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第百三十七話
新しいヒールブーツを履いた京之介の足取りは、もうすっかり自然なものになっていた。
さっきまでのよろめきが嘘のようで、愁は
その姿に胸を撫で下ろす。
けれど、不思議なことに――
手はまだ繋いだままだった。もう必要ないはず
なのに、京之介の指先がさっきよりも深く、愛情を込めるみたいに絡んできて。愁も握り返し、
言葉にしなくても伝わるものを感じていた。
「んふふ……歩き心地ええ……♪ ありがと、愁……ほんまに大切にするさかい……」
京之介が横目で愁を見て、艶のある笑みを浮かべる。
「ふふ♪ 喜んでもらえたら、嬉しい……。
けど……」
愁は穏やかに答え、少しだけ声を落とし。
「けど、もう少し慣れるまで手は離さないでくださいね。」
「ん……やったら今日は、慣れそうにあらへんなぁ……♡ 」
手の温もりに心が満たされていく。そんな中、京之介の腹のあたりから、ふいに小さな音が鳴った。
「……おや。今の、京之介さんですか?」
「っ……! 聞こえた? うち……お腹、空いてもうた……」
愁は小さく笑みをこぼし。
「何が食べたいです? 」
「うーん……マクドもええけどなぁ……今は、
なんやご飯系、食べたい気分……」
「ご飯系……」
「……牛丼なんてどや? 」
京之介は目を輝かせて愁を見た。
その笑顔に愁の心が和む。思い出す――昔から
京之介は、そういうジャンクな食べ物を心底嬉しそうに食べていた。施設で育った自分たちには、本当は縁遠いものだったはずなのに。
「あー、だったら確か1階にお店がありましたよ」
「ほんま!? やったらすぐ行こっ♪ 」
ふたりが腰を下ろしたのは、モール内にある
チェーンの牛丼屋だった。
制服姿の学生やファミリーが賑わうカウンター席に並んで座れば、京之介の存在感はどう考えても浮いている。
それなのに本人は一切気にすることなく、堂々とメニューを眺めていた。
「すみまへーん! 牛丼特盛つゆ抜きや!
それと、お味噌汁と生卵2つとキムチと……あっ、この唐揚げ一皿♪ 」
注文する声はやけに弾んでいて、愁の胸に笑いが広がる。
「愁は? 」
「じゃあ……並盛で、あとお味噌汁を。
ぁ……つゆ抜きでお願いします」
すぐに丼が運ばれてきた丼を前に、京之介は
紅生姜を山のように盛り、夢中でかき込んでいく。
「……うまっ♪ やっぱり最高やわ……! 」
目を細めて頬を緩める姿は、さっきまで
高級ブランドのブーツを選んでいたのと同じ人物とは思えない。
「ふふ……♪ 京之介さん……本当に美味しそうに食べますね」
自分の丼に箸をつけながら、愁は幸せそうに
笑う横顔から目を離せなかった。
そんな時、京之介がふいに唐揚げを一つ箸で
つまみ上げ、愁の方へ差し出す。
「愁も食べ。……やっぱしそれっぽっちじゃ
足らへんやろ……ほら、あーん♪ 」
「……いいですよ、俺……ちょっと恥ずかし――」
言いかける愁の言葉を遮るように、京之介は小首を傾げて声を落とす。
「……む? うちの唐揚げ……食べられへんの? 」
赤い瞳に射抜かれて、愁の胸がどくりと
跳ねる。
「ぁ……あーん……」
断れるはずもなく、観念したように口を開けば、京之介が楽しそうに笑って唐揚げを運んでくる。
頬張った瞬間、衣の香ばしさと肉汁の温かさ
よりも、隣から注がれる視線の方が熱くて、
愁の頬は赤く染まっていった。
「んふふ、やっぱり愁は可愛いわ……」
耳元に甘い声が忍び込んで、愁は俯きながら箸を強く握りしめ。その間に
「紅生姜もっと盛りぃや。ほな、うちがやった
げるわ♪ 」
そう言って勝手に愁の丼にも紅生姜ものせてきて。
「ちょっ……そんなにいらないですって……あ!」
丼の上は、愁の頬と同じく赤一色。
「ええやろ。身体にええんやから♪ 」
牛丼屋の明るい照明の下、ふたりで肩を並べて笑い合う。昔は兄のように慕っていた京之介と、ただこうしている時間が、どうしようもなく
楽しいと愁は思う。
***
そして、牛丼でお腹を満たしたあと、ふたりはモールを歩きながらウインドウショッピングを楽しみ、
夜風に誘われるように外へ出た。
駐車場に停めていたRX-7がエンジンを震わせると、独特のロータリーサウンドが低く甘い旋律を奏で、夜の街を滑るように走り出す。
ハンドルを握る京之介は、窓の外に流れる夜景をちらりと見てから、少し照れくさそうに声を
落とす。
「……な、なぁ、愁。ちょっと……うちの部屋で、お茶でも……飲んでかへん? 」
不意の誘いに、愁は思わず瞬きをする。
「……でも、あまり遅くなると……」
そう口にしかけた時、京之介が唇をきゅっと
結び、心細げに囁いた。
「愁たちのアパートから、そう遠くあらへん……。せっかく、楽しかったのに……ひとりに
なるん、ちょっと……寂しいかな、て……」
街灯の光に浮かんだその横顔は、ほんの少し
影を帯びて見えた。
胸を衝かれたように愁は息を呑み、優しい
眼差しで答え。
「……わかりました。少しだけ、寄らせてもらいます」
その瞬間、京之介はぱっと花が咲くように笑みを広げる。
「ん……ありがと……♡ 」
車内に響くロータリーの鼓動と、隣から伝わる温もり。
夜のドライブは、不思議なほど甘やかに愁の胸を満たしていき。
***
到着したのは、組織が用意したマンション
だった。高級感などなく、必要最低限だけを詰め込んだような無機質さが漂う。
「おいでやす」
京之介が軽く微笑んで促す。
「……お邪魔します」
愁は小さく応え、足を踏み入れた。
中に入った途端、荷物らしい荷物はほとんど見当たらず、生活の匂いが薄いその部屋に、愁は
思わず息を呑む。
リビングにはローテーブルひとつと、椅子代わりにパイプベッドが置かれているだけ。
――まるで、葵の護衛を始めたばかりの自分の部屋を見ているようだった。
「適当に座って……って、それしかあらへんか……ちょい待っとってや……」
京之介に促されてベッドに腰掛けると、彼は
ほとんど食器もないキッチンに立ち、湯を沸かす。
その後、ぽすっと愁の横に座り、湯呑みを差し出してきた。
「はい、どうぞ。あったかい緑茶や」
「ありがとうございます……あれ? 京之介さんの分は? 」
「んー、湯呑み……一つしかあらへんのよ」
「……だったら、一緒に飲みましょう」
「……んふ♡ せやな。ほな……ありがたく」
肩を並べて、湯呑みから漂う柔らかな湯気に
頬をくすぐられながら、くだらない話に花を咲かせる。
昔の任務の話になると、京之介が悪戯っぽく「んふふ♡ あんときの愁、えらい弱気やったやんか」とからかい、愁はむっとした顔で
「……あれは京之介さんがテロリスト挑発して、まさか装甲車まで出てくると思わなかったから
驚いただけで……」と真面目に返す。
その生真面目さに京之介は堪えきれず吹き出し、「んふふふ♡ でも、後でちゃんとうち細切れにしたったやん♪ 」と誇らしげに言えば、ふたりで思わず笑い合った。
今度は今日買ったブーツの話題。
愁が「……あの店員さん、京之介さんのこと睨まれて怯えてましたよ。ああいうのはやめておいた方が……」と呆れ気味に言うと、京之介はわざとらしく脚を組み直して「ややなぁ、うちに惚れてもうただけやわぁ♪」と胸を張る。
愁は思わず視線を逸らし、少しむっとした顔で
黙り込む。その様子に京之介は
「なんや、そこは『ほんとに惚れてるのは俺ですー』やろ♡」と笑いながら肩を軽く叩いてきて、愁は言葉を詰まらせるしかなかった。
流れを変えるように、愁は少し柔らかい声で問いかける。
「……そ、そういえば、『日向』で働いてみて
どうですか? 」
不意の質問に京之介は目を瞬かせ、湯呑みを傾けて考え込む。
「んー……正直、慣れへんことばっかりやなぁ。厨房なんてぜんっぜん入れてもろてへんし、
包丁握ったら凛ちゃんが悲鳴上げるし♪ 」
「……そりゃあ、京之介さんの料理の腕は……」と愁が言いよどむと、すぐさま「まだ作ったことあらへんっ!」と肩をぽんっと叩かれ、愁は苦笑。京之介は肩をすくめておどけてみせた。
「んふふ……。せやけどな、それでも楽しいんよ。あんたと凛ちゃん、それに葵ちゃんと……
一緒に働けるの、思てたよりずっと……」
そう言って微笑む横顔に、愁の胸はじんわり熱を帯びる。
やがて葵の話題になると、愁の声は自然と柔らかくなる。
「……葵さん、ほんと美味しそうにドーナツ食べるんですよ。見てるだけで可愛くて、つい笑顔になってしまって♪ 」
その口調に、京之介は微笑みながらも、ほんの
少しだけ眉を寄せた。
「……ふぅん。葵ちゃんの話になると、えらいええ声で喋るやんか」
「っ……そ、それは……恋人ですから、自然とそうなってる……のかも」
頬を赤くしながら恥じらう愁。その姿に京之介は、ふっと笑って「んふふふ……可愛いなぁ、
ちょ〜いおちょくっただけやわぁ♪ 」とまた
肩を叩いてきた。今度は少し強めに。
さらに凛の話になると、京之介は「ほんま、あの子は愁のこと好きすぎやわ。あんな全力で突っかかられたら……」と呟くが、愁はにっこり笑って「とっても可愛いし、癒されますよね♪ それに頑張り屋さんで、いいところがいーっぱいあるんですよ、凛は♪」と楽しそうに返す。
その言葉に京之介は「そ、そうやな、ほんま」と苦笑いを浮かべる。どこか拗ねたようで、それでも笑い合える。そんな甘くて柔らかな空気が、ふたりの間に流れていった。
気づけば、笑い声と冗談が途切れなく続き、
時間は驚くほど過ぎていた。
柔らかく続いていた会話がふっと途切れ、愁が
ポケットからスマホを取り出して時間を確認しようとしたとき――
「……ぁ……愁……」
その手を、京之介の指先がそっと包み込んだ。
「……も、もうちょい、おってくれへん……? 」
車中で甘えるように部屋へ誘ったときの声とは違う。今の京之介の声音は、胸を少し締めつけられるほど切なくて。
愁は、その声も――そして、なにより寂しそうに揺れる赤い瞳を見るのがたまらなく嫌で。スマホをベッドの上に置くと、わざと軽く笑ってみせた。
「ふふ……♪ 寂しがり屋なんですね、京之介さん」
からかうように言えば、京之介は眉をほんの少し寄せて、拗ねた子供みたいな表情で問い返す。
「……愁と、離れたないって思うの……あかんの? 」
思わず笑みがこぼれ、愁は優しくその手を握り返した。恋人を甘やかすみたいに、指を絡めて。
「……いえ。ただ……可愛いなって思ったんです♪ 」
「……」
「大丈夫。俺は、傍にいますから……」
静かにそう囁くと、京之介はたまらないと
いった様子で愁の胸に顔を埋め、ゆっくりと抱きついてきた。
「はぁ……すっかり、逆になってもうたね……」
吐息まじりに零れる声は、どこか安心しきった
ようで、それでいて少し照れている。
「昔は、うちがあんたを甘やかす側やったのに……今は……」
愁はその言葉に胸を締めつけられ、けれど微笑んで、静かに答えた。
「……今でも頼りにしてますよ。少し不器用だけど、やさしくて……俺は、昔からそんな京之介さんが……」
言いかけて、思わず言葉を飲み込む。照れ隠しの沈黙。
「ん……そんなうちが……何? 」
顔を上げた京之介が、赤い瞳を揺らして上目遣いに見つめてくる。
「っ……いえ、別に……」
「んふふ……♪ 続き……教えてや? 」
囁きは、甘やかすようでいて、愁の心を追い詰めるみたいに。
このままでは延々と逃げ場をなくされる、と
直感して――愁は京之介の唇に、静かに口づけを
落とした。
触れ合った瞬間、全てが伝わるような、
ゆっくりで深い口づけ。
手は自然と絡み合い、指先から鼓動が伝わってくる。
やがて唇を離した愁は、少し息を弾ませながら、そのまま名残惜しげに額を寄せて囁いた。
「……これが、答えです……。あの時とは、ちょっと違うかも……ですけど」
京之介は細めた瞳でとろりと微笑み、震えるような声を洩らす。
「……ん、わからへんなぁ……♡ もう、ちょい……教えてくれへん……? 」
言葉と同時に、京之介の唇が愁の唇に触れた。
ちゅ、と短く、愛おしさが溢れるみたいに――
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