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第百四十九話

 風が、止まった。  黒鉄山の中腹、楕円形の広場。欄干の囲むその中央に、ふたりの影が静かに降り立った。  玲真の口元に浮かぶ笑みは、悪戯のように無垢で、血のように妖しかった。 「……鬼ごっこは終わりかい? ……愁……あっ! 今さらだけど、そう呼んでいいよね? 知らない仲じゃないんだしさ、あはは♪」  声が風を裂く。軽やかな笑いの奥に、電磁波のような波が混じっていた。  愁はゆっくりと呼吸を整える。 「……お前は、この間、跡形もなく吹っ飛ばしたと思ってたけど……」  玲真は両手を上げ、おどけて肩を竦める。 「あのくらいじゃ死ねないさ。愁、君の方が死にかけてたよね♪ ――“あのキス”、便利だよねぇ」  愁の眉がぴくりと動く。  慈愛のキス。ナノマシンを通じて、相手の細胞を強制的に修復・再生させる……戦闘特化体にしか許されない、治癒能力。 (……どこから見てた……?)  その思考を読み取ったかのように、玲真の姿が掻き消えた。  ――瞬間、目の前。  衝撃音より速く、拳が来る。 「ッ……!」  愁は半歩引いてかわし、左へ、右へ、後ろへ。風圧だけで頬が切れる。  玲真の笑い声が、風の中で跳ねた。 「あははははは♪ 考え事してたら、死んじゃうよ?」  次の瞬間、踏み込み。大地が爆ぜた。玲真の 身体が一線の光のように疾る。  愁は腕を交差し、前腕で受ける。 「ッ……!!」  骨が軋む。重い。前回とは比べものにならない。玲真の拳は、強くなっている。 「……っ、お前は……」  愁が言いかけると、玲真は軽やかに笑って 名乗る。 「お前、じゃない“玲真”。俺の名前だよ♪ よろしくね、愁……♪」  その笑みは、血を吸う蝶のように危うく 美しい。 「まだまだ遊ぼう――そろそろ、愁の本気、見てみたいな! あははは……♪」  踏み込み、突進。愁も同時に動いた。 「……そうだね……ッ」  愁は刹那、両腕を構える。玲真の拳が空を裂く瞬間、愁は軸足を返し――回し蹴り。  空気が唸り、玲真の頬を掠めた一撃が、次の 瞬間には頭部を捉える。 「ぐぅぅッ!!?」  玲真の身体が弾丸のように吹き飛び、欄干に 叩きつけられた。衝撃で鉄の柱が唸り、ひび割れる。  愁は、一気に間合いを詰めた。  土を蹴り上げる音が追いつくより早く、拳が 炸裂する。  連撃、連撃、連撃――。  空気が悲鳴を上げ、音が遅れて届く。  拳が閃光のように連なり、衝撃が立て続けに 地面を叩くたび、欄干が揺れ、風圧が爆ぜる。  玲真の身体が打ち据えられるたび、影がぶれる。もはや残像しか見えない。 ――だが。  その一瞬。  次の拳が届く直前、玲真の腕が、まるで時間を切り裂くように動いた。  「――ッ⁉」  愁の拳が止まった。  掴まれている。玲真の掌の中で、まるで凍りついたみたいに。  風が追いつく。爆ぜるように砂が舞い上がる。 玲真の唇が、ゆっくりと弧を描いた。 「……ぁ、ははははははは……楽しい……楽しいよ 愁♪ やっと君も本気になってくれた!!」  骨のひび割れる音が広場に響く。  それは崩壊の音ではない――再生の音。砕けた骨が編み直され、皮膚が再構築されていく。 「……しぶといね、玲真……」 「呼んでくれて、嬉しいよ……♪」  服の下から、無数の金属的な光が浮かび上がる。再生の熱で空気が歪む。 「次は……俺の番ッ♪」  声と同時に、愁の視界がぶれる。 玲真の動きが、空気を裂いた。  一歩、踏み込む――それだけで地面が悲鳴を 上げ、亀裂が蜘蛛の巣のように広がる。  「もっと、速く!――もっと、熱くぅッ!!」  その声と同時。  玲真の身体が、視界から弾けた。  残像が十、二十と錯乱し、愁を中心に円を 描く。  瞬間、全方向から突きが放たれた。  金属が擦れる音。  空間を突き破る破裂音。  愁は前腕で弾き、脚で受け流すが、反動のたびに筋肉が裂け、骨が軋む。  「――ッぐ!」 玲真の指先が閃く。鋭化したその爪が、鋼鉄すら貫く速度で愁の防御を抉り抜いた。  腹部に直撃。衝撃が内臓を焼くように走り、愁の背中が地面を滑る。  「……ッ……!!」  だが追撃は止まらない。  玲真が笑っていた。楽しげに、子どもが遊びに夢中になるような顔で。  「まだ終わらないよ、愁ぅッ!!」  跳躍。  朝の光を背負い、玲真の身体が弧を描く。  踵が振り下ろされる――地鳴りのような一撃。  轟音。爆風。土が弾け、砂塵が空へ舞う。  愁の身体が押し潰される寸前、地面を蹴り、 身体を捻って衝撃を殺す。  血を吐きながらも立ち上がるその姿に、玲真は息を弾ませて笑う。 「いいね……そうだよ、それだよ、愁ッ!  壊れかけの顔――もっと見せてッ!!」 「は、ぁ……ぐッ……」  肺の奥で血の味が広がる。口端から鮮血が 滴り、地面に散る。  玲真はその光景を見て、愉悦に満ちた笑みを浮かべる。 「ふふ♪ 途中で武器くらい拾わせてあげればよかったかな……ごめんね、愁との追いかけっこ楽しすぎてさぁ……あはははははははッ♪ 」  愁は顔を上げる。  紅い瞳に、冷たく光る決意。 「……ご丁寧に、どうも……。けど、別に――問題はない……」  その一言に、玲真が瞳を細める。唇の端を 歪め、より深い笑みを浮かべた。 「はは……そうこなくちゃ♪」  空気が再び張り詰める。  風の流れすら、ふたりの間を避けて通る。  愁が片膝を曲げ、低く構えを取る。  玲真は欄干の破片を踏み砕きながら、静かに 一歩、踏み出した。  砂塵が淡く漂い、朝の光の中で揺れる。 互いに無言のまま、数歩ずつ距離を測る。   愁の呼吸が少しずつ整っていく。  脇腹を走る裂傷が、じりじりと熱を帯びながら閉じていく。  体内のナノマシンが損傷部位を再構築している――痛みと再生が同時に走る。  再生の感覚に合わせて、愁の意識が研ぎ澄まされていく。 (まだ……立てる。……まだ、やれる。)  玲真が蹴り上げた破片が、陽光の中できらめいて落ちた。 「ねぇ、愁。君は、どうしてそんなに“守る”んだろうね?」  その声は柔らかく、それでいて冷たい金属のようだった。  愁は目を逸らさずに答える。 「……“守る”のは、理由がある時だけだ。……お前には、関係ない」 「あはは♪ 関係ない、か。……でも、知りたいなぁ……」  玲真は人差し指を唇に当て、悪戯っぽく笑う。 「さっきの店――『日向』だっけ? 戻ったら 理由、分かるかな?」  その瞬間、愁の瞳がかすかに揺れた。  玲真は見逃さない。まるで、そこにある痛みを嗅ぎ取るように笑みを深める。 「あぁ……やっぱり。あの中にいるんだ、君の“守りたいもの”が」 声の調子が変わる。笑いが熱を帯びる。 「でも愁、俺たちは“兵器”なんだよ!? 壊すことしか知らない身体で、守ろうなんて――守りたくなるなんて矛盾してると思わない!? ねぇ、 なんで? なんで!? なんでさ!?」 本当に知りたい問いのように、玲真は何度も繰り返す。  愁は短く息を吸い、吐き出した。  その問いが、胸の奥で鈍く疼く。 (……矛盾なんて、とっくに分かってる。それでも――)  玲真が小さく息を漏らす。声は一転、静まり 返るほどの冷ややかさを帯びた。 「俺たちが生まれたような場所で、そんな感情、設計されてなかったはずでしょ?」  愁はゆっくりと片手を持ち上げ、指を鳴ら した。 「設計されてなかったから……何?」  風が変わる。砂が渦を巻き、空気が震える。 「俺は――あの人が好きだから。愛してるから守る。あの人が『日向』を大切にしてるなら、俺にとっても、それは大切な場所なんだ」  玲真は、頬に伝った血を拭いながら微笑んだ。 「あぁ……なるほど、愛か。愛、愛、愛……!! そっか。そっか。そうか!! 知識としては 知ってたのに、なんで気づかなかったんだろうね♪」  その笑みの奥に、淡い羨望が滲む。 「いいね、その言葉、それ。嫌いじゃない。 ……やっぱり君は、俺の“完成形”だ」  愁は何も言わなかった。 風がふたりの間を裂き、乾いた葉が舞い上がる。  似た構造を持つふたりの肉体が、異なる魂の 熱を宿して向かい合う。  次に動くのがどちらか――それを知るのは、風だけだった。

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