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第百四十五話
朽ちかけた安アパートの外壁は、指でなぞれば粉が落ちるほど古い。
夕方の光は濃く、湿気を含んだ木の床が玻璃の
足音で小さく鳴る。隣室の住人が勤務明けで
帰ってきたのか、錆びたドアの開閉音が階段の
奥からくぐもって響いた。
玻璃は畳の上にちょこんと座り、卓袱台の上の
ノートパソコンの画面をぼんやりと見つめている。画面の光が眼鏡の縁に反射して、彼の細い
指がふるえるようにタッチパッドを撫でた。
「ねぇ、ファウスト。そろそろ決まったかい? 」
呼びかけても、窓辺の彼は動かない。
レーズンパンを片手に、ブロック塀の上を歩く猫をぼんやりと目で追っている。
「うーん……もっと普通の響きにしたいんだけどなぁ……」
小さな電子音がときどき鳴り、灰色の光が液晶に滲む。
偽造用の身分証データ作製。
街で普通に暮らすために必要な“仮の命”。
その名前の部分で、ふたりは悩んでいた。
「ファウストって、呼びにくいんだよねー。」
「うーん……じゃあ……」
玻璃は小さく息を吐いて、紙袋だったものを再利用したメモ帳に新しい候補を書き連ねる。指が紙の端を押して、文字が散る。
「アルト……とか? レン? いや、ルイ?
んー、響きが違うなぁ。」
視力が弱いせいで、彼はしばしば眼鏡を押し
上げる仕草をする。わずかにおどおどした動きが、部屋にふしぎな優しさを添える。
「玻璃、どれも安っぽいよ。」
「じゃあ、“白鋼”とかどう?」
「あははは……♪ 中二病か。」
ファウストが軽く笑うと、モニターの画面がチラつく。
「むー……もう! 笑うなぁ! 画面が乱れる! 」
「あ……ごめん。」
玻璃は頬をふくらませ、ふと、窓際の彼の手元に視線を落とした。
パンの袋が、くしゃりと鳴る。
「それ、好きだよね。レーズン&マーガリン
パン! 」
「ん……まぁ……好きだね。」
「じゃあ、“れいま”でいいじゃん。」
「……お? 」
「レーズン・マーガリン。略して“レイマ”。」
玻璃が笑ってそう言うと、ファウストは一瞬、目を瞬かせた。
ふざけた提案のはずだった。
けれど、その響きはなぜか胸の奥に柔らかく
沈んだ。
「……レイマ……うん……。」
呟いた声は、どこか遠くから自分の耳に届くようだった。
「いいんじゃない。しっくりくる……」
玻璃が顔を上げる。
「え、決まり?」
「レイマで決まり。気に入った♪ 」
彼は窓枠から初めて“自分の名”を口にした。
口元に残るパンのかすに、まだ甘いマーガリンの匂いが混ざる。
「ぁ……ファウ……」
「もうレイマだよ♪ 」
「っ……レイマ……」
玻璃は、ふざけて口にしたはずの名がそのまま採用されて、頬を赤く染めた。
けれど、さっきまで続いていた名付けのやり取りがようやく終わったことで、どこか安堵の色も浮かんでいる。
レイマはそんな玻璃を見て、ふっと微笑んだ。
「――あっ、漢字も考えなきゃね♪ 」
「えっ……?」
玻璃が瞬きをした、そのとき。
***
下の階の廊下から、コツコツと靴音が響いた。
古びた扉が、ノックもなくゆっくりと開く。
いつものように、両手に紙袋を抱えた老婆が立っていた。茶の間着の袖口を少し汚しながら、優しい笑みを浮かべている。
「おー、おったなぁ……。」
「こんにちは、お婆ちゃん。」
「やぁ、結生 婆ちゃん♪ 」
レイマの表情が少しだけ柔らぐ。
結生と呼ばれた老婆は、にこりと笑いながら
紙袋を差し出した。
「今日の晩飯、おなか空いてるんじゃろうと
思てな」
彼女の声は粗いが、繰り返された親切は柔らかく響いた。
「ぁ……ありがとうございます……。でも、悪いですよ……いつもいつも……」
玻璃は恐縮したようにぺこりと頭を下げた。
「なにかな〜♪ 」
レイマは軽く頭を下げながら紙袋を受け取り、そのまま中を覗き込んだ。
袋の中には、ほんのり甘い香り――
レーズン&マーガリンのパンが顔を覗かせて
いる。
「やったぁ♪ さっすが結生婆ちゃん♪ 」
さっきまで同じものを食べていたのに、レイマは嬉々として焼きたてのパンをひと口。
「うん♪ やっぱ出来たばかりのやつの方が美味しいねぇ♪」
「ちょ、ちょっと……! いくらなんでも失礼だよ!」
玻璃が慌てて小声で注意する。だが結生婆ちゃんは、皺を深く寄せて笑った。
「ほほほ……ええんじゃよ。美味しそうに食べてくれるの、見とるだけで嬉しいもんじゃ♪」
「あは♪ じゃあ、しっかり見といてね♪ 俺、うまそうに食べるから!」
「よかったら……寄っていってください。お水くらいしか出せませんけど……」
二人の言葉に、結生婆ちゃんは一瞬迷ってから、
「そうかい……じゃ、少しだけお邪魔しようかねぇ……ん?」
結生婆ちゃんはふと卓袱台に目をやり、パンを包んでいた紙袋が分厚く重ねられたメモ帳の一番上に黒いペンで書かれた“レイマ”という文字を指差した。
「“レイマ”てなんじゃ……?」
「もぎゅ……ごく……あぁ、それ俺の名前。
あらためてヨロシクね、結生婆ちゃん♪」
パンを頬張りながら笑うレイマに、結生婆ちゃんは少し目を細めた。
「名前……? あんた今、決めたのかい?」
「あはは♪ まぁ、細かいことは……」
軽い調子で答えたあと、レイマはふと真顔になる。
「ねぇ、婆ちゃん。この名前に、漢字を当ててくれない? 俺、ちょっと困っててさ」
その言葉に玻璃も静かに頷く。
――どうせ彼に任せたら、明日まで決まらない。そう確信して。
結生婆ちゃんは「ほぉ」と息をつき、腰の
ポケットから古い手帳と筆ペンを取り出した。
紙をめくる手つきは荒いのに、動きは迷いなく美しい。
やがて、一枚のページを破り取り、ふわりと
二人の前に差し出した。
「この字、ええと思うよ」
墨が滲み、少し古びた香りが漂う紙に――
玲真
とあった。
「友達のあんたが玻璃くんなら……あんたには、この字がええと思う。古い考えじゃけどね」
レイマはしばらく黙って紙を見つめていた。
口元の筋がふっと緩んだ。その筆跡には、無骨な優しさが滲んでいた。
“名”を与えられたことはあっても、“名を受け取った”のは初めてだった。
そこには実験体名の冷たさも、役割としての記号もない。結生婆ちゃんの手の温もりが、紙に
残る匂いと混ざって胸に染みた。
「……これがいい♪」
声は小さかったが、確かな光を帯びていた。
玻璃は眼鏡の縁を指で押し上げ、「やった!」と言わんばかりに顔を赤らめながら笑った。
結生婆ちゃんは満足げに頷き、「ほんなら、
お茶でも淹れてくるかね」と言って廊下へ向かう。
――その小さなやり取りが、玲真の中にひとつの“迷い”を刻みつけた。
人を滅ぼすか否か。
モニター越しに見てきた“人間”と、下の階老婆が差し出した手。どちらが“人間”なのか。
答えはまだ見えなかった。
けれど、“玲真”という二文字が、確かに彼をこの世界に繋ぎ止めていた。
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