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第百五十四話

 『日向』の午後は、最後まで燃え盛った。  客室では、愁と京之介の備品室騒動(という名の甘い噂)で、まるで火を点けたように盛り上がり、笑い声が絶えなかった。  愁が皿を運ぶたび、常連客たちがすかさず囁き合う。  「ねえねえ、愁くん、さっき京之介さんと何かあったんじゃない?」  「もっとゆっくり“して”くればよろしかったのに……ふふふ♪」  わざと聞こえるような声色に、愁の手が一瞬止まる。  皿を持つ指先がぴくりと震え、耳の先がみるみる赤く染まっていく。  「……な、なんの話ですか……」  目を逸らしながらも必死に平静を装うその姿がまた可笑しくて、客席からはくすくすと笑い声が弾けた。  その笑いの中心で、「なんのことやら……んふふ……♪」と余裕の笑みを浮かべていた京之介。  ところが――  「あっ、九条様、首元に虫刺されが……♡」と誰かが声を上げた途端、  「は……嘘やん!? そこまでは……!」と、顔を真っ赤にしてのけぞった。  その反応に客たちは一斉に歓声を上げ、  「やだ〜! 朝から情熱的〜!」「二人とも隠せてませんわよ〜!」  「愁くん、見えてる見えてる〜♡」  笑いと冷やかしの渦に包まれて、客室は明るくなる。  京之介はトレイで顔を隠し、愁は皿を抱えたまま俯いて――  二人の耳まで真っ赤に染まるその様子に、  誰もが幸せそうに笑っていた。  そんな客席とは裏腹に、厨房では葵が完全に 挙動不審だった。  オーダーを受け取るたびに、葵は愁の方を ちらちら見ては、顔を真っ赤にしてフライパンを握る手をぎこちなく動かしていた。 「五番テーブル、オムレツお願いします」 そう声をかけると、葵はロボットみたいにピンと背を伸ばして、「は、はいぃっ……!」 と裏返った声で返事をし、卵をひとつ落とし。 玲真が床に落ちる寸前で拾い上げてフォローに 回る。 「大丈夫、店長さん? あ、これもう洗っとくから!」 「ぁ、ありがと……ご、ごめんね……!」  そんなやり取りを横目で見ながら、愁は唇の端をわずかに緩めた。 (……どうしたんだろう、葵さん。今日は、なんだか妙に落ち着きがない……)  けれど、さっきから大勢の客に京之介とのことでからかわれている愁には、声をかける余裕も なかった。  葵の顔はさらに赤く染まり、視線を合わせようともしない。 ――まるで、何かを隠しているみたいに。  それでも、その仕草が愁にはどうしようもなく愛しく見えてしまうのだった。 ***  営業が終わり、『日向』に静けさが戻る。  葵は一人、厨房で明日の仕込みに集中して いる。  京之介は、念のため玲真を観察しつつ、愁と 三人で客席の掃除をしていた。  モップをかけながら、愁はふと考える。 (……まさか、朝はあんな状況だった玲真と、夕方には一緒に働いてるなんて……)  怒りはあっても、殺意まではなかった。 玲真の中には、どこか“敵意”というよりも“戸惑い”が見えたからだ。  (それに、あれは任務でもない。ただの衝突……いや、あれは“戦闘特化体と製造人間の喧嘩”とでも言うか……) 「ねえ、玲真」  愁が声をかけると、モップを持つ玲真が振り向いた。 「なんだよ、もうバケツはひっくり返さないって!」 少しむっとしたように返す声が可笑しくて、愁は思わず笑ってしまう。 (そういえば――俺も初日に、モップの絞り方を 間違えてバケツひっくり返しちゃったな……。) 「違うよ。……働いてみて、どうだった?」 その問いに玲真は一瞬考え、少し照れくさそうに笑った。 「面白かったよ。ま、一番面白いのは、まさか戦った相手と、今こうやって一緒に働いてるってことだけど。あはははは♪」  笑うと同時に、どこか機械的な残響が空気に混ざった。 その瞬間―― 「あ゛ぁあっ!? せっかく高得点ッ! 笑うなアホガキィ!!」  監視役のはずの京之介の、スマホゲームの画面を真っ黒にして絶叫させ、その声が店内に響き 渡る。  愁と玲真は、同時に顔を見合わせ――吹き出した。 「ふふ……♪ 京之介さん、仕事中にゲームしてたんですね」 「ははっ……真面目に働けよなぁ!」 「んも! 笑うんとちがうよ、あんたたち!」  京之介はわざと怒ったふりをしてみせるが、口元はどう見ても笑っている。  そんな空気が可笑しくて、愁も思わず目を細めた。  ――その時。 ぐぅぅぅぅ……  静かな店内に、玲真のお腹の音が響いた。  一瞬、空気が止まって……次の瞬間、京之介が吹き出した。 「んふふっ……こら、ええ音出したなぁ。まるで怪獣の雄叫びや♪」 「……頑張った証拠だよ、玲真……」  愁は肩を震わせながら、玲真の頭を軽くぽんと叩く。 「う、うるさいな! 腹減っただけだよ!」  玲真は耳まで真っ赤になって反論したが、その声がまた笑いを誘った。  結局、三人ともつられて笑ってしまい。  笑いが収まると同時に、玲真はふにゃりとその場に座り込んだ。  力が抜けたように、少しぐったりしている。  愁はモップを壁に立てかけて、心配そうに声をかけた。 「……玲真、大丈夫?」 声をかけると、玲真はゆっくり顔を上げて、 少し照れくさそうに笑った。 「……だいじょぶ……」 短くそう答えたあと唇を動かし、何か言い出しづらそうに視線を泳がせる。 「あのさ……愁」 「ん?」 「朝の……ドーナツってやつ、もらっても いい……?」 ぽつりと零したその声が、まるで小動物の鳴き声みたいで、愁は思わずくすりと笑ってしまった。 ――悪意がない。  最初に戦った時の玲真は、誰かの模倣のよう だった。  言葉も、仕草も、まるでそうプログラムされているみたいで、そこに本人の感情がなかった。 だが今は違う。  声の調子も、言葉の選び方も、ひとつひとつが玲真自身の“気持ち”でできている。 それが、なんだか少し嬉しかった。 「いいよ。葵さんにお願いして、作ってもらおうか。」  愁がそう言うと、玲真の表情がぱっと明るくなる。 「ありがと……! それと、もし……だけどさ」 言葉を選びながら、玲真は指を三本、少しして から四本にして見せた。 「あのドーナツ、食べさせたいやつがいて…… 三つ……いや、四つ、いい?」 愁は小さく笑ってしまう。 (……まるで凛みたい……)  どこか素直で、まっすぐで。 誰かを思って動く、そんな仕草が懐かしく感じる。 「頼んでみる。……少し休んでていいよ。」  そう言って、愁は立ち上がり、ちらりと京之介の方を見た。 「京之介さん、掃除サボらないでくださいね」 「……昼はうちが主導権握っとった気ぃするのになぁ……」  ふざけるような京之介の言葉に、愁は小さく笑って肩をすくめる。  そのまま厨房の扉へ向かうと、客席に残る コーヒーの香ばしい香りと笑い声の余韻が、背中をやさしく押した。

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