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第百五十五話

 今日はなんだか、胸がずっとドキドキしてる。 理由は……うん、分かってる。 “愛してる”って、愁くんが言ってくれてたって――玲真くんから聞いちゃったから。  直接、愁くんの口から聞きたいのに、いざその時が来たら……多分、僕の心臓、幸せ過ぎて壊れちゃう。  だから、とりあえず今は、そう、落ち着くためにドーナツを揚げてる。 油の音と甘い匂いが広がる厨房。  あぁ、集中出来る……。集中、集中…… そうそう、このドーナツフライヤーって凄い 便利、下の段で発酵もしてくれるし。  昨日凛くんと一次発酵させた生地は冷蔵庫で 長ーく二次発酵させてるから、冷蔵庫から 取り出して、ガス抜きして丸めて、ちょっと発酵させたらあとは揚げるだ―― 「葵さん。」 「けわッッ!?!?」  ……その声が聞こえた瞬間、心臓が跳ねた。  振り向いた拍子に、なぜか足が滑って、手の ひらのドーナツ生地が宙を舞った。 ――けど、不思議と怖くなかった。 だって。 「……大丈夫ですか?」 「ぁ……ありがと……」  ……いつも、こうだもん……。  気づいたら、愁くんの腕の中。 落としかけた生地も、彼の手のひらでちゃんと 受け止められてて。  愁くんは、いつだって僕を見ててくれる。  どんな時でも、助けてくれる。 「今日、なんだかヘンですよ?」 穏やかにそう言われて、顔が一気に熱くなった。 「そ、そんなことないよ……!」  必死に否定したけど、きっと顔、真っ赤だったと思う。  愁くんの瞳が、すごく近くて。 その距離で息をするたびに、胸の奥まで熱がこもってく。  ……ねぇ、そんな優しい顔で見ないで……余計にドキドキする……。 「……そ、それより、なんか用があったんじゃないの……?」  逃げるように言った僕に、愁くんは小さく息を吸って、手の中の生地をトレイに戻した。  それから、少しだけ恥ずかしそうに。 「……実は、お願いがあって……」  その言葉の響きが、いつもより少し低くて。  胸の奥が“ドクン”と大きく跳ねた。  ……な、なに? この声……いつもより 優しい……? ぼ、僕の聴こえ方が違うだけ……?  ど、どうしよう、これ……。  心臓の音も、鼓膜のすぐ横で鳴ってるみたい……。  そういえば、こないだ病室で言ってくれた。  “いつか伝える”って……。  あの時の愁くんの真剣な顔が、急に頭をよぎる。  ……それって……今、なの……?  視界がぐるぐるする。  ……けど、もしそうなら……嬉しい、かも……ど、 どうしよう、顔が熱い……っ。 「ぁ……あ、ぅ……」  声がうまく出ない。  頭の中では“落ち着け僕”って何度も言ってるのに、心臓が自分の意思を無視して暴れ始める。    手が震えて、指先まで熱い。  ……もしかして……結婚、とか……そういうの……?  頭の中で、勝手に純白のベールとか鳴り響く 鐘の音とか浮かんでくる。  ……僕も“応える”って約束したし……。  あれから、まだそんなに時間は経ってないけど……。  でも、でも……愁くんがどうしてもって言うなら――  不束者だけど、僕……♡ 「……な、なに……?」  声が震えて、喉の奥が熱くなった。 愁くんは少し照れたように、頬をぽりぽり掻いて、いつもの優しい笑顔を浮かべて―― 「玲真……お腹空いてるみたいで。ドーナツ、揚げてくれないかなって。」 ……え?  一瞬、思考が止まった。  花束も指輪も、鐘の音もぜんぶ消えて、代わりに浮かんだのは丸くてふわふわのドーナツだけ。  ――なんだ、もう……。  力が抜けて、思わず笑ってしまった。 「ふふ……もう、びっくりした……。そ、そんなことかぁ……♪」  笑いながら、愁くんの胸を軽く人差し指で押したら――その瞬間、逆に腕を回されて、ふわりと 抱き寄せられた。 「ぅ……あ……どしたの、愁くん……?」 「……あと、もうひとつだけ……」  そう言って、愁くんの指が僕の頬をなぞる。  その指先が唇のすぐ近くで止まって――呼吸が 重なる。 「ん……」  唇が触れた。短いキス……それなのに、熱が 舌の奥まで落ちていくみたいで、身体の芯が じんわりと痺れた。 「ぁ……なんで……」 「……今日……葵さんと、キスしてないから…… なんだか、寂しくて……」 「っ……♡」  その可愛い囁きに、僕は頬を染めたまま、うなずくことしかできなかった。 「……あ、す、すぐ……用意するから……ちょっと 待ってて……」 慌てて愁くんの腕の中から離れる。  そっと距離を取っても、あの腕の温もりだけが、まだ背中に残っていた。  「……ありがとうございます。では、ちょっとあのふたりだけでは心配なので」  愁くんは少し寂しそうに微笑んで、  「客室に、戻りますね。」 と静かに言い、扉の向こうに消えていった。   ――危なかった。  あのままじゃ、キスで止まれなくなってたかもしれない。客室には、まだふたりがいるのに。 ……ごめんね……。  だって、やっぱり僕は、愁くんのことが大好きなんだ。愁くんの腕の中の温度が、いちばん 落ち着くんだ……。  ……あぁ、気持ちが落ち着かないなぁ…… ほんの少しだけでも、ふたりきりになりたい……。 ――そんな想いをぐっと飲み込む。  僕はため息をひとつついて、またドーナツを 揚げ始めた。  甘い香りと油のはぜる音が、胸のざわめきを 誤魔化してくれる気がして。  

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