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第百五十二話

 厨房を後にし、愁が客室へ戻ると――  そこには、先ほどと変わらぬ笑い声と談笑が溢れていた。けれど、ふと違和感が走る。  どのテーブルからも、注文の手も声も上がっていない。昼どきが近いというのに、誰も新しい 注文をしていなかった。  愁が眉をひそめるより早く、静かに横から伸びた手が彼の腕を支えた。  振り向けば、京之介。  顔の距離が近く、その笑みはどこか妖しく―― そして、優しかった。 「……これは、どういう……?」  愁の問いに、京之介は朱を帯びた黒髪を揺らしながら、唇の端を上げる。 「んー♪……あんたがいーひんあいさに、 お客はん達にちょいお願いしただけやわぁ…… “あんたとふたりっきりの時間がどないしても欲しい”ってな……♪」  冗談めかして言うその声に、どこか熱が混じっていた。  愁がまわりを見渡すと、客たちは皆、柔らかく微笑んでいる。  まるで二人の間に流れる空気を、そっと祝福するかのように。  中には、こっそり親指を立てて応援する者さえいた。 「……京之介さん。本当に、それだけですか……?」  愁の声には、かすかな戸惑いと息苦しさが滲む。  京之介は肩をすくめ、唇に指先を当てた。 「そうやけど……まぁ、受け取り方は、人それぞれやんなぁ……」  その言葉には、意味を含んだ甘い気配があった。 「……っ……」  愁の体に再び鈍痛が走る。  微かに震える指先を握りしめ、彼は短く息を吐く。  ――もう限界だった。  気丈に立ち続けてはいたが、内側の熱は止まらず、視界が滲む。  それでも、愁はまっすぐに京之介を見た。  その眼差しの奥に、わずかな弱さと、信頼が 入り混じる。 「……京之介さん。少し……付き合ってください。」  小さな声。  それでも確かな意思が込められていた。  京之介は、微笑みもせずに頷いた。  そのまま愁の手を受け取り、軽やかに歩き出す。  客たちが息をのむ中、ふたりは静かに備品室の方へと消えていった。  ドアが閉まる音が、やけに柔らかく響いた。  ――陽射しの残る客室に、しばらくのあいだ、 静けさだけが漂っていた。 ***  棚に並ぶ瓶や紙類の匂いの中、ただふたりの 呼吸だけが確かに重なっている。  光の乏しい室内で、京之介の朱を帯びた髪が わずかに揺れた。  黒の中に潜むその紅は、燭のようにかすかに 揺らぎ、愁の視界をとらえて離さない。  白磁のような肌。わずかに笑んだ唇は、血の ように赤く、その一挙一動がなぜか現実味を失っていく。  まるで夢の中のように――いや、夢よりも現実的で、美しい。  京之介が歩み寄る。その動きは流れるように滑らかで、黒髪の中にわずかに混じる朱が、光を 受けて艶めいた。  伏せた睫毛が長く影を落とし、その奥の瞳は 紅い色。  笑みの形を作る唇は、まるで絹のようにやわらかそうだった。 「……愁。痛むやろ?」  低く優しい声が落ちる。  愁は少し目を伏せ、いつもの調子で答える。  「一応、京之介さんに言いましたからね…… その通りにしてるだけ……。ちょっと……疲れた だけですから……」  けれど、肩がわずかに震え、立っているのも辛そうだった。 京之介はその様子に、ふっと息を吐く。  「あんた、ほんま昔っから変わらんなぁ。 限界まで我慢して、誰にも心配かけんようにして」 愁は唇を噛み、少しだけ笑った。  「……葵さんや、お客さんに心配かけたくなくて。それに、なんとなくだけど……あいつの前で……弱ってるとこ見せたくなかったんです。」  京之介は静かに頷いた。  そして、その目が少しだけ細くなる。  その視線はまるで、長い年月を越えても愁を 見つめ続けてきた兄のように――いや、それ以上にやわらかい。  「……うちの心をこれだけ蕩けさすくらい…… すっかり大人になってもうた思てたけど……」  言葉を区切り、京之介はそっと笑った。  「そういうとこ残ってるん、うちは好き……。  まだ“子ども”みたいな顔する愁が見られるん、正直うれしい」  愁は驚いたように目を見開く。  「……嬉しい、ですか……?」  「うん。あんたがどんだけ強うなっても、  こうして“可愛げ”残してくれると、うち…… なんか、ほっとするんよ……」  京之介の指先がそっと愁の頬に触れる。 「んふふ……♪ ま、時間……あんまりあらへん さかい、やってまおか……」  指の節がかすかに冷たく、けれどその奥から 確かな体温が伝わる。 「……お願いします……。」  愁がそう呟くと、息が触れそうな距離で京之介は微笑み、低い声で囁く。  「……ん。お口、開けて……」  その一言が、愁の胸の奥でやわらかく弾けた。言われるがままに唇を開け、京之介も薄く唇を 開く。  ツー……と、透明な唾液の糸がゆっくり引き 出され、愁の舌先に優しく垂れ落ちる。  微かに輝く甘い雫は、温かくぬるぬると 舌を濡らし、ほのかな甘酸っぱさが愁の口内に 広がった。舌が自然とそれをすくい、ねっとり 絡め取り……飲み込んだ瞬間――  喉の奥から温かさが染み出した。愁の身体の 内側で、熱がじんわりと広がっていく。 「ん……ぁ……」  裂けた筋肉の隙間を縫うように、暖かなものが滲み、血の流れが整っていくのが分かる。  呼吸が軽くなり、痛みが遠のく。 ――これが戦闘特化体の治癒の、慈愛のキスの力。  愁が静かに目を開けると、京之介はほんの 数センチ先で息を整えていた。  頬には薄紅がさしていて、瞳は少しだけ揺れている。 「慈愛のキスって言うけど……これが一応、 正式なやり方やねんけどな……」  言いながら、京之介は耳のあたりを指先で かき、どこか照れたように少しだけ視線を逸らした。    愁はそんな京之介を見上げ、口元に微かな笑みを浮かべる。 「……そうなんですね。俺……初めてでした。」 「ん……?」 「慈愛のキス自体も……この前の、京之介さんとが初めてで。そのうえ、正式なのまで……京之介さんが最初……ふふ♪ 初めてばかりですね。」  京之介の目が一瞬まばたきを忘れる。  そして、息を零すように笑った。 「んふふふ……♡ ほんまに……あんたは、かわええこと言いよる……」  京之介は愁の髪を撫で、前髪の隙間を指で梳きながら、その赤い瞳にやさしく微笑む。  愁はその指のぬくもりに、目を細めて。 「……ありがとうございます。」 「礼なんていらん。うちは……あんたが傍にいるだけで、もう、報われとるわ。」  その言葉に、愁はそっと笑った。  外の光が細い隙間から差し込み、ふたりの影を寄せて溶かしていく。  京之介の指先がまだ頬に触れていて、ふと そのまま視線が重なった。  何も言わなくても、互いの呼吸の熱が胸を焦がしていく。  「……京之介さん……」  愁が囁くと、京之介はかすかに目を細め、唇の端をやわらかく吊り上げた。  「……愁……」  名前を呼び合うたったそれだけのことが、 言葉より深く、確かな絆を確かめ合うように心の奥へ染みて――  ――そこで愁の耳に、遠くから客の笑い声が戻ってきた。 「っ……まずい……お昼のピーク、始まってます……!」 「ちっ……!」  密着していたふたりは慌てて離れる。  京之介は息を整えながらも、名残惜しげに愁へと手を伸ばし、その襟元を指先で直した。 「……ほんまは、もうちょい……こうしてたかった……」  その声の柔らかさに、愁は胸の奥が熱くなり、 小さく俯いて呟く。 「……俺、も……。」  その言葉に、京之介の口元が緩む。 くすっと笑って、名残を断ち切るように指先で 愁の額を軽く弾いた。 「はよ行こ。……でないと、うち、ほんま離されへん。」  その声音には、ほんのわずかな甘さが混じっていた。愁は顔を赤らめたまま頷き、扉の方へ向かう。  備品室の扉が開く。  光の差す先で、まだ少し絡まり合ったままの ふたりの笑みが客室へと戻っていった。

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