない。 大切な存在だからこそ――心から守りたいと思ってしまう。 (……それに……)  胸の奥に浮かぶ想いを言葉にはできず、愁は ただ窓の外を見つめ続け。 「あっ……あそこから駐車場に入れますよ」 「んふ♪ 了解〜」  愁の言葉に、京之介が軽やかに返す。 RX-7は静かにモールへと滑り込み、やがて車体を止め。 普段通りの買い物で終わればいい――愁はそう願いながら、深く息を整えた。 ***  モールの自動ドアを抜けると、目の前に広がったのは吹き抜けの明るい広場。  左右には色とりどりの看板が連なり、服飾店や雑貨店、カフェ、アクセサリーショップ…… 華やかな店舗が視界を埋め尽くす。  人の流れも多く、行き交う人々の間を抜けて 歩くだけで小さなざわめきが起こる。  白シャツに黒のベスト、細い紐タイ。脚を 美しく縦に流す黒のスラックス。シンプルな 装いなのに……その艶やかな赤い瞳と、朱の差したボブの黒髪と相まって――京之介は、ただ立っているだけで「美しい……」と大衆に息を呑ませ。 そして、京之介とほぼ同じ白シャツと黒の ベスト・スラックスに身を包み、黒のネクタイをきゅっと締めた愁は、凛々しさと愛らしさが 同居し、誰もが見惚れるしかない。 ――ふたり並んで歩けば、否応なく視線を集めて しまうのだった。 「……」  けれど愁の目に映ったのは、よたよたと不安定に歩く京之介の姿だった。  普段は艶やかなヒールで颯爽と歩く彼が、革靴ではどうにも歩きづらそうで、その姿が少し頼りなく見えてしまう。 (……危なっかしいな……)  愁はそっと歩幅を合わせ、自然な仕草で京之介の手を取った。 「……あっ……しゅ、愁……っ? 」  突然の手の温もりに、京之介が赤くなって振り向く。 「……人混みですから。その……転んだら危ないですし……」 「ん……ふふ……♡ そない優しゅうされたら…… 余計に甘えたなるやん……」  愁の言葉に、京之介は耳まで赤くしながらも、握り返してきて。 その嬉しそうな顔に、愁の胸も少し温かくなる。  やがてふたりは、愁が以前、葵や凛と訪れた時、ちらりと目にして憶えていた靴店の前へ 辿り着く。 「京之介さん、ここなんですけど……」  ガラス張りの扉の奥、壁一面には高級感漂う ブーツやパンプスが整然と並んでいた。 「あらぁ……♪ 愁、ええとこ知ってるやん……」 「ここなら、きっと京之介さんに似合ういいものが見つかるかなって。」 「ほな、早速見てみいひんとね……♪ 」  店内に入るふたり。愁に促され、京之介は試着用の椅子に腰掛け。  愁は壁に並ぶブーツの中から目についたものを一つ手に取り、京之介の前に膝をついた。 「……失礼、しますね」 「ちょ、ちょ……愁……! なんぼうちでも、 靴ぐらい自分で履けるさかい……」  そう言いながらも片足をそっと取られ、愁に 丁寧にブーツを履かせてもらう京之介の顔は、 どこか嬉しげで、その艶やかな赤い瞳が輝いていて。  愁の口から、思わず小さく笑みが零れた。 「ふふ……♪ まるで“お姫様”みたい……」 そう囁いたあと、ほんのいたずら心に揺れて、 京之介だけに届くような声で続けて。 「……このブーツは、どうですか…… シンデレラ? 」  その瞬間、白い頬から耳の先まで、京之介の 美貌が真っ赤に染まっていく。艶やかな姿に 不釣り合いなほどの、可愛らしい羞恥の色。 視線を逸らし、小さく口ごもって―― 「ッ……そ、それやったら……早う見つけな……」 「なんです……?」 愁が首を傾げるように聞き返すと、京之介は ますます赤くなって、わざとらしく咳払いを して。 「な、なんでもあらへん……これ、ちょいデザインうちらしくないわ……次の、持ってきて……」 「?……はい」 不思議に思いつつも返事をして、ブーツやパンプスの並ぶ棚へ視線を向けた。  その背を見送りながら、京之介はぽつりと。 唇の裏側から零れるような、愁には決して届かない声で―― 「……早う見つけてや……“王子様”……♡ 」 誰にも聞かれぬ秘密の囁きは、空気の中へ静かに溶けていき。  そこからの京之介は履き心地を確かめるように何度も立ち上がっては座り直し、次々と試着を繰り返す。 その度に愁がブーツを取りに行き、途中で 「お取りしましょうか?」と店員が声をかけると、京之介は「邪魔するな……ッ!」と言わんばかりの、ぞっとするほどの眼力を放ち、ひと睨みで退けてしまい。 結局、愁が再び膝をつき、京之介にブーツを履かせ――  ふと、愁は顔を上げて問いかける。 「……京之介さんは、どうしてそこまでヒールにこだわるんですか?」  一瞬、京之介が目を泳がせ、それから気まず そうに笑って。 「……最初は……愁の背が伸びて、大きなって しもた時に……おにいとしての威厳、のうなってまいそうやった……から……」  耳まで赤くしながら、正直に言葉を紡ぐ京之介。 「ぷふ……♪ なんですか、その理由は……」  思わず愁が吹き出してしまうと、京之介はさらに真っ赤になり、ぷくっと頬を膨らませた。 「わ、笑わんといてや……! 必死やったんやから……! 」 「ふふ……♪ すみません……でも、ちょっと可愛くて……」  やがて幾度目かの試着で、ひときわ美しい一足が選ばれた。 「んふ……♪ これやな。これが、いっちゃん 似合う気ぃするわ」  深みのある茶色の革に、なめらかな光沢をまとった上質なヒールブーツ。京之介が任務のときに纏うスーツのベストと同系色で、まるで彼のために仕立てられたかのように、ぴたりと馴染んで 見えた。 「うん、京之介さんにすごく似合ってます♪ 」 「んふふ……♪ 」  足元を見ながらの京之介の顔に浮かんだ笑みは、心から嬉しそうで。愁もその笑みに釣られて、思わず頬が緩んでしまう。  レジに進むと、愁は迷いなく自分のカードを差し出した。それは京之介の知る、組織が全員に 支給する無制限のカードではなく、愁自身の、 ただのクレジットカード。  その瞬間、京之介の赤い瞳が細められ、すぐに違いに気づいたことが伝わってきた。 「……愁。なんで、そっちのカード使わんの? 」  低く抑えた声の奥に、真剣な響きが混じる。  胸の奥を突かれて、愁は一瞬言葉を失った。 けれど逃げるように俯きかけた頬を熱くしながら、勇気を振り絞って顔を上げる。 「えと……これは俺から、京之介さんへの プレゼント、ですから……。せっかくなら、 お昼の仕事で稼いだお金の方が、ちゃんとした 贈り物かなって……」  そう言った途端、ますます自分の顔が赤くなっていくのを愁は自覚する。葵や凛に贈り物をしたときもそうだった。大切な人へ心から渡すものに、あのカードを使いたくなかった。 「……それに」 小さく唇を噛んで、続ける。 「京之介さんが……俺と凛の代わりに任務に出てくれてるの、知ってますから……。だから、これは、その……お礼も込めて、です」  言葉を終えたとき、京之介の赤い瞳が潤み、 今にも泣き出しそうなほど揺らいだのが見えた。 「ッ……愁……」  次の瞬間、彼の腕が勢いよく回り込み、愁を 抱きしめる。強く、熱く、震えが伝わるほどに。 「うち……一生大事にする。ほんまに……一生、 大事にするから……! 」  耳元で震えるように囁かれ、愁の心臓は大きく跳ねた。 人目もはばからず、頬に熱いキスが落とされ、 視界の端で店員がそっと目を逸らすのが分かる。 「ちょ……京之介さ……みんな見てますから……っ」 恥ずかしさに声が上ずりそうになる。けれど頬に残る唇の感触と、腕に込められた真っ直ぐな想いが、胸の奥をじんわりと満たしていき。 「……ほんとに、大げさなんだから……」 小さく漏れた愁の声は、震えるほどに甘く、 京之介への想いを隠しきれない響きを帯びて いた。

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