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第百五十七話

 夕陽が山の端に沈みかけていた。  茜色に染まる空の下、『日向』のテラス席には揚げ油と甘い砂糖の匂いが、まだほんのり 残っている。  駐車場に停まったワインレッドのRX-7ボンネットが、夕陽を受けて柔らかく輝いている。  玲真は助手席のドアに手をかけ、ふと胸元を見下ろす。 「……これ、しばらく借りとく! ちゃんと洗って返すから!」  振り返って笑った玲真の頬には、夕焼けが淡く差していた。  その笑みを見て、愁は何かを言いかけて―― 結局、ただ小さく頷く。  運転席の京之介が窓越しに軽く手を挙げる。 「んふふ……♪ お二人さん、“また明日”な」  アクセルを軽く踏み込み、低く唸るエンジン音がテラスの空気を震わせた。  愁はその音を追いながら、無意識に目を細めた。 「……京之介さん、きっと夜にはうちに寄りますね」 「うん……分かってる……」  葵は笑いながら小さく頷くも、少しだけ唇を尖らせた。 「今夜も多めにご飯を用意しなきゃ。葵さん、 今夜なに食べたいですか?」 「……そうだね」  葵が少し俯いた。 「ん……」  その表情に、愁は小さな違和感を覚える。  嬉しいはずなのに、どこか寂しげな微笑み。  胸の奥が、微かにざわめいた。  そして、次の瞬間――葵が歩み寄り、そっと愁の胸に腕を回した。  やわらかな体温がふいに触れて、愁は小さく 息をのむ。   「……ねぇ、愁くん……さっきの続きの……して……?」  その囁きは風よりもかすかで、まっすぐに愁の胸を打った。  潤んだ瞳、震える唇。  愁はやわらかく微笑み、静かな声で答える。 「……もちろん。」  腕を上げ、葵の背を包み込む。指先がそっと 背中に触れると、葵の体は小さく震えた。  夕陽が二人を染め、空気の粒まで金色に見える。 「……いっぱい、だよ……」  葵の声は、涙のようにやさしかった。  目を閉じた彼の髪が光を受けて揺れ、愁はその頬に指を添える。 「……はい」  唇が、そっと触れた。  やさしくて――けれど、胸の奥がじんわりと熱くなる。甘い息が混ざり合い、夕陽の中でふたりの鼓動が静かに重なっていく。  まるで、沈みゆく光に包まれて、時間までも やわらかく溶けていくようだった。 ***  街の灯が、窓の向こうでゆっくりと流れて いく。  玲真は助手席に身を沈め、ぼんやりと外を 眺めていた。  運転席の京之介が、軽くアクセルを踏むたびに、エンジンの低い唸りが胸の奥を震わせる。  車内には紙袋の中から漂う砂糖の甘い香りと、京之介の香水の残り香が混じり合い、ほのかに 甘苦い空気を作っていた。  言葉は少ない。けれど、その沈黙は不思議と 心地よかった。 「……で……あんたの仲間は、どのくらい強い? あんたくらいで終わりとちがうやろ?」  ハンドルを軽く回しながら、京之介が横目で 問いかける。  玲真は少しだけ考え、窓の外に視線を置いた まま答えた。 「……あんたくらいって、辛辣だね。」 「んふふ……そう?」 「まぁ、いいや。個体差がある。俺より極端な造りの奴もいたけど……全員、“人間の限界”は超えてるのは確か。」 「ふぅん……数は?」 「正確な数は不明。でも、“知る限り”では……そっちが攻めてくる前に、俺が外に逃した連中が二千はいる。」  信号で車が止まり、赤い光がふたりの横顔を 照らした。  その光の中で、京之介はどこか楽しげに唇を歪める。 「二千、か。……そいつらは、さっきあんたが言うとったみたいに、人間を恨んではる?」  玲真は、すぐには答えられなかった。  胸の奥が、かすかに痛んだ。 「……多分ね。俺より前に作られた個体は、 もっと酷い実験されてるから。……あそこで見ただろ? 知能も与えられず、身体を無理やり兵器に改造された奴ら。」 「あぁ、外にぎょうさんいはったなぁ。」  そうこう話しているうちに、車は指定した場所に着いた。  京之介は車を停め、穏やかに玲真を見る。 「うちらのこと、恨んではる?」 「……少しはね。でも、あのまま生きるよりは幸せだったのかもって、今は思うようにしてる。……他の奴は知らないけど。」  玲真の言葉に、京之介はふっと笑みを浮かべ、手をひらひらと振った。  エンジンの音が遠ざかり、街の灯がまた流れ 出す。  玲真は、冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込みながら、アパートの外階段をゆっくり上った。  鉄の手すりに指を添えると、ひんやりとした 感触が指先に残る。  二階の一番奥――薄く灯りが漏れる部屋の前で、玲真は紙袋を抱え直し、古びた扉を軽く ノックした。 「……玲真?」  中から聞こえる玻璃の声。 「うん。」  錆びた取っ手ががちゃりと回り、ふわりと温かな灯りがこぼれ出る。 「おかえり。遅かったね……って、その格好、 どうしたの? ボーイさんみたい。」  玻璃の声には、安堵と少しの戸惑いが混ざっていた。  朝とは違う服装の玲真を見て、首をかしげる。  玲真は小さく笑った。 「あはは♪ 愁に借りたんだ。」 「借りたって……何があったの?」 「まぁ、色々。――それとね。」  玲真は紙袋を差し出した。 「これ、『日向』の出来立て。ドーナツって言うんだ。一緒に食べよう? ……俺、さっき二個食べちゃったけど、まだ温かいよ。話は食べながらしよう。」  六畳一間の狭い部屋。  畳の上には毛布と小さな卓袱台。  壁際のポットからは、やわらかな湯気とお茶の香りが漂っていた。  玲真と玻璃は、ちゃぶ台の前に並んで座った。  玲真はあぐらをかき、玻璃は正座のまま落ち 着かず、唇を開く。 「……今日は、その……」  言いづらそうに視線を落とす玻璃に、玲真は ふわりと笑って答えた。 「負けちゃったよ。」  けれど、その顔に後悔の色はない。むしろ、 どこかすっきりとした笑みを浮かべていた。 「それに、ちょっとだけ『日向』で働いてきたんだ。」 「……え?」  玻璃が瞬きをする。玲真は手を畳につき、軽く仰け反って肩をすくめた。 「愁と戦ったあとに……働いたの?」 「うん、少しだけ。手伝っただけだよ。」 「どうして……?」 「うーん、よくわかんない。でも……まぁ、 なんか、気持ちよかった。」  そう言って、玲真は紙袋を差し出す。 「それより、ほら、これ。『日向』のドーナツ。まだちょっと温かい……一緒に食べよ♪」  玲真が袋の口を開けると、あたたかい香りが ふわりと広がった。  砂糖の甘さと油の香ばしさが混ざって、空気 までもやわらかく包みこむ。 「……わぁ。いい匂い……」  玻璃の喉が小さく鳴る。玲真は嬉しそうに笑って、 「すっごい美味いんだ。食べて!」  玻璃はドーナツを一口かじった瞬間、目を見開いた。 「!!? なにこれ……美味しいっ!」  そのままあっという間に一つを食べ終える。  玲真はにこにこと目を細めて、 「美味いでしょ♪」  玻璃は満ち足りた顔で頷いた。 「うん……こんなの初めて……。でも、玲真も…… なんか、変わったね。朝とは全然違う」  言われた玲真は不器用に笑う。  その笑みが、なぜか玻璃の胸を温めていく。 「……こ、これさ、お婆ちゃんにも分けてあげよう。きっと喜ぶよ」  玲真はその横顔を静かに見つめ、ぽつりと呟いた。 「玻璃、笑うと……可愛いね。」 「はっ!? な、なに言って……! ばっ…… バカ!」  玻璃は真っ赤になって眼鏡をいじりながら うろたえる。 「あはは♪ 店長さんみたいだ」  玲真は小さく笑って、もう一口ドーナツをかじった。  外はかりっと、中はふんわり。噛むたびに胸の奥がじんわり温まっていく。 「……甘い♪」 「そ、それより突然なんで、か、か、可愛いとか言うんだ! 説明! 説明を求むよ僕は!」  静かな部屋に、ふたりの楽しげな声とドーナツをかじる小さな音だけが続く。  玲真は、知らず手を止めた。  玻璃の頬に少しだけ砂糖がついている。  その白さが、どうしようもなく愛おしく 思えた。

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