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第百四十四話
京之介は、夢を見ていた。
それは――血と硝煙の匂いにまみれた日々の、
わずかな隙間に訪れた「日常」の記憶。
深骸域がまだ形を成す前。組織がまだ名ばかりの“骨組み”にすぎなかった頃のことだ。
計画が動き出し、必要とされた研究施設が襲撃され、崩壊した。
赤い瞳を持つ子どもたちが、施設から連れ去られ――そして、檻から奪還されたあの日の後。
京之介達は救い出した子どもたちの中で、まだ訓練の年齢に達していない子を一時的に預かり、育てることになった――
そんな季節の夢だ。
愁と凛、特に傷だらけだった愁の小さな身体は、その特性上すぐに治った。けれど目の奥には地下施設の闇を映したまま。
京之介は戦いのことなら叩き込めるが、
子育てなんてしたことがない。朝ごはんをどう
作るのか、どんな絵本を読ませるのか、
そんなことさえ手探りの毎日だった。
小さなテーブルに、三つの影。
湯気の立つスープ。焼きすぎたトーストの、少し焦げた匂い。
凛はスプーンを落として、あわてて拾おうと
して京之介の膝に頭をぶつける。
「いたっ……」と小さく呻いて、泣きそうになるその子の頭を、思わず撫でてしまう自分に驚いたのを覚えている。
その横で、愁は無表情のまま静かに食べていた。けれど箸の持ち方が不器用で、何度も卵を
こぼすたびに凛が笑い出し、愁が少しだけ頬を
赤らめた。
あの笑い声が、どこか遠くで鈴の音のように響いていた。
三人の日々は少しずつ形になっていく。
任務を終え帰宅すると夜には一緒に風呂に入り、本を読み聞かせ、その後はソファでくっついて
映画を眺めた。
……次の瞬間、景色が滲んで変わる。
今度は夕暮れ。
人混みの中、色とりどりの光と音が溶け合う
遊園地。
凛が両手を広げてジェットコースターを指差し、愁は少しだけ眉をひそめていた。
「怖くないもん!」と笑う凛の声に押されて、
京之介も仕方なくチケットを三枚買う。
並んでジェットコースターに乗り、降りた後には泣き叫ぶ凛を愁がなだめる。
「んふふふ……♪ 」
その横で、京之介はいつのまにか笑っていた。
笑うということを、自分も忘れていたことに
気づかされながら。
メリーゴーラウンド。小さな馬に乗った凛が
はしゃいで手を振る。愁は隣で静かに座りながらも、視線だけはずっと京之介を追っていた。
あの赤い瞳が、笑うでも泣くでもなく、ただ
確かに“信じている”ように見えて――
胸の奥が、不意に熱くなった。
――季節がめぐり、一年が過ぎた頃だった。
最初は愁以外に懐かなかった凛も、ようやく
京之介に慣れ、はにかみながら「京兄ちゃん」と呼ぶようになった。
愁もそれに倣って、少し恥ずかしそうに同じ
呼び方をする。
“兄”のようで、“母”のようで、
血の匂いにまみれていた自分が、
いつのまにか温かい家族の役をしている――
そんな日々だった。
また、景色が滲んで変わる。
ある日――
「お金の使い方も覚えなきゃいけへん」と思った
京之介は、二人にお小遣いを渡した。
大した額ではない。
凛はすぐにお菓子や小さな玩具を買って、
楽しげに笑っていた。
だが、愁は何度渡しても「ありがと……」と
言って受け取るが、一度もお小遣いを使う様子がなかった。
「買い物の仕方、わからへん……? 人と話すの苦手なんかいな……? 」
そう思って何ヶ月か経ったある日――愁が小さな紙袋を差し出した。
「……京兄ちゃん……これ……」
その声は、どこか震えていた。
「……うちに……? 」
こくりと頷く愁。京之介が袋を開けると、
中には安っぽいシルバーメッキのネックレスが
あった。
小さなリングがトップについた、飾り気のないもの。
「……あの……助けてくれた、お礼……」
愁はそう言って、ぎゅっと京之介の腰に抱きついてきた。
温もりが胸に広がり、京之介は息を呑んだ。
血と死に塗れた人生の中で、初めて
“自分のために”選ばれた贈り物だった。
気づいたら、ポロポロと涙が頬を伝っていた。
止めようとしても止まらない。
京之介はしゃがみ込み、愁を抱きしめ返した。
「……京兄ちゃん……さびしいの……? 」
愁が小さな声でたずねた。
京之介は、答えられなかった。
胸の奥に詰まっていたものが、溶け出して
いく。
「泣かないで……おれ……ずっと、そばにいる
から……はなれないから……そだ……! 」
愁が何かを思いついたように、顔を上げた。
「京兄ちゃん……おれの、お嫁さんになって……そしたら……ずっといっしょにいられるから、
さびしくないよ……」
その言葉を聞いた瞬間――京之介の涙が止まった。
代わりに、頬が熱くなる。
生まれて初めて、赤くなった顔を愁に
見られた。
「……へ……!? 」
声にならない声が、喉から漏れた。
愁は満足そうに笑い、京之介の胸にまた頬を
押し当てる。
夢の中の光景が、静かに色褪せていく。
京之介は初めて知った“温かさ”をその腕に
感じながら、目覚めることを拒む子供のように、その瞬間を胸に刻んでいた。
***
――ふ、と息が漏れた。
京之介は、頬に触れる温もりで目を覚ました。
まだ夜の名残が濃く残る、早朝四時。
カーテンの隙間から洩れる月明かりと、淡い蒼が重なって、寝室の空気を静かに染めていた。
目を開ければ、すぐそこに愁の寝顔。
長い睫毛が頬に影を落とし、ゆるやかな寝息が肌にかかる。
腕は、まるで離す気のないように京之介の身体を抱きしめていて、胸の鼓動まで伝わってくる。
(――夢、見てたんや……)
胸の奥で呟く。
あの頃の、幼い愁と凛。
初めて「家族」を知ったあの温もり。
そして――小さな愁の声。
「京兄ちゃん、お嫁さんになって」
思い出した瞬間、頬がじわりと熱くなった。
その上、さっきのことまで脳裏をよぎる。
愁の指が、自分の髪を撫でながら囁いた声。
重なり合った唇。
何度も、何度も名前を呼ばれた。
「……ぅ、あかん……」
小さく呟いて、枕に顔をうずめる。
耳の先まで真っ赤だった。
けれど愁の腕が、まるでその照れを包み込む
ように、さらにぎゅっと抱き寄せてくる。
その仕草が優しくて、どうしようもなく胸が
あたたかくなる。
「……ほんまに……ずるい子やなぁ……」
囁くように言って、そっと息をついた。
愁の髪に唇が触れる。
香りはさっきの余韻をまだ残していて、目を
閉じれば、また夢と現実の境が溶けていく気が
した。
――あの時、確かに誓った。
この子を、もう二度と孤独にしない。
それは、兄としてでも、母としてでもなく、
今の京之介が「恋人」として心に刻んだ想い
だった。
胸の奥でそんな想いがふわりとほどけて、
京之介はそっと愁の腕の中で目を閉じた。
頬の熱は、まだ冷めないまま――
けれどその照れくさささえ、今は
心地よかった。
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