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第百四十七話
壁に掛けられた鳩時計が開店十五分前を指している。
『日向』の客室は朝の光に包まれ、木のテーブルが柔らかく反射する。
カウンターにはピカピカに磨かれたカップと皿が整然と並び、その端に置かれた皿には、粉砂糖をまとったドーナツがひとつ、まだ湯気を立てていた。
香ばしいバターと油の香りが、いつもより濃く漂っている。
「……これ、本当に店で出す気なんですか」
愁が苦笑混じりに言うと、葵は湯気の立つマグを両手で包みながら、ふわりと笑った。
「だって、業務用のフライヤー買っちゃったもん……。美味しいよ? 愁くんだって、今三つ
ペロって食べたじゃない。」
葵曰く昨日の夕方、ちょうど愁と京之介がヒールブーツを買いに出かけたそのタイミングで、
偶然フライヤーの納品業者が来たらしい。
せっかくだからと、そのまま半ば強引に電気工事もお願いしてしまったようで、気づけば厨房の
隅にはピカピカの業務用フライヤーが鎮座していた。
ステンレスのボディは眩しいほどに輝き、
新しい電源コードにはまだメーカーのタグが
ついたまま。
夜には凛とふたりで生地を仕込み、深夜まで
試作を重ねたという。
「せっかくだし……もう、やっちゃおっかなって……」さっきそう言って頬を染めた葵の姿を思い浮かべると、愁はただ苦笑するしかなかった。
「……それは、凄く美味しかったから……」
愁が視線を逸らすと、葵はにこっと微笑んで
マグを揺らした。
「でしょ♪ だったら……」
得意げなその笑顔。
「でも、明らかに葵さんのつまみ食いが増えそうな気がします」
図星を突かれ、葵はぴたりと動きを止める。
「そ、そ、そ、そんなことないよっ! ぼ、僕はお店に来てくれる、たくさんのお客さんのためを思って――」
その瞬間、客室の奥のソファ席からくすくすと笑い声。
京之介が脚を組み、艶やかなヒールブーツの
踵をゆらりと揺らしながら、ソファの背にもたれてこちらを眺めていた。
「んふふふ……♪ 朝から夫婦漫才かいなぁ。
うちも混ぜてもろてええ?」
「混ざらなくていいです」
即答する愁。
「つれな〜い♪」
そう言いながら京之介は立ち上がり、軽やかに近づくと、背後から愁の腰にそっと腕を回した。
さらりと髪が頬を掠め、微かな香水の匂いが
鼻をくすぐる。
葵が、むっと頬を膨らませた。
「……そういえば、昨日の条件、忘れてないからね、愁くん。」
葵はマグをカウンターに置き、胸に抱きつく
くらいの距離まで詰め寄る。
「ッ……」
昨日の条件――葵と凛、ふたりそれぞれが
出した“京之介とふたりきり外出”の条件だった。
葵の条件、それは――
「なに、してたの……?」
昨夜、京之介と何があったのかを包み隠さず話すこと。
愁は一瞬で固まった。
(……だけど、昨日の夜を説明しろと言われても、どこからどう話せばいいのか……)
「……なに、って……モールに行って、ブーツを
選んで、牛丼を食べて……それから……」
愁の頬がみるみる赤く染まる。
「それから……?」
葵の声は嫉妬に少し震えて、けれど好奇心の色が滲んでいた。
「それから……京之介さんの、マンションに寄らせてもらって……緑茶を、いただきました……」
「それだけ……?」
視線を外す愁。耳まで真っ赤。
その沈黙を破るように、背中から甘い声。
「んふふふ……♪ 優しくリードしてあげてなぁ、うちが。“離さんで”なんて可愛うお願いされて……もう困ってもうたわぁ♪」
「ちょ、ちょっと待ってください!?」
「言ったやん?」
わざとらしく目を細める京之介。
けれど、その腕にほんの一瞬、迷いのような
強張りが走った。愁は背中越しにその小さな震えを感じ取って、目を細めた。
葵に知られたくなくて、思わずついた嘘――
そんな嘘をつく京之介が、たまらなく可愛らしい。
そう思った愁は、一瞬だけ唇を閉ざし次の瞬間には――
「……そうですね。優しくしてほしいって言われたから……その通りにしてあげたら、京之介さん……泣いて喜んでくれて……」
柔らかい声で言いながら、口元に悪戯っぽい笑みが滲む。
「もっと、もっと……って、ご近所の方に、
ご迷惑かけてなければいいんですけどね……
ふふふ♪」
語尾がわずかに震れて、まるで昨夜の温度を思い出しているようだった。
京之介の肩がびくんと跳ね、頬が見る見る赤く
染まっていく。
愁はその反応に、ふっと口元をゆるめた。
からかっているようでいて、どこか愛おしそうな――“可愛い……”と、心の奥で呟くような微笑。
愁は、京之介の恥じらう仕草をもう少し見たくなって胸に感じる手の温もりに、そっと触れ、
抱きしめている京之介の手の甲を、指先でなぞるように撫でる。
その軌跡はまるで“思い出して……”と囁くみたいで、京之介の指先がかすかに震え、それだけで
空気が甘くゆらぐ。
「べ、べ、別に、泣いてなんか……!」
「そうですね……その後もベッドの上で、あんなに甘い声で鳴いて……悶えて、とっても可愛かったんですよ……♪」
「へぇ♪」
葵が頬を赤らめながら興味津々に見上げると、
京之介の顔は耳まで真っ赤に染まった。
「いけず……そこまでほんまのこと……あッ」
後ろから愁の腰に抱きついて隠れようとする京之介を、愁は静かに、けれど優しくその腕を
ほどく。
「それに……ナースさんの格好も、とっても似合ってましたね♪」
葵は堪えきれず口元を押さえた。
「……京之介さんが……ナース……ぷふっ♪」
「聞こえへん聞こえへん~~っ!!! 愁の
、ぃっ……いけずっ! アホぉっ!」
振り払われた腕を胸の前で押さえ、京之介の肩が小さく震える。
恥ずかしさと不安が混じるその表情を、ふと横目に見て――
愁はそっと手を伸ばし、京之介の手を
“きゅっ”と握る。
「……そんな顔も、やっぱり可愛いです……」
「……ぁ……」
驚いた京之介が顔を上げると、愁はほんの少し
見上げる角度で笑っていた。
ヒールブーツのせいで、今の京之介はわずかに高い位置にいる。
見つめ合う距離。
息がかかるほどの近さ。
「……だいじょうぶ。恥ずかしいのは、俺も同じですから♪」
小さく囁く声に、京之介の瞳が揺れる。
頬にまた熱が戻り、唇がかすかに震えた。
「……うん……♡」
その一言を合図にしたように、愁の口元にも静かな笑みが浮かぶ。
京之介は視線を逸らしながら、息を詰まらせるように呟いた。
「かんにんえ……愁……恥ずかしおして……つぃ……」
「はは……♪ おかげで、また可愛いとこ見れました」
「もぉ……あほ……♡」
ふたりのやり取りは、まるで“恥ずかしさ”も
“愛しさ”も半分こして分け合っているようだった。
その穏やかな光景を見つめながら、葵はそっと息をのむ。胸の奥に、ぽうっと灯がともるような温かさが広がっていく。
気づけば身体が自然に動いていて、愁の胸へ
そっと身を寄せた。
白い指が、シャツの布地をかすかに摘まむ。
「……なんか、ふたりだけで幸せそう」
唇をわずかに尖らせながらも、その瞳にはどこか微笑みが滲んでいた。
嫉妬というよりも――自分も、その輪の中に入りたいという素直な願い。
「愁くん……京之介さんも恋人だけど、僕は愁くんの“いちばん”の恋人なんだよね?」
葵の声は、息を混じえた甘さで揺れる。
愁は一瞬だけ驚いたように瞬きをしてから、そっとその目を見つめ返した。
「……もちろん」
短く、それでも確かな響きを込めて言うと、
葵は尖らせていた唇をゆっくりと緩める。
「だったら……僕にも、同じことしてくれなきゃね?」
「っ……はい……」
葵の言葉に、愁の喉がわずかに震える。
「いっぱいだよ……」
囁きは耳元で、息と一緒に零れる。
愁の頬に熱が差し、指先がかすかに動いた。
「……葵さんがだめって言っても、止まれない
かもですけど……」
愁が苦笑混じりに言うと、葵はその言葉を嬉しそうに受け止めるように瞳を細めた。
「嬉しい……だったら僕も、その時は着てあげるからね……♡」
「ッッ!?」
愁の喉が詰まり、鼓動が一気に跳ねる。
思考よりも早く「着てあげるからね……♡」
その言葉が、頭の奥で何度も反響する。
――白く薄い布地のミニなナース服。
――葵の長い黒髪を後ろでまとめ、頬を染めながら視線を逸らす姿。
――裾の影からのぞく、形のいい太腿。
想像した瞬間、喉の奥が焼けるように熱くなり、唇が思わず動きかけた――そのとき。
カッコー。
鳩時計が、まるで空気を読まない友人のように鳴き声を響かせた。
愁はびくりと肩を震わせ、目の前の葵も一瞬
きょとんとする。
途端に現実が戻ってきて、愁は小さく咳払いをした。葵の頭をそっと撫でながら、息を整え。
「……さ……お仕事、始めましょうか……」
「愁ぇ~♡」
京之介はふと愁の背に腕を回し、耳元にそっと
息を吹きかけた。
「あ……な、なんですか……」
「……うちにも撫で撫でしてぇなぁ……♡
ほんなら、ナースよりもっとすごいの……見せたるわ……♡」
その低く甘い声が耳を撫でるたび、愁の肩が
かすかに震える。
「ぁ……京之介さん……耳は、ちょっと……」
小さく抗議する声も、掠れて優しい。
そんなふたりを見ていた葵が、むぅっと頬を膨らませる。
「もうっ……京之介さんは昨日いっぱい甘やかされたでしょ! 年上なんだから、ちょっとはわきまえて!」
ピシッ、と空気が跳ねて、京之介は少しだけ眉を上げた。
「んふふ♪ 葵ちゃんと、うち、ほとんど同い
やけどね?」
「三こ上は、ほとんどとは言わないですー!」
言い合いながらも、互いの口元には笑みが浮かぶ。軽やかな空気が、カウンター越しにふわりと弾んだ。
そのやり取りを見つめる愁は、頬を緩める。
「……ほんと、仲がいいですね」
柔らかい笑い声が、三人の間をあたたかく包み込んだ。
その笑い声が、朝の光に溶けていく。
『日向』の窓から射し込む日差しがテーブルを照らし、店の外では、開店を待つ客たちのざわめきが小さく波のように広がっていた。
――だが、その穏やかな喧騒の奥で。
駐車場を渡り、テラスへと続く階段を、一つの影がゆっくりと登っていた。
コツ、コツ、と響く靴音は、どこか異質で。
朝の柔らかな色の中に、冷たい灰色の縁を描いていく。
ドアの向こうで、世界の気配がわずかに変わる。陽だまりの笑顔の中に、静かに、影が差し込んでいた。
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