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第百四十八話

 開店の鐘が鳴り続け、冷えた朝の空気を押しのけるように、温かな光と人の流れが『日向』に満ちていった。  カップを並べる音、椅子がきしむ音、焼き菓子の香ばしい匂い。色づいた落ち葉がガラス越しに舞い、店内は秋の陽だまりのような賑わいに包まれている。  葵はカウンターの奥で、軽やかにカップを温めている。  時折、客たちの「おはようございます、涼風様!」「今日も、ふわふわ玉子サンド楽しみにしてますね♪」という声に、葵はふと微笑み、長い睫毛の影を揺らして小さく手を振って応じるその姿は、まるで光をまとっているみたいだった。    一方、客室では――  愁と京之介が、息の合った動きで席を回っていた。  注文票を受け取り、笑顔を返し、皿を運び、 また別のテーブルへ。  京之介が微笑むたび、客の笑顔が広がっていく。 「お待たせしたぁ。ブレンドは深めでよろしかったどすかぁ?」  そんな艶を含んだ声に、若い客も年配の客も すっかりとろけていた。  愁は隣を通りすぎざま、そっと笑って囁いた。 「さすが。凄い人気ですね♪」 「んふふ……♪ うちはね、愁ひとりに好かれ とったら、それで十分やのに……♡」  そう囁くと同時に、長い睫毛の影からウィンクが飛ぶ。 「っ……」  頬に朱が差し、わずかに視線を逸らす。客たちの視線が二人に集まり、店内の空気がほんの少し甘く揺れた。  ――そのとき、愁の耳が何か捉えた。  笑い声とカップの音の奥に、異質な“間”を感じ取る。  外の風の流れが、ひとつだけ逆向きに動いたような――そんな感覚。  愁は笑顔を崩さず、トレイを持ったまま京之介に近づく。その距離は、手を伸ばせば唇が触れそうなくらい。  ほんの一瞬、香水の微かな香りと互いの呼吸が混ざる。 「京之介さん……ちょっと、テラス席の方にも 注文聞きに行ってきますね」  声を落とすように告げると、京之介は軽く眉を寄せた。 「んふふ……♪ うち、行こか……?」  その声音には、冗談めいた甘さと、ほんの少しの心配が混ざっていた。  愁は柔らかく微笑み、視線を合わせて答える。 「いえ……京之介さんには、葵さんとお店をお任せします」  葵の名前を出した瞬間、京之介の唇がわずかに尖る。 「ほんま……葵ちゃんのこと、えらい好きなんやから……妬けてまうやん……」  声が甘く溶ける。愁は誰にも聞かれぬように、そっと距離を詰めた。  テーブルの合間、唇が触れそうなほどの近さで――。 「ええ……大好きです。もちろん、京之介さんも……」  吐息のような声。 「それに、この人数とお店を守れるの、京之介さんだけですから……お願いしますね♪」  言葉とともに見上げる瞳に、信頼と愛情が同居していた。  京之介の頬が、わずかに朱を帯びる。 「もう……上手なんやからぁ……♡ あとでお返しに“ちゅう”ぐらいはして貰わな……」  その言葉を遮るように、愁がすっと背伸びして――。 「……“ちゅう”は、きっと俺の方から求めますよ……」  囁きながら、耳元に息を吹きかける。 「ふ、ぁ……♡ 」  その瞬間、周囲の客が一斉に息を呑み、ざわめきが広がった。  朝の光の中で、ふたりのやり取りはまるで映画のワンシーンのようで――  カップを持つ手を止めた客が、蕩けたように 笑って、店内は一瞬、恋の魔法のような熱気に包まれた。  けれど――。  愁はその空気を背に、トレイをカウンター置くと、静かに店の扉を押し開けた。  外の光が差し込み、風が頬を撫でる。  テラスから駐車場へ続く階段の上に、ひとつの影が立っていた。  微かに笑う口元。その輪郭を見た瞬間、愁の 心拍がひとつ跳ねる。  ――あの男。  自分の手で葬ったはずの、あの“敵”。  ありえない。死んだはずの男。血と硝煙の中で、確かに止めを刺した相手が。  金色と赤――異なる色を持つ瞳が、愁を真っ直ぐに射抜く。  白い肌は硝子のように透け、陽光に揺れる金髪は冷たく輝いていた。  その美しさに、テラス席の客が息を呑み、誰かが震える声で囁いた。  「……モデル?」「いや、あれ……人間か……?」  次の瞬間、 「愁……見ーっけ! あはははははははは……ッッ♪♪」 彼――玲真が笑った。  甲高く、どこか電子音めいた歪んだ笑い。  ビ――ッ!  玲真の写真を撮ろうと客達の手にしたスマホが一斉に震え、液晶が黒く染まる。  画面には、赤いノイズが脈打つように走った。 「うわッ? なにッ!?」「スマホが……」  悲鳴。困惑。  けれど愁の耳には、もう雑音しか入っていなかった。  玲真の笑いが、世界のノイズと溶け合う。  空気が歪んだ。  (――来る。)  愁が一歩踏み出した瞬間、 爆音のような衝撃波が床板に響いた。  目で捉えるより早く、玲真の拳が迫る。  風が裂け――衝突。 「……ッ!」  金属のような音が空を裂き、愁の身体が宙を切り裂き、光の粒の中で反転する。  そのままテラスの欄干を越え、背後の山肌へと吹き飛ばされた。  だが――落ちる瞬間、愁の瞳が一度だけ細められる。 空中で一度身体を回転させ、膝を折って着地。 乾いた衝撃が掌と足裏を貫いたが、彼の顔に苦痛の色はない。  むしろ、息の奥で小さく安堵が滲む。 (……葵さんのお店……傷つけるわけにはいかない……)  視界の端で、テラス席の客たち誰もが慌てふためいている。だが幸いなことに大きな破壊は何一つ起きていない。愁の頭は一つの事しか考えていない――この戦いを、『日向』から遠ざける。  欄干の上に立った玲真は、不敵に笑っている。 金と赤の瞳が冷たく輝き愁を見下ろしている。  胸に、かつての戦いの記憶が走るが、今は思考が先に働く。 (……明らかに狙いは、俺……。だったら……)  愁は静かに息を整え、見上げたまま唇に笑みを刻む。右手を上げて人差し指を立て、くい、と 挑発的に動かした。 (……来い……じゃなきゃ……)  店の中には京之介。葵に危害が加えられる事はありえない。そこは安心している。  けれど京之介が敵と認めた場合、相手が何で あれ手加減なんてものはせず、店内は玲真の バラバラになった血肉に染まる。  それは玲真の強さを知っている愁でも一緒で、 手加減など出来ないし、京之介より実力の劣る 彼であれば最悪、負けてしまう。 そんな光景は葵に見せられないし、店も終わる。 (……それだけは、避けないと……それに……)  玲真を見据えながら、脳裏に地形図を描く。 (――ここでなら、まだマシだ。)  愁はかつて葵の護衛任務で、この山をくまなく調べている。  黒鉄山。かつては登山客で賑わったが、今では反対側の温泉街ばかりが繁盛し、こちらの登山道は人影もまばらになって久しい。  『日向』が繁盛してからも、この側の登山道はほとんど使われていない。  だからこそ、愁にとっては都合がいい――  地形も把握し、誰にも邪魔されない“自分の戦場”。  この場所には、任務の合間に伏せてきた武器や装備がいくつも隠されている。  どんな敵が現れても、ここなら迎え撃てる。 欄干の上、玲真が風を切る。  山の光がその頬を照らし、笑みが浮かんだ瞬間――愁の背筋に、ひやりとした電流が走る。 「あはははっ♪ ――いいねぇ!」  次の瞬間、玲真は笑いながら宙へと身を投げた。  まるで重力すら裏切るように、軽やかに。  風を裂く音が耳を切り、赤と金の瞳が一直線に愁を捉える。 (……来た。)  愁は息を整え、足を滑らせるように後退。  背後の斜面へ向かって駆け出す。  玲真の着地音が背後で炸裂した。  石畳が砕け、砂塵が舞い上がる。  その破片が頬をかすめたが、愁は一切振り返らない。  ただ――走る。  ただ――考える。 (……もっと、葵さんの場所から……離さないと……けど最悪……)  玲真の足音がすぐ背後に迫ってくる。 (……武器も、装備も……拾う隙がないな……。)  まるで子供が鬼ごっこを楽しむみたいに、弾んだ笑い声が響いた。 「あははっ! 逃げるの? ねえ、もっと遊ぼうよっ!!」  愁は応えず、木々の間をすり抜ける。 (……しょうがない……か……)  枝葉を跳ね、岩肌を蹴り、息を合わせて地形を滑るように下る。  山の道筋はすべて頭に入っている。 (……もう少し……)  登山道の途中、かつて休憩所として整備されていた楕円形の広場。  今は使われず廃れ、周囲は木々が囲み音も外へ抜けにくい。  愁はそこを目指していた。  戦うために。  “守るために”。  風が頬を切り裂く。  玲真の気配が、獣のように背後から迫ってくる。 (……そこまで来い……。)

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