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第百五十六話
愁が厨房から離れ、客室の方へ戻ると、空気はすっかり落ち着いていた。
フロアの隅では、京之介がモップをゆっくりと動かしていて、
その足元には、しゃがみこんだままの玲真が
いた。
さっきまでの笑い声はもう消え、静かな夕方の時間だけが残っている。
「……終わりました?」
愁の問いに、京之介が振り返る。
艶のある髪が揺れ、唇がゆるやかに笑う。
「んふ……ここで終わり。ほら、この子がもうバッテリー切れやさかい……♪」
「……誰が、バッテリーだよ……」
玲真がむくれた声で返す。
でもその表情には、どこか人間らしい柔らかさが滲んでいた。
京之介は床をぴかぴかにしたモップを片づけ
ながら、何気ない調子で言った。
「送ったるわ。どうせ歩きで来たんやろ? うちの車で帰りぃ」
「あ……別に、いいよ。ドーナツ食えば、大丈夫だし」
「んふふ……そう言うと思った。けどな、玲真。
あんたらの“造り”のこと、少し聞いときたいんや。ええか?」
その声音に、玲真の瞳がかすかに揺れる。
――“造り”。
その一言に、彼の肩がわずかにこわばった。
「……仲間を裏切るような話は、できないからな」
玲真の声には、かすかに棘があった。
けれどそれは、敵意というよりも自分達を
守るための壁のようなものだった。
「んふふ……そんな顔せんでもええ。
うちはただ、ちょっと気になるだけや」
京之介は笑いながら、モップの柄を軽く回して壁に立てかけた。
「“あの子ら”って、どんな風に動くんやろなぁ。
……まだまだ強い奴いるんやろ? うち、強い奴を見ると、ちょっと疼くんよ……♪」
その口調は穏やかだけど、どこか獣のような光を帯びていた。
玲真は眉をひそめ、空腹で開いていた手に力を込める。
「……やっぱり戦いたいのか」
「うふふ……♪ そらまぁ、うちの性分やからねぇ」
軽口のように言いながらも、京之介の瞳の奥に一瞬、鋭い光が走る。
愁がそれを見て、静かに言葉を挟んだ。
「京之介さん。……俺たちは、任務の為に戦うけど、楽しむために戦うわけじゃないですよ」
「分かってる分かってる。……けどな、愁。
戦いって、時々“相手を知る”ために必要やと
思わん?」
愁はその言葉を受けて、短く息を吐いた。
「……否定は、できませんね……」
それだけ言って、厨房の方に視線をやった。
玲真は二人のやり取りを見つめながら、ゆっくりと笑う。
「……俺も分かる。戦ってみて、やっと分かることってあるし」
玲真の声は落ち着いていた。
「今朝、愁とぶつかって……怖いくらいに正確で、無駄がなくて、なのに、どっか……人間らしかった。あの瞬間、こいつの“生き方”が見えた
気がした」
愁は視線を逸らし、小さく苦笑する。
「……褒め言葉として、受け取っておくよ」
京之介はその様子を楽しむように、唇を吊り上げた。
「んふふ、そうやん。血の匂いの中でしか分からん“理解”っちゅうのもあるわな。うちはな、そういう瞬間がたまらんのよ」
玲真はちらりと京之介を見て、少し挑発する
ように口の端を上げる。
「……あんたも、戦うの好きそうだもんな」
「んふふふふ……♪」
京之介は軽く肩をすくめ、楽しげに目を細めた。
「愁や凛ほど若うはないけど……強い奴と手合わせするのは、まだまだやめられへんのよ」
「……そういうの嫌いじゃないけどな、俺も……」
玲真は立ち上がりながら呟いた。
その目には、一瞬だけ鋭い光が宿っていた。
「愁とは、もう一回やりたいし♪」
愁は驚いたように眉を上げ、それから静かに
頷いた。
「機会があれば、いつでも」
「へぇ……腹が減ってなかったら俺、多分、
愁より強いよ」
「望むところ……♪」
「……んふふふふふふ♪ 元気やねぇ、若い子は」
京之介が細い指で前髪を払い、赤を帯びた瞳で
ふたりを見やる。
「うちも混ぜてみる? 愁とは最近、訓練もしてへんかったし……製造人間の実力も、ちょい気になるし」
冗談めかした声音なのに、その奥には確かな鋭さが潜んでいた。
「二人がかりでも構へんよ。片手で相手したる♪」
軽やかに笑うその姿に、場の空気がわずかに
張り詰める。笑っているのに、誰も笑えない。
京之介がほんの少し腰を傾けただけで、空気が
びり、と揺れた。
玲真が息を呑み、愁も無意識に体の重心を変える。
――その瞬間。
厨房のドアが、かすかに音を立てて開いた。
油と砂糖の香りがふわりと流れ出し、張りつめていた空気が一気にやわらぐ。
「お待たせ……これ、ドーナツ。揚げたてだから、熱いかも」
甘い香りと一緒に紙袋を抱えて現れた葵の姿に、三人の視線が自然と向いた。
袋の口からほわっと立ちのぼる湯気と、まるいドーナツの影。
それだけで、緊張の余韻が少しずつ遠ざかっていく。
葵は紙袋を胸に抱えたまま、三人を見渡して
微笑んだ。
「……どしたの? また、ケンカ?」
その声は叱るようで、でもどこまでもやさしい。
「ダメだよ。みんな怪我したら、僕が困るから……」
その一言に、部屋の空気が少しだけ柔らかく
沈む。
玲真の肩の力がふっと抜け、息を吐いた。
「……喧嘩じゃないよ。ただ……ちょっと、試したくなるだけ」
「そんなこと言ったら、ドーナツあげないけど?」
葵がくすりと笑い、袋をチラつかせる。
「……っ……そんなに、たくさんくれんのっ!?」
玲真の目は、すでにドーナツの袋しか見ていな
かった。
「うん♪ 頑張った人には、糖分補給が一番」
「しないしないっ! 喧嘩なんか、しばらく――
少なくとも今日は!」
玲真の言葉に、愁も京之介も思わず吹き出す。
「ふふ……ならいいよ♪」
葵は柔らかく笑って、玲真の手に紙袋を渡した。袋を受け取った瞬間、玲真の表情がゆるみ、ふっと微笑む。
甘い香りが広がって、緊張がゆっくりとほどけていく。
戦いの匂いが、砂糖と油の温もりに溶けていく。
その光景を見つめながら、愁は小さく息をついた。
――まるで葵の微笑みそのものが、この場所を“日向”に変えていくようだった。
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