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第百四十六話

――夜。  薄い布団の上、玲真は仰向けのまま眠れずに いた。  古びた天井には小さなひびが走り、外からは 虫の声が細く届いている。 月明かりがカーテンの隙間から差し込み、隣の 布団に眠る玻璃の横顔を照らしていた。 昼間、結生婆ちゃんが筆で書いてくれた二文字 ――玲真。  墨の匂いはまだ紙の中に残っている。 婆ちゃんの皺だらけの手が、筆を握るたびに震えていたのを思い出す。  名をもらった瞬間、胸の奥で何かがふっと温かく灯った。 それが何の感情なのか、まだわからない。  けれど――“実験体”だった頃の自分は、 番号と命令でしか動けない、空っぽの器だった。 戦場の映像越しに見ていた「赤い瞳」たちの動きをただ学び、殺すために造られた記録だけを 積み上げてきた。  初めて“生”を感じたのは、愁と戦ったときだった。  あの瞬間だけ、自分の存在が確かに世界に触れた気がした。痛みも血も、はじめて“現実”だった。だから楽しかった。負けたのが悔しかった。  愁に再び会いたいと思っているのも、きっと そのせい。 ……でも。  結生婆ちゃんの手の温度を思い出すと、 胸の奥に微かなざわめきが残る。 人間は皆、憎むべきものだと思っていた。 自分たちを造り、弄び、殺した生き物だから。 けれど、あの皺だらけの掌が握られた瞬間、 その“すべて”に亀裂が入った気がする。  玲真は静かに息を吐き、横目で玻璃を見た。 玻璃は穏やかに寝息を立てている。 彼の頬にかかる髪が微かに揺れて、 それが生きているという証のように見えた。 ――愁と戦えば、何かがわかるかもしれない。 そんな根拠のない考えだけが、今の彼を動かしている。  玲真は唇の端にいつもの笑みを浮かべる。 それは癖のように刻まれた笑顔。 優しさにも、諦めにも見えるそれを自分でも解釈できないまま、 彼は胸の中の紙片を確かめて、そっと目を閉じた。 ***  そして、夜の名残がまだ空に溶けきらない 早朝。  アパートの外は、靄のような白い空気に包まれていた。  薄い布団を押しのけて起き上がった玲真は、 床の上に畳んであったシャツを手に取る。  袖を通す動作のたびに、布の擦れる音が静かな部屋に響いた。  窓際の机には、昨夜の灯りの残りが淡く滲んでいる。  その下には、結生婆ちゃんが書いてくれた “玲真”の二文字。  折り目のついた紙を、玲真はポケットにそっとしまい込んだ。  背後で布団がわずかに動く。  「……行くの?」  玻璃の声は、眠りの余韻を残したまま掠れていた。  玲真は笑って、肩越しに振り向く。  「うん♪ 」  「……僕も行く」  玻璃は布団をはねのけて立ち上がる。  髪が寝癖で跳ねているのが、どこか子供っぽくて、玲真は少しだけ笑った。  「ダメだよ、玻璃。お前じゃ、戦力にはならない」  「でも、玲真一人で行くなんて……」  「平気だよ。俺は愁に会いに行くだけ。戦うとは決まってないからさ♪ 」  「……決まってない……って、けど、きっとそうなる……」  玻璃の声が、わずかに震えた。  玲真は一歩近づき、その頭に手を置く。  冷たい指先が、寝起きの髪をそっと撫でた。  「大丈夫。」  「……嘘つき……」  「あはは……♪ かもね」  玲真は笑いながら、階段へと歩き出した。  その笑みはいつも通りの柔らかさを保っているけれど、どこか空の奥に置いてきたように遠い。  外に出ると、朝露の匂いが濃く漂っていた。  金属の手すりが淡く光り、坂の上の空が少しずつ青を取り戻していく。  靴底がアスファルトを踏むたび、世界がゆっくりと動き出す音がする。  ポケットの中の紙が、歩くたびにわずかに擦れた。  ――名前をもらった夜の温もり。  それは人の手が与えた、最初の優しさだった。  愁と戦えば、何か答えが出る。  人間を滅ぼすべきか、それとも――。  その問いの意味さえ、まだ自分には分からない。  けれど朝の光の中、玲真はただ一つだけ確信していた。  “負けっぱなしは、性に合わない”と。

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