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第百五十一話
『日向』を出てから二時間あまり。
陽はすっかり高く昇り、昼の光がテラス席を
包んでいた。
その階段を、愁と――肩を貸された玲真がゆっくりと登ってくる。
まだ少しぎこちない足取りではあったが、二人の姿を見た瞬間、客たちが一斉に駆け寄った。
「月見くん、だいじょうぶ!?」
一人がそう言うと、他の客も次々と口々に心配の声を上げる。
「あんな高さから落ちたのに、平気なのですか!?」
「はぁ……よかったぁぁ……愁様に何かあれば……
もう私……」
愁はその光景に、一瞬言葉を失った。
こんなにも自分なんかを気にかけてくれる人
たちがいる――それがただ、嬉しかった。
「……みなさん、びっくりさせてしまってすみません。そして、ご心配をおかけしました」
穏やかに頭を下げ、隣の玲真の頭も同じように下げさせる。
「頭を上げてください!」
「そんな……月見くんが謝るなんて……!」
「それより、その隣の彼は……?」
ざわつく声に、愁は苦笑しながら顔を上げた。
「実は……彼はうちの新人で、スタントマンの卵なんです。昨日、その練習に付き合う約束をしてたんですけど……それをうっかり忘れちゃって。それでちょっと怒られまして……」
頭をかきながら、もう一度ぺこりと頭を下げる。
(……苦しいな、この言い訳……自分でも無理あると思う……でも、他に言いようがないし……)
そう思っていた矢先、客たちの間から安堵の笑いが広がった。
「なーんだ、そういうことだったのね!」
「つまり、痴話喧嘩だったんですね♪」
「金髪×黒髪……あぁ……尊い……!」
「新たな……カップリング……はぁぁ……捗る……」
なぜか方向性の違う声まで飛び交い、愁は固まった。
「ち、痴話……喧嘩?」
頬が一瞬で熱くなる。
隣では、玲真が楽しそうに笑っていた。
「あはは♪ 俺たち、友人なのにね、愁♪」
その笑顔にさらに顔が熱くなり、愁は視線を逸らしながら、もう一度小さく頭を下げた。
「……それでは、業務に戻りますので。みなさま、このあともごゆっくりお楽しみください。」
そう言って、玲真の頭も軽く押して下げさせる。
そして赤い耳を隠すように俯きながら、愁は足早に扉を押し開け、店内へと戻っていった。
テラスに残った客たちの間では、いつまでも柔らかな笑い声が響いていた。
***
客室の扉が静かに開いた。愁が一歩、足を踏み入れた瞬間。接客をしていた京之介の視線が、
わずかに動く。
その目が愁の背後、続いて現れた玲真の姿を
捉えた瞬間――
空気が、鋭く張り詰めた。
次の瞬間、京之介の身体がふっと霞んだかと
思うと、愁の傍にいた。
「……愁。怪我は……どっか痛いとことか……?」
声は穏やかだが、息の奥に焦燥が混じって
いる。愁は小さく首を振り。
「……いえ……そこまでは……」
静かな声。けれど、指先がかすかに震えていた。
内側で焼けるように疼く痛みを、呼吸で押し
殺す。今、倒れるわけにはいかない。
京之介は一拍の沈黙ののち、玲真を見やる。
「……その小僧、やっぱしあんたの報告書の特徴通りやな……。なんか弱みでも握られた? なんやったら、ここで始末――」
笑みを浮かべながらも、声の下には刃が潜んでいた。
愁はすぐに首を横に振る。
「……だいじょうぶです。少なくとも、もう、
敵じゃない……。」
玲真が頭をかき、へらりと笑う。
「はじめまして。ちょーっと派手にやりすぎちゃって……ごめんね? あははは……」
その笑みの裏、傷ついた愁を見てわずかに目を逸らした。
京之介は愁の瞳を覗き込み、短く息を吐く。
「……なるほどねぇ。愁がそう言うなら、うちはそれ以上詮索せんわ。」
愁は小さく頭を下げる。
「……助かります。ついで、と言ってはなんですけど……彼は“死亡”のままで通しておいてもらっても良いですか……? 何かあれば、責任は俺が……」
その声音は、どこか遠く柔らかかった。
京之介は軽く肩をすくめ、苦笑する。
「んふふ……♪ ほんま、甘いなぁ……。そやけど――そう言うとこ……ッ」
そう言いつつも、京之介はわずかに眉を寄せた。愁の立ち姿に、かすかに滲む揺らぎ。
血の匂いがまだ、ほんの少し残っている。
「……愁。あんた、ほんまにいける?」
愁は、京之介には隠せないと悟り、玲真に聞こえないよう、そっと近づいた。
唇が、京之介の耳元でかすかに震える。
「……あとで、少しだけ……時間、いいですか……?」
京之介の瞳が和らぐ。
ふっと息を吐きながら、愁の頬にかかる髪を
撫で上げた。
「ええよ……ほんま、男の子やな……」
愁は微笑もうとしたが、その端が、わずかに震えた。その震えを、京之介は見逃さなかった。
けれど、そのとき――客席から注文を呼ぶ声が
響いた。
愁はわずかに顔を上げ、静かに息を整える。
「……まだ、大丈夫です。ちょっと客室、お願いします……」
京之介へ小さく囁き、痛む脇腹を庇うように
姿勢を正した。
次に、愁は振り返って玲真に視線を向ける。
「……玲真、行くよ。」
「行くって、どこへ?」
「厨房。……ほら、おいで。」
愁は手のひらで軽くおいでと合図を送る。
その指先の動きに、玲真は一瞬きょとんとしたが、素直にその背を追った。
――厨房。
ドアを開けると、立ち込める香ばしい甘い匂い。
葵が忙しそうに調理台の前で動いていた。
振り向いたその顔がぱっと明るくなる。
「あっ! おかえり、愁くん」
愁の顔を見た葵は、ほっとしたように微笑んだ。
だが次の瞬間、愁の横に立つ玲真を見て、動きを止める。
「……って、その子、誰……?」
愁は少しだけ目を伏せ、それから玲真を傍に立たせた。
「……さっきちょっと、派手に喧嘩しちゃった
けど。今は……友人です。」
葵は驚いたように瞬きをし、すぐに柔らかく
笑った。
「そうなんだ。……よかった。ふたりとも怪我とか、してない?」
その優しさに、愁はほんの一瞬だけ言葉を選んだ。
「……少し痛いけど……ふたりとも大丈夫です。
お店に迷惑をかけたので、あとで客室に戻ります。」
そう言って、愁は玲真の肩を軽く叩く。
「あ、この子は玲真っていいます。」
名を呼ばれた玲真は、にこっと笑って葵に向かい頭を下げた。
「はじめまして♪ 愁の友人になった玲真って
いいますー、よろしく♪」
葵はその元気な声に思わず笑みを返した。
「うん……よろしく。」
愁は二人のやり取りを見つめながら、少し声を和らげた。
「彼、すごくお腹が空いてて……。
もし良かったら、朝のドーナツの残りを食べさせてあげてもいいですか?」
「うん……? いいけど。」
葵が差し出した皿には、粉砂糖をたっぷりまとった日向特製のドーナツが山のように盛られていた。
愁はそれを玲真の前に置く。
「……どうぞ。」
玲真の目がキラリと光る。
「わぁ……! なにこれ!? 美味しそっ♪
いただきます!!」
一口、頬張った瞬間――玲真の動きが止まった。
目を見開き、次の瞬間には夢中で次の一つに
手を伸ばしている。
粉砂糖を口の端につけながら、大量だった
ドーナツを、あっという間に全部を平らげた。
「はぁぁ……生き返るぅぅ!!」
葵がくすくすと笑い、愁は少しだけ目を細めた。
その横顔には、戦いの疲れが微かに残っていたが、
玲真の無邪気な姿を見て、ほんの少しだけその表情が和らいだ。
「美味しかった?」
愁が静かに問いかけると、玲真は口の端に
粉砂糖をつけたまま、にこっと笑った。
「すっごいうまかった♪」
その声には、満たされた幸福と、再び動き出した生命の熱が混じっている。
Yシャツの隙間やスラックスの裾からは、わずかに立ちのぼるような再生の熱気――。
戦いで損傷した身体が、確かに回復しつつあるのがわかる。
「良かった……じゃあ、バイト頑張ろうね。」
愁が穏やかに告げると、玲真は目を丸くして
愁の方を振り返った。
「はっ!? そんな話――」
「した。しかもさっき。」
愁の声が、すっと被さる。
「バイト代の話もしたし、玲真はドーナツで十分って結論になったでしょ?」
玲真が口を開きかけた瞬間、愁は彼の耳元へ
身を寄せて囁いた。
その声は低く、けれど優しさを含んでいる。
「玲真のおかげで、けっこうお客さんにも……店長さんにも、京之介さんにも迷惑かけたんだよね?」
「うっ……」
玲真の肩が小さくすくむ。
「いいよね? 玲真は、そんな無責任に食べる
だけ食べて逃げるような“友人”じゃないもんね……?」
愁の声は穏やかだが、逃げ道を塞ぐようにやわらかく追い詰めていく。
「っ……もちろん! 俺も憶えてたしね! もう体力戻ったし……いくらでも……」
「……ありがと。」
愁は小さく微笑み、葵の方へ顔を向ける。
その表情には、ほんの少しだけ安堵が混じっていた。
「というわけで葵さん。玲真のこと、こき使ってあげてください。よろしくお願いします。」
そう言われた葵の顔がぱっと明るくなる。
「わぁ、助かるよ! 愁くんも居なかったし、
ちょうど手が足りなくて。よろしくね……
えっと、玲真くん♪」
「あは、は……期待にそえるよう頑張るよ……」
「京之介さんよりは出来るって期待してるよ! とりあえず大量に溜まった洗い物からね♪」
葵が笑いながら指差す先には、山のように積まれた皿とグラス。
玲真は目を丸くして、しかしすぐに肩をすくめて笑った。
「……わかった。やるよ、やればいいんでしょ!」
その明るい声を背に、愁は小さく微笑んだ。
厨房を満たす香ばしい匂いと、温かい声のざわめき。
そのどれもが心地よいはずなのに――
愁の胸の奥では、さっきまでの戦闘の痛みが鈍く脈を打っていた。
葵が振り返る前に、愁は
「……少し、客室を見てきます。すぐ戻りますから。」
短く告げて、扉を押した。
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