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第百五十八話

 今日は、ボクの“お楽しみの日”。  『日向』はお休みで、葵ちゃんにはお出かけしてもらった。  つまり、ボクと愁ちゃんは――アパートで ふたりきり。 ルールは、きっかり六時間。 ……ほんとは一日中がよかったけど、葵ちゃんが 「それ以上は独占し過ぎっ!」って頬を膨らませてたから、六時間だけって約束になった。 ――葵ちゃん、ケチんぼ。 でも、今はそんなこと言ってもしょうがない。 今は目の前にいる愁ちゃんを―― 「……やっぱり、やめない……」 「ダーメ。約束したでしょ?」 可愛いがらなきゃ……♡ ボクは、にやっと笑って指を立てた。 「今日の愁ちゃんは、“ボクのメイドさん”なんだからね♡」  恥ずかしそうに伏せた赤い瞳。  少し震える睫毛。  黒いリボンタイに、真っ白なエプロン。  あの愁ちゃんが頬を赤くして、ちょっと短いスカートの裾を気にしてるなんて―― もう、可愛すぎて反則。  こないだ、京兄ちゃんと愁ちゃんのお出掛けを 許す代わりに、ボクと葵ちゃんは条件をだし たんだ。  葵ちゃんは割と控えめだったけど、ボクはあの学園祭の頃からもう一度見たいと思ってたことをお願いした。 「もう……学校までズル休みして……」 「えへへ……だって、みんな大学受験で大変そうでしょ……ボクは愁ちゃんのおかげで、もう十分学生生活楽しめたもん」 そう言って、ボクはつい笑ってしまった。 「それに、とっても似合うよ……愁ちゃん♡」 「……似合うって……そう……かな?」  メイドな愁ちゃんは髪を耳にかけながら、視線を逸らす。でも、その仕草すら、もう反則。 心臓がばくばくする。  ボクとお揃いの赤い瞳も潤んで…… もっと見たくなっちゃうな……♡ 「可愛いよ……♡」 「可愛くないよ……」 「可愛いっ!!♡」 「……」 「ねぇ愁ちゃん、照れてるの? ねぇねぇ?」 「……もう……からかわないの、凛。」  ぼくはその言葉を聞いて、思わずへにゃっと 笑った。ボクのお願い……恥ずかしいのに、別に断っても平気なはずなのに、ちゃんと応えてくれる愁ちゃんが……大好きだなって、改めて思っちゃた。 *** 「うわっ! 凄……」  ダイニングのテーブルの上には、ボクがお願い してないのに、愁ちゃんの手作りの焼き菓子が ずらっと並んでた。  マドレーヌ、クッキー、スコーン、よくわからないけどハートの形のやつまで……まるでお菓子の国みたい。 「愁ちゃん……これ、全部……」 「うん。一応……今日はちょっとだけ、メイド……なんでしょ……ご主人様……ふふ……♪」  涼しい顔で冗談めかした言葉なのに、息づかいがほんの少しだけ震えてた。愁ちゃんの袖の先が、少し粉で白くなってる。 ……なんか、そういうとこがずるい……けど……  ボクはもうお菓子の前で目がキラキラしてた。 「んーーどれから食べていいか分かんない……!」 「順番、決めなくていいですよ。好きなのから お食べてください」  そう言いながら、愁ちゃんはボクの前に紅茶を置いてくれる。ふわっと立ちのぼる湯気が、 やさしい香り。 「わぁ……」  カップの縁を持つ手が綺麗で、少し濡れた唇が光にきらめいて、胸の奥がどきってする。 「……どうしました?」 「ぅ……ううん、なんでもないっ!」  ごまかしながら手に取ったクッキーをかじると、ほろって崩れて、口の中が一気に甘くなった。  夢みたいに美味しくて、つい急いで食べちゃう。 「なくならないので、ゆっくり食べてくださいね」 「……だって、美味しいんだもんっ!」 「ふふ……♪ ほら、お口……」  やさしく微笑む愁ちゃんが、ボクの口元についたクッキーの欠片を指先でとって、ナプキンで 拭いてくれる。  ……一瞬、息が止まった。  紅茶よりも、ずっと甘い香りがした。  指が触れたところが、じんわり熱くて――ボクは顔を真っ赤にしたまま、もう言葉が出なかった。 「……照れてます?」 「て、照れてないもんっ」 「ふふふ……♪ 可愛い……」 「か、可愛くないっ!」  さっきのお返しみたい――そう思った瞬間、 ボクの手元が、ついスカートの裾を捲っちゃった。 白……。自分で用意して、着せておいてなんだけど……律儀だな……愁ちゃん……大好き。 「……!?」 瞬間、愁ちゃんがぱっとしゃがんで、ボクを見上げた。 「ッ……もう……今日は、お触りはNGですよ……」  頬が真っ赤に染まっていて、でも瞳がボクだけを見てる。 その仕草だけで、ボクの心臓が早鐘みたいに 鳴って、思わず笑っちゃう。 「えへへ……だって……可愛いんだもん……♡」 そう言うと、愁ちゃんの唇がふっと曲がって、 かすかな吐息を漏らす。 ……六時間じゃ……全っ然足りない……  お菓子が冷めても、紅茶がなくなっても―― こんな時間が、ずっと続けばいいなって思った。 ***  午後の日差しがカーテン越しに揺れて、部屋の中がやわらかい光に包まれてた。  テーブルの上には、さっきまで食べてた お菓子の香りが、まだ残ってる。  キッチンでお皿を片づけてる愁ちゃんが―― なんというか、ちょっと反則だ。  あのメイド服のまま、エプロンの端を押さえてしゃがみこむ姿。  その見えないようにする仕草一つで、空気の 温度が変わる気がした。 「……どうかしました?」  振り返った愁がちゃんが、ほんの少し頬を染めて睨む。  でも、怒ってるわけじゃない。照れてるんだ。  その証拠に、指先が皿を拭くたび、ちょっと 震えてる。 「えへへ……愁ちゃん、可愛いなって思ってただけ♪」 「……そういうの、やめてください……」  そう言いながら耳まで赤い。  この世に、からかいたくなる可愛さってものがあるなら――それは今、確実に目の前にいる 愁ちゃんだ。  紅茶を飲みながら、なんか夢見心地。愁ちゃんの動きを目で追うたび、心臓が変に忙しくなる。  白い指先にお皿を持つ腕。カーテンの隙間から射す光が髪を透かして、琥珀みたいにきらめく。  ――ズルい。そんなの、絵になるに決まってる。 「……もう少しで終わりますから、そんなに見つめないでください……」 「え、だって……愁ちゃんが動くたびにちょっと見えちゃうんだよ?」  凛はスマホをそっと手に取って、光の加減を 確かめる。 キッチンに立つ愁ちゃんの姿――メイド服のスカートがふわりと揺れて、長い睫毛の影が頬に落ちる。シャッター音が小さく鳴った。 「……今、撮りました?」 「えへへ、バレた? だって可愛すぎるんだもん……! 葵ちゃんにも京兄ちゃんにも見せてあげたいな〜♪」 「やめてください……」 頬を赤くして視線を逸らす愁ちゃん。 その表情すら、ボクにはたまらなく愛しかった。  なんだろう――笑いたいのに、息が詰まる。  ボクはふと思う。  愁ちゃんの照れた横顔を、もう少しだけ見ていたい。  このまま、時間が止まればいいのに。 ***  ソファの上で、ぼくはお腹をさすりながら うとうとしてた。愁ちゃんを見ていたいけど、 眠気に勝てそうにない。  それに愁ちゃんの膝の上、ぽかぽかして、まるでお日さまの中にいるみたい。  窓から入る光が、カーテンをふわって揺ら してる。  愁ちゃんの指が、ぼくの髪をやさしく撫でてくれるたび、心までほどけていく。 「……愁ちゃん、膝、痛くない? 玲真って、 こないだのあいつでしょ……」 「もう大丈夫ですよ。凛が心配してくれるから、 きっと治りも早かったんだと思います。」  まだ喋り方がメイドモードな愁ちゃんは、そう言って微笑んだ。  少し照れたみたいに目を細めて、それでもやさしく、まっすぐに。  その笑顔を見た瞬間、胸の中がじんわりあったかくなる。 「……じゃあ、もうちょっとこうしててもいい?」 「もちろん。お好きなだけ……」  愁ちゃんの指先が、ぼくの額をそっとなぞる。  その手の温かさが、まるでお布団みたい。  眠くなっちゃうの、しかたないよね。  あんなにメイド姿を堪能して、笑って、焼き菓子いっぱい食べて、紅茶も飲んで……。 「……愁ちゃん、また……着てくれる?」 「ふふ……♪ どうでしょうね……」  その言葉を聞いて、ボクは幸せの中で目を閉じた。 ……この感じ……頼めば、きっと着てくれる……♡  あまい夢の中でも、愁ちゃんが笑ってくれてたらいいな。

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