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第百五十九話
《深骸域・輸送機発着区》
低く唸る風の音が、広大なハンガーを抜けて
いく。
整備班が残した油の匂いと、遠くで点滅する
警告灯の赤が、冷たい鉄壁に滲んでいた。
雪緒と咲楽は、無言のまま通路を歩いていた。
ブーツの足音だけが、規則正しく響く。
出撃まで、あと十五分。
そのわずかな静寂が、まだ慣れなくて奇妙に
落ち着かない。
「な……本当に、“彼”に改造してもらったのか?」
雪緒が口を開いたのは、通路の先に並ぶ格納庫が見え始めた頃だった。
その声は静かで、どこか確かめるようだった。
咲楽は、立ち止まって振り返る。
白のメッシュが混じる黒髪が揺れ、照明の下で淡く光った。
装甲の肩口には、狼の刻印。
ザ・クリーナーにより改造を施された装備。
三人いる彼らの中でも、そうした"手入れ"を好むのはひとりだけ。
熟山 古和美――彼の手が加わった証として、
それは“FMモデル”と呼ばれる。
「……こないだ、突然声かけられてさ。でも、
なんで選ばれたのかは分からないんだ」
咲楽の声は穏やかで、目元には微かな笑み。
けれどその笑みは、どこか寂しげに見えた。
「運が良かっただけかも。“あの人”良い人っぽいけど、まだ掴めない感じ」
その言葉に、雪緒は一瞬だけ息を呑む。
紅の瞳が光を帯び、まるで心の奥を覗かれた
ような錯覚に襲われた。
咲楽の装甲服、そのふくらはぎに内蔵された
噴射ユニットが微かに熱を帯びるような音を
立てる。
風が、ふたりの間を抜ける。
「……お前が可愛いからとか?」
雪緒が小さく呟く。
「“あの人”、見た目に似合わず可愛いもの好きって噂あるし」
咲楽はふっと目を細めて、口元を緩めた。
「それ、褒め言葉として受け取っていい?」
「……さぁな」
「ふふ……でもそれが本当なら、雪緒もそのうち声かけられるんじゃない?」
「っ……ばか。行くぞ、次は上海だ。
相手は異能た……製造人間。特製の装備だからって、気を抜くなよ」
「あはは……分かってるって」
笑う咲楽の声が響く。
けれど誰も、彼の“選別”の基準を知らない。
実力の高さや、性格の素直さだという者もいれば、外見の“可愛げ”だと囁く者もいる。
だが、本人に確かめようとする者はいない。
狼の仮面の奥から漏れる“グルルル……”という
呼吸音を聞いた瞬間、誰もが――静かに距離を取るのだ。
遠くで輸送機のエンジンが起動し、ハンガー
全体が低く震え始める。
咲楽の装甲の黒が、その振動に合わせて微かに光を反射した。
――戦場に出る前の、ほんの一瞬。鉄と硝煙の
世界の中で、確かに息づく“人間”の一幕。
***
地底五層――《深骸域:武装研究区画》。
通称、クリーナー・アームズラボ。
厚さ二十センチの強化ガラスと鉄板に囲まれたその空間は、冷たく澄みきった空気に満ちて
いる。
一歩踏み入れるたび、床下に埋め込まれた磁場制御パネルが反応し、靴底が低く唸った。
天井からは蜘蛛の巣のように無数のアームが吊られ、ひとつひとつがザ・クリーナーの装備を
吊り下げていた。
中央には円形のプラットフォーム。
そこに、黒い戦闘スーツを纏ったままの彼が立つ。マスク越しに響く呼吸――
『グルルル……』
低く、鉄を這うような音が絶え間なく響く。
その律動に呼応するように、周囲の機械たちはわずかに明滅を繰り返していた。
青い光が静かに脈動し、まるでこの空間そのものが、彼の呼吸で動いているかのようだった。
壁際の一角には、他とは明らかに異なる存在感を放つ構造体があった。
《プラズマ炉床》――
石炭や木炭、コークスでもなく、光そのものを
燃料にしているかのような、青白い炎の奔流が封じられた円筒状の炉。
稼働音は低いが、空気が焼けて歪む。
温度は四千度を超え、どんな金属でも液化させる。
炉の周囲の床は、長年の作業で変色し、焼けた
金属粉が灰のように散っている。
焦げ跡と溶け跡が層を成し、そこだけがこの
無機質な区画の中で、唯一“生の痕跡”を残して
いた。
それは彼の手によるもの――
“焼く”のではなく、“生みなおす”ために何度も
繰り返された試行の跡。
火と鉄が交わり、形を変えてきた証だった。
炉床の上には、炎に炙られた金属片が幾重にも並んでいて、それらはどれも赤熱し、呼吸する
ように脈動している。
熱に歪む空気の中、ザ・クリーナーは無言で一つを掴み上げ氷霧の中に沈める。
瞬時に白い蒸気が立ち昇り、金属の悲鳴が響く。
再び引き上げられたそれは、彼の掌の中で形を変え、刃を宿す。次の瞬間には組み上げを始める。
形になったそれは、金属で出来た鞭――
だが、鞭と呼ぶにはあまりにも精密で、あまりにも獰猛。節の一つひとつが刃となり、動くたびに微かに音を立てる。
その音は“金属の息遣い”に似て、聴く者の皮膚を撫でるだけで血の気を奪うほどだった。
冷却と組み付けの反復のたびに、鞭は長さと
密度を増し、刃の光が深くなる。
そして――完成の瞬間。
彼が腕を振るうと完成した鞭は、無音で刃が展開し空気ごと切り裂く。切断された空気が「悲鳴」に似た音を残し、次の瞬間には収納形態に戻っていく。
『グルル……』
その動作を確認するザ・クリーナーの瞳は、
冷徹というよりも――どこか楽しげだった。
(……良い出来……“スラッシュウィップ”……という名が相応しいでしょう。……もう少し冷却させて研ぎ上げれば、完璧……。それに……)
プラットフォームに鎮座する複数のモニターでは、カランビット状の三枚刃を備えた
《超電導手裏剣》の軌道制御実験が繰り返されていた。
空間に投げ放たれた刃は、磁場を歪める残光を
引きながら標的を切り裂き、次の瞬間、別の標的を背後から音もなく両断する。そして、まるで
意志を持つかのように軌跡を翻し、操作者の掌へ吸い込まれるように帰還した。
『ガゥ……』
(ふむ……こちらも計算完了……。“レイザーディスク”……我ながら良きネーミングセンス……)
『ガァァアアア……』
ザ・クリーナーは、獣の咆哮のような音を立てて背を伸ばした。
この二日間、彼は二種の新武装の完成に全てを注ぎ、ラボに籠りきりだった。
鋼の指先がわずかに震え、心が“癒し”を欲して
いることを自覚する。
無言のまま、彼は奥へと歩を進めた。
そこには重厚な遮音扉があり、その先は誰一人として立ち入ることのない領域――
〈私室〉。
ザ・クリーナーが唯一、己を解放する場所。
ラボの無機質さとは無縁の、柔らかな灯りが
ともる部屋。
床には淡い色のカーペットが敷かれ、欧風の
壁紙と小さなキッチンが調和している。
ふかふかのベッド、その傍らには木製のダイニングサイズのテーブル。上には繊細な装飾の
ティーカップセットが整然と並ぶ。
ラボとはまるで別世界のような、優しさと
温もりの滲む私室だった。
そしてテーブルの上には、一枚の写真立てが静かに置かれていた。
微笑む青年。
そしてその隣で、不器用に笑う彼自身の姿。
『……グルル……』
ザ・クリーナーはその写真の前に立ち、
マスクに繋がるワイヤーを一本ずつ外していく。
そのたび、空気が抜けるような音が微かに響く。
最後の一本を外し終えると、彼はゆっくりと
マスクを持ち上げた。
現れたのは、栗色の髪をもつ美貌。
うなじをすっきりと見せる短めの髪が、毛先で
自然にくるりと跳ねる。
長めの前髪が頬をかすめ、少し厚みのある下唇が静かに息を吸い込む。
その姿は、鋼鉄の殺戮者とは思えないほど繊細で、どこか――女優のように、美しく。
「ふぅ……」
そして改造された特殊装甲服を脱ぎ捨てると、
鋼鉄の装いの下から現れたのは、機能美を極めたような、無駄のないしなやかな体躯だった。
しっかりと引き締まった肩の線、長い四肢の動きに漂う静かな優雅さは――まるで造形家が精密に
削り出した彫刻のよう。
ザ・クリーナーはそのままベッドに身を投げ
出す。柔らかなシーツが肌を包み、緊張に満ちた日々が遠のいていく。
腕の中には、大きな抱き枕。
そこには恋人・悠月の笑顔がプリントされている。もちろん、本人には秘密だ。
「……ふ、ふふ……あぁ……悠月君……三日前は……
あんなに私を求めてくれて……♡」
マスクの下で抑えてきた笑みがこぼれ、彼は抱き枕を抱きしめながらベッドの上で小さく転がった。
無機質な世界の中で、ただ一つの安らぎの時間。
――その時。
厚い防音扉の向こうで、電子ロックが低く唸った。本来なら本人以外には開けないはずの扉が、
小さな駆動音とともに――静かに、解錠された。
***
地底五層――《通路》
低く唸るような音を立てて、金属の床がふたりの足音を吸い込んでいく。
冷えた空気がゆっくりと肌を撫で、鉄の匂いが鼻の奥に刺さった。
「うわぁ……ひさびさにここまで降りてきたけど、全然変わってないね……」
凛が小声で言う。腕を絡めてくるその動きは、警戒と甘えが半分ずつ。
「そう?」
愁は肩をすくめて微笑んだ。
「まぁ、確かに……ここは、古和美さんの“巣”みたいなものだからね。」
「……古和美さん?」
凛が小首をかしげた。
「そう、本名だよ。“ザ・クリーナー”って
呼ばれ方、本人はあんまり好きじゃないらしいからね」
「ふうん……ボクは“レベナント”渡された時に、
初めて会って……たまに予備の弾倉とか受け取るくらいでしか会わないから……」
「たまには“ここ”まで来てみたら……? とっても良い人だよ……ふふふ♪」
愁が意味ありげに笑うと、凛はその横顔を
見上げて唇を尖らせた。
「またそうやって……ズルいんだから。ボクには素顔見せてくれないんでしょ?」
「見たことある人ほとんどいないよ。古和美さん休憩の時もマスク外さないし」
「ふーん……なんかカッコいいけど、怖いんだよね……あれ」
「見た目よりずっと優しい人だよ。声も柔らかいし……ちょっとだけ変わってるけど」
愁が歩調を少し緩めると、凛の赤い瞳が嬉しそうに細められる。
通路の奥で、薄い霧のような冷気が漂い、白く光る誘導灯が長く続いていた。
「そういえば愁ちゃん、今日はなんで?」
「こないだ壊れた装甲服、修理が終わったって
連絡があってね。取りに行くだけ……凛こそ、
なんでついてきてくれたの?」
聞かれた凛は、少しだけ愁の腕に頬を寄せる。
「愁ちゃんと一緒にいたい気分なの……だめだった?」
愁はその返事と仕草に、思わず口元を緩めた。
「ううん……嬉しいよ。凛がいてくれると、
ちょっと落ち着く」
「えへへっ……ま、一緒にいたい気分は、
いつもなんだけどね♪」
軽口を交わしながらも、凛の頬にはうっすら
赤みが差していた。
「あ……!」
ふと、何かを思い出したように笑う。
「そういえばさ、こないだ愁ちゃんにメイド服
着てもらった時の写真、まだボクのスマホに
たっくさんあるんだけど……見たい?」
「いいよ……あれは……っ」
「似合ってたよ、すっごく♡」
「……もう」
耳まで赤く染まった愁が視線を逸らすと、凛は上機嫌に笑いながら腕を絡め直す。
そんなふたりの前方で、通路の先に埋め込まれた隔壁がゆっくりと開いた。
金属の扉の奥――淡い蒼白光がゆらめく部屋が姿を現す。
「着いたね」
愁が呟く。
凛はその手をぎゅっと握った。
「……ここが、古和美さんのラボ?」
扉の向こうには、静かに機械音を刻む
“ザ・クリーナー”の聖域が待っていた。
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