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第百五十話
何か一つ、答えを見つけ、すっきりした様な
玲真の笑みが、風の中で静かに歪んだ。
「……ねぇ、愁。そんなに愛しているものを
“守る”って言うならさ――」
愁の瞳がわずかに動く。
玲真は唇の端を上げ、囁くように毒を混ぜる。
「君の“守る”って、結局“壊されるのが怖い”だけじゃないの? その子を失ったら……君、また
“あのガラスの中”に戻るんじゃないの?
ねぇ、愁――君の愛って、所詮“檻”の延長だよ!」
――その瞬間、空気が凍りついた。
愁の胸の奥で、確かに何かが切れる音がした。
呼吸の音も、虫の声も、すべてが遠ざかる。
「……二度と……そんな台詞を口にするな……」
低く、深く、地を這うような声。
足元の土が爆ぜ、愁の姿が視界から消えた。
「――ッ!?」
玲真が反応するより早く、顎へ突き上げられた膝が炸裂。
続けざまに鳩尾、肋骨、顎――一撃ごとに
衝撃波が砂塵を舞い上げた。
玲真の身体が宙を舞う。
だが愁は追う。
浮いた身体を逃がさぬよう、肘、膝、掌底――
瞬く間に十数発の打撃が叩き込まれる。
風圧で広場の落ち葉が渦を巻き、欄干がきしむ。
玲真の笑顔が歪み、血飛沫が宙を描く。
それでも喉から愉快そうな声が漏れた。
「あは……っ、は……!! やっぱり、凄いねぇ愁……!! でも――」
玲真が腕を振り上げた。
瞬間、愁の頬を掠める閃光。
皮膚が裂け、血が弧を描く。
玲真の掌には、鋭く光る金属片――自身の折れた肋骨を握っていた。
それを刃のように突き立てる。
「――“愛”なんて、脆いんじゃないのぉッッ!!」
愁が腕で受けるが、刃が筋肉を裂いた。
血が飛び散る。
玲真はすかさず、愁の腹へ膝を打ち込み、反動で背後に回り、首を極める。
「ねぇ、愁……痛いだろ? この痛みこそが“生”だ。その子を抱くときも、こうして締めてみれば――同じ熱を感じられるんじゃない?」
「――ふざけたことをッッ!!」
愁の声は爆ぜるようだった。
全身の筋肉が瞬時に膨張し、玲真の腕を吹き飛ばすように弾き返す。
衝撃で玲真の肩が外れ、骨の音が響いた。
それでも彼は笑っていた。
「そう……その顔ぉ! 怒りと愛が混ざると……
愁は本当に美し……ぶふッッ!!?」
愁の拳が玲真の顔面を撃ち抜く。
「ぐ……ッ……!?」
返す刀で玲真も掌底を突き上げ、互いの顎を
撃ち合う。
衝突の瞬間、地面が波打つ。
両者ともに血を吐き、息を荒げ、足元がふらつく。
――互角。
破壊の中で、二人の肉体はすでに限界に近かった。それでも、愁の眼光だけは揺らがない。
「俺は……誰にも傷つけさせないッ!」
「なら……証明してみせてよッ!愛ってやつが、
この“兵器”を超えるってことぉッッ!!」
玲真が最後の力で跳ぶ。
指先を硬化させた突きが空を裂く――愁の胸を
貫く一撃。
だが――
愁は、その勢いを正面から受け止めた。
後退しながらも、拳を握りしめる。
血に濡れた拳を、胸の前で構える。
紅い瞳が、一瞬だけ閃いた。
「――愛は、壊すためのものじゃないッ……」
低く、震えるような声。
「守るためのものッ……!!」
次の瞬間、愁の拳が炸裂した。
風が爆ぜ、光が走る。
拳が玲真の顎を捉え、そのまま下方へ叩きつけるように――。
轟音。
玲真の身体が地面へと叩き落とされ、砂と石が宙を飛び山鳴りが響く。その光景は、もはや戦いというより“嵐”だった。
玲真の身体がぐったりと地に沈む。
それでも笑みは消えない。
血で濡れた唇を震わせ、彼は掠れた声で言った。
「ぐ……ぅ……ゃ……“あ……ぃ”……強……かはッ……」
愁は何も言わず、拳を握ったまま、ただ震える息を吐き出す。
***
静寂。
砂塵が落ち着き、広場にはようやく本来の“寂れた匂い”が戻ってきていた。
崩れた地面の上で、玲真がゆっくりと息を吐いた。
「はぁぁ……ぁ……」
骨が軋み、肉がうねり、皮膚の下で細胞が蠢くように再生していく。
だがその再生は、明らかに代謝を焼き尽くしていた。額に滲む汗は熱を帯び、まるで発熱する機械のようだった。
愁は、ただ立ち尽くしていた。
拳の感触がまだ残っている。
胸の奥では鼓動と、微かな罪悪感が混じり合っていた。
その時――。
「……ごめんね」
玲真がぽつりと呟いた。
血の味を含んだ息の中、それでも声は不思議なほど穏やかだった。
「“守りたいものを壊す”とか……違うんだ。
ちょっと……悩みごとがあってさ。答えが出なくて……俺と同じような愁なら、知ってるかと
思って……」
愁は答えず、視線を静かに下ろした。
玲真の目に、もはや敵意はなかった。
そこにあったのは、ただ――自分でも気づかないほど素直な安堵。
「……ごめん」
その一言が、朝の風に溶けていく。
愁は少しだけ目を伏せ、息を吐いた。
「……謝るくらいなら、素直に最初から聞いてほしいね……」
玲真は、にこっと笑った。
「あはは……だってさ、こないだ愁に勝ち逃げされたのが悔しかったんだもん……♪ また負けちゃったけど……」
さっきまで殺し合っていた相手の、あまりに
子供っぽい笑顔に、愁の肩から力が抜ける。
「はぁ……ほんと、いちいち調子狂うな。……無理に動かない方がいい。玲真、再生で相当エネルギー使ってるだろ?」
「……うん。たぶん今、焼け石に水ってやつ? 身体の中で糖が燃えて……」
玲真が冗談めかして笑おうとした瞬間――。
――ぐぅぅぅぅ。
腹の底から鳴る音に、愁が目を瞬かせる。
玲真の頬がわずかに赤く染まった。
「……ね? これだよ、再生の代償……最後の方、力抜けてたし……」
「……はぁ。ほんと、予想外だな」
愁が呆れたように眉を下げ、しゃがみ込む。
「行くよ。おんぶしてあげるから……」
「おんぶって……ぃ、いいよ……恥ずい……。
置いてって……」
玲真の声がわずかに震える。顔を見なくても、
赤くなっているのが分かった。
「歩けるの……? 誰かと連絡取れる?」
「……まだ、ちょっときつい……携帯持ってな……
あっ!?」
玲真が言い終える前に、愁は彼の腕を取って、そのまま背中に担ぎ上げた。
玲真の小さな呻きが耳元でくぐもる。
「っ……どこ、行くんだよ……?」
「“日向”に戻る。お前がいないと、さっきの騒ぎの収拾がつかないだろ」
玲真が息を整えながら、ぽつりと尋ねた。
「……なんか、食べさせてくれる?」
愁はまだ痛む肺を押さえ、短く息を吐く。
「……ドーナツなら……」
「なにそれ?」
「甘い食べ物」
「……なら行く♪」
愁は思わず笑ってしまう。
傷だらけの背中に、玲真の体温が伝わる。
朝の光が木々の隙間から差し込み、霧のように柔らかい風が吹いた。
広場を離れ、二人はゆっくりと木々の奥へと歩いていく。
***
陽の光が届かない木立の陰――その根元に、
ひっそりと埋められた金属の光があった。
トランクケース。開けると中には、替えの
仕事着がきっちりと畳まれて入っていた。
白いYシャツに黒のベスト、黒のスラックス、黒いネクタイ。
山中にあっても、それはどこか『日向』の香りをまとっていた。
愁はボロボロになった服を脱ぎ、淡々と着替え始めた。なんとか立ち上がれる様になった玲真は、その様子を眺めながら首を傾げる。
「……それ、予備?」
「……当たり前。任務中に服が裂けるなんて、
日常茶飯事だしね」
愁はもう一着、同じ服を玲真に投げ渡した。
「サイズは同じくらいでしょ?」
玲真は受け取りながら、唇を尖らせる。
「えー、ネクタイとか締めたくないー! 俺は
このままでも……」
その言葉を最後まで言わせず、愁がピシャリ
と睨む。
「だめ。どうしてもって言うなら――ドーナツ抜き。」
「ちぇー……ケチ」
不満げに呟きながらも、玲真はしぶしぶ袖を
通す。けれど、ネクタイの扱いがまるで分かっていない。
器用な指で布をねじってみるが、ただの結び目にしかならない。
呆れたようにため息をつき、愁が一歩近づいた。
「貸して。……ほら、こうやって――」
指先が玲真の喉元を滑り、布を丁寧に整える。
「……そういえば、玲真の“悩み”って……何?」
何気なく尋ねると、玲真はあっさりと口にした。
「んー、大したことじゃないけど……俺達を作った人間を種族ごと全滅させるか、ちょっと悩んでたの」
愁は特に驚きもせず、手を止めない。
「答えは出た?」
「うん。やめた」
「そう」
「“愛”の力に勝てそうにないから♪」
言われ、愁の頬が一気に赤く染まる。
「っ……それ、二度と言うな」
「あは……♪ 善処す……ぐ……」
ネクタイがきゅっと締まり、玲真の声が途切れた。
「う、そ……言わな……い……死にゅ……」
「まったく……」
愁が結び目を軽く整えると、玲真の胸元で黒い布が美しく形を取っていく。
「それと、さっきの騒ぎ、全部“お店の出し物”ってことにする。お客さんにも、葵さ――店長にも、
玲真のことは……俺の、“友人”ってことで伝えとくから。」
言いながら、愁の耳の先がほんのり赤くなった。“友人”という響きに、言った本人が一番戸惑っている。
玲真は目を瞬き、そしてふっと微笑んだ。
「友人……あはは♪ いいね、その響き。嫌いじゃない♪」
愁の指がわずかに震える。
“友人”なんて、自分には遠い言葉だった。
組織に所属し、生きてきた彼にとって、並んで
笑い合う存在は未知のものだった。
「ちょっと、黙って。ネクタイ締めづらい」
照れを隠すように小声で言う。
「それと、お店、手伝って。玲真がバイトって言っとかないと、お客さん納得しない」
「ふふっ♪ いいよ。バイト料くれるんでしょ?」
「調子に乗らない。ドーナツで十分」
「ちぇー……」
玲真は口を尖らせながらも、目には柔らかな笑みが浮かんでいた。
風が木々の間を抜け、枝葉が静かに揺れる。
木漏れ日の中、ふたりの胸元で並んだ黒いネクタイが、ふわりと揺れた。
――まるで、違う世界にいたふたりを結ぶ、細い絆のように。
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