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第百五十三話

 人見知りが激しかった昔の僕は、もうどこにもいない。  愁くんと出会ってから、本当に色んなことが 変わった。  たくさん話して、たくさん笑って。  お客さんも、たっくさん増えて。  凛くんや、京之介さんていう友達も出来て。  だから、こうして玲真くんと厨房にふたりきりでも、ぜんぜん気まずくなんてない――  ことはないんだけど……前よりマシ、かな。 「そっちは泡をもう少し落としてね。はい、次、右の棚からボウル取って。」  ちょっと不器用な玲真くんに簡単な指示を出しながら、僕は手際よく厨房を回していく。  それにしても、こんなに毎日忙しいのに、 なんであんまり疲れないんだろ? 愁くんと過ごす楽しい毎日のおかげかな……?  前に愁くんが「キスのおかげですよ♪」なんて言ってたけど、意外と本当かもしれない。  そんなことを思っていると、  皿を割らないように慎重に洗っていた玲真くんが、ぽつりと呟いた。 「……あぁ、多分……店長さんのことなんだね。 愁が言ってたのは」  思わず手が止まった。洗い場の音が遠くに霞んだ気がした。  「え……愁くん……僕のこと、なんか言ってたの?」 尋ねると、玲真くんは 「しまった」って顔をして、慌てて口を閉じた。  沈黙。水の音だけが、やけに大きく響く。  ……気になる。すごく気になる。  僕は小さく笑って冷蔵庫から、お皿を一枚取り出してた。そこにのっているのは、特製の生 チョコソースをたっぷりかけたドーナツ。  まだ誰にも出してない僕のオヤ……“試作品”。 愁くんにも内緒の一品だ。 「教えてくれたら……これ、食べさせてあげてもいいよ♪」  お皿を左右に揺らすと、玲真くんの瞳もその ままふらふらついてくる。  その素直さが可愛くて、笑いを堪えてると 「っ! わかった! 言うよ♪」  玲真くんの目が一瞬で輝いて、僕は思わず 吹き出してしまった。 「ふふ、交渉成立だね♪」  さっきドーナツ食べてるとこ見て確信してたけど、やっぱり甘いものが好きなんだね。愁くんとちょっと似てる。  僕は「はい、どうぞ」とお皿を差し出した。 「いただきまーす♪」  チョコソースたっぷりのドーナツを一口食べた瞬間、玲真くんの顔がぱぁっと明るくなった。 「うまいッ!! これ、めちゃくちゃ美味い!!」って言ってくれた。  可愛い男の子にそんな顔で言われると、思わず頬が緩んじゃうけど―― 今はそれどころじゃない。 「で……愁くんは、なんて?」  チョコソースを指で掬って舐めながら、 玲真くんは少し視線を落として、ゆっくり 話し始めた。  愁くんと喧嘩したのは今回が初めてじゃないこと。  前に負けたのが悔しくて、もう一度挑んだこと。  愁くんの“本気”を見たくて、あえて酷いことを言ったこと――。  「……愁くんの、本気……?」  玲真くんはうなずいて、ちょっと申し訳なさそうに笑う。  「それで、聞いたんだよ。なんでお前はこの店を守るんだって。そしたら愁が――“このお店の中の誰かを、愛してる”って言ったんだ。」 ――時間が止まった。  僕の心臓が、どくん、と一拍、強く鳴って、 それから早鐘みたいに暴れ出す。  胸の奥が熱い。  息を吸うたび、空気が甘くて苦しい。  “愛してる”。  “愛してる”。  “愛してる”。  “愛してる……♡ ”。  その言葉だけが、頭の中でぐるぐる回る。 何か言ってる玲真くんの声も、水音も、全部遠くに霞んでいく。  “好き”でも“だいすき”でも届かなかった場所に、そのひとことが突き刺さる。  心の奥が、ゆっくりとほどけていく感じ。  涙が出そうなのに、口元だけが笑ってる。  「最初はね、背の高い愁と同系のあいつかと 思ったんだけど――」  「っ……は!?!?」  思わず変な声が出ちゃって、玲真くんがびくっと肩を震わせた。 「ご、ごめんっ……つ、続けて……」  心臓の音が、うるさくて、自分の声がかき消されそう。   「うん……結構当たってる気がしたんだけど、 違う気もしてさ。それで、店長さんと話してる 愁を見て、わかったよ。あいつ、めっちゃ幸せ そうな顔してた♪」 「はぅッ……!!!♡♡」 「っ……店長さん、声……ちょっと大きいかも。  俺もまだ全快じゃないから、かなり胸に響くんだけど……?」 「あ、はは……ごめん……」  心臓が壊れそう。どうしよう。  “愛してる”なんて――そんな大事な言葉を、愁くんが。 「あ、それでさ、俺がこの制服をもらった時も……」  玲真くんがクルッと回って見せてくれた。  気に入ってるっぽくて、その動きがどこか誇らしげで、ちょっと可愛い。 「まだ俺を警戒してたんだと思う。  だから、店長さんの名前も出さなかった。  一番、大事にしてる人なんだろうなって……」 胸の中がぐるぐるして、息が浅くなっていく。  自分でも何に照れてるのかわからない。  でも、わかっちゃうんだ。愁くんの “愛してる”は、きっと――僕に向けたもの。  「十中九十、店長さんを愛してるんだろうなって思ったんだよ♪」  玲真くんが笑って、いたずらっぽく言い切ってから「あっ」て顔をして、 「これ、内緒ね? じゃないと俺、マジでバラバラにされそうだから」  なんて冗談っぽく言ったけど、僕の耳には届いていなかった。  もう心臓がどうにかなりそうで、シャツの下の胸を押さえる。  熱くて、痛くて、嬉しくて――ぐちゃぐちゃ。  “愛してる”――“好き”よりもずっと重たい言葉。  結婚を誓うみたいな響き。  その言葉が脳の中を何度も跳ね返って、もう まともに立っていられない。   ――結婚……結婚……愁くんの奥さんは……僕……♡  頭の中がなんか妄想でいっぱいになった瞬間――  「葵さん、三番テーブル、玉子サンド、それとブレンドホットでお願いします。」  ――ッ!?!?!?!?!?  僕の身体が、びくん! と跳ねた。  背筋が一瞬で熱くなって、膝まで力が抜ける。  声を出したいのに、喉がくすぐったくて――  「はひゃうッッ!!?」  ……出た。変な声。  玲真くんが皿を落としそうになってる。 「どうしたんですか? あ、玲真ちゃんと手伝いできてる?」  「も、もちろん! 当然っ! 製造人間の 適応能力を舐めない方がいいよ!」  「……ならいいけど。葵さんに迷惑かけたら 承知しないからね。」  「わ、わかってるって!」  愁くんは軽く微笑んで、客席へ戻っていった。  その背中が見えなくなっても、僕の鼓動だけはおさまらなかった。  まるで身体の中に、愁くんの声が残響してるみたいに――。  「……ど、どうしよう……」  胸に手を当てても、どくどくと音が止まらない。  頭の中では、“愛してる”がいつまでも鳴り続けてる。  ――愁くん、そんな言葉、ずるいよ。  もう、どうやって冷静に仕事すればいいの……。  

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