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第百六十話
分厚い扉が静かに開くと、かすかな風が頬を
撫でた。
中は薄暗く、照明は必要最低限。青白い残光だけが、壁の金属をゆらゆらと照らしている。
機械油と冷却剤の匂いがわずかに混じり合い、温度のない空気が肌にまとわりついた。
「……なんか独特の匂い……」
凛が小さくつぶやく。
「ここに入ると、空気が違うでしょ」
愁は肩越しに微笑み、歩きながら照明パネルのひとつを軽く叩いた。パネルが反応し、周囲の
装置が静かに光を帯びる。
天井から吊られたアームの影が床に伸び、
まるで何かの生き物が息づいているかのよう
だった。
「……スゴいね……ここ……」
凛の赤い瞳が輝く。近くのラックに並ぶ刃や
義肢の試作品を、まるで展示品のように見つめていた。
「これ……触っても――」
「ダメ。」
愁の声がすぐに飛ぶ。
凛はビクリと肩を跳ねさせ、慌てて手を引っ込めた。
「あれ、そんなに怖いの……?」
「怖いというか、あれは“生きてるトラップ”。
スイッチひとつで、凛の指どころか身体を
バラバラにするかもね」
「っ……それ、笑えないよ……」
ふくれっ面で愁の腕にしがみつく凛を、愁は
苦笑いしながらなだめた。
「……いないか。だったら……」
ふと、愁の視線が奥へ向かう。
ラボの最奥、青い光が薄く漏れる重厚な扉――
「たぶん、あそこだ。」
愁は歩を進め、タッチパネルに指を滑らせる。
ピッ――電子音が鳴り、緑のランプが灯った。
重たいロックが外れ、扉がゆっくりと開く。
冷たい金属の匂いに混じって、微かに紅茶と
香水の香りが漂ってきた。
その瞬間、凛が目を瞬かせる。
「なんか……ここだけ、空気が違う……」
「うん。古和美さんの“部屋”だからね。」
愁の声はどこか優しく、扉の向こうの温もりはふたりを誘った。冷たい機械音の廊下とは
違う、ほのかに柔らかな照明。
そこに――
「え……」
小さく息を呑む声がした。
次の瞬間、
「きゃあぁあああぁああッッッ!!?!?!」
耳をつんざく悲鳴が、深骸域の壁を、地層を
震わせた。
凛と愁の視線が、同時にその“中心”へ向かう。
栗色の髪が、ふわりと揺れた。
短く整えられたうなじ。
毛先が自然に跳ね、長い前髪が頬をかすめる。
抱き枕を胸の前でぎゅっと抱きしめ、シーツの上に座り込んでいる古和美と目が合う。
何も纏っておらず、白い肌が照明にやわらかく照らされていた。
抱き枕の陰で隠れているのに――
その“隠れている”という事実が、逆に危うい
想像を掻き立てる。
肩の線、鎖骨、胸の下に落ちる影。
そして抱き枕から覗く腰のあたりまで、彼の
しなやかな体躯の輪郭が、まるで彫刻のよう
だった。
(……や、やば……)
凛の頬が一瞬で熱くなる。
「あれが、素顔……キレイ……ッ……いや! ボクには愁ちゃんがいるのに……なんで、こんな……」
思考が混線し、視線が逸らせなくなる。
古和美は顔を真っ赤に染め、抱き枕をさらに
引き寄せた。栗色の髪が揺れ、厚みのある唇が
震える。
「な、なんで入ってくるんですかぁぁぉぉぉぉぉ!?!?!」
悲鳴に近い声が響き、抱き枕の端がぴくりと
震える。
「で、で、出ていきなさいッッ!!!」
愁が苦笑いを浮かべ、
「……すいません。まえに暗証番号覚えちゃったもので……つい、あはは……」
と呟いた。
直後――
「出てけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
という、深骸域の金属壁すら共鳴する怒号が
響いた。
***
重厚な扉が、まるで怒りを込めたような勢いで閉まる。
ラボに放り出された愁と凛は、顔を見合わせ、ただ小さく肩をすくめ合った。
「……怒ってたね、完全に」
「う、うん……まぁ……」
愁が頬をかく。その耳までほんのり赤い。
そのまま、金属の扉の前でふたりは気まずく
立ち尽くす。
――五分
やがて、空気がわずかに揺れた。
電子ロックが解除され、分厚い扉がゆっくりと開く。そこから現れたのは、もう“古和美”ではなく“ザ・クリーナー”。
いつもの狼型マスクを装着し、黒い装甲服を
身に纏っている。
だが、その立ち姿にはどこか――微妙な気まずさが漂っていた。
『……グルル……』
低く喉を鳴らしながらも、どこか恥じらうような声音。
凛がそっと愁を見上げ、唇に笑みを浮かべた。
そのまま一歩、ザ・クリーナーの前へと進み
出て、静かに頭を下げた。
「ねぇ、古和美さん……さっきのこと、本当に、ごめんなさい」
『ガゥ……い、いや……まぁ、その……』
マスクの奥で、狼の瞳がわずかに泳ぐ。
凛は一拍おいて、ふっと目を細めると――
ポケットからスマホを取り出した。
「……お詫びに、これ見せてあげるから」
タップ音が響く。
画面には、メイド服姿の愁が――少し頬を染め、恥ずかしそうに視線を逸らしている姿。
『ガゥゥッ!?!?!?』
ザ・クリーナーの身体がびくんと跳ねた。
狼型マスクの目が見開かれ、まるで獲物を見つけた狼のように、ぐいっと身を乗り出す。
「ふ、古和美さんっ!? そんな食いつかなくても……っ」
愁が顔を真っ赤にして下がるが、
ザ・クリーナーはもはやスマホの画面から
目を離せない。
『グルル……凛君……君との通信手段はこれまで
音声のみでしたね……』
「うん……そうだけど?」
『最近色々と不便だなと思っていたところでした。そのスマホの連絡先を……LIMEだ。これ……
登録をしなさい』
スッとどこからかスマホを取り出し、その画面にはQRコード。声は冷静なはずなのに、マスク越しの熱気が伝わってくる。
「えへへっ♪ これでおあいこ、ってことにしてくれる?」
凛がいたずらっぽく笑うと、
ザ・クリーナーは一瞬だけ肩をすくめ、低く
唸りながらも頷いた。
『ガゥ……気にするも何も……私達は“ベストフレンド”ではないですか……』
――明らかに愁のメイド服が効いた。
愁は耳まで真っ赤にして俯く。
「……あの……あんまり、その写真は……」
言いかけた瞬間、ウルフマスクの目がぎろりと光る。
『お黙りなさい! そもそも君が勝手に私の私室を――』
「まぁまぁ、古和美さん」
凛がすかさず別の写真をスワイプして見せた。
そこには――より“特別”な一枚。
「これ、学園祭“スペシャル”なんですけど……もう怒ってませんよね?」
『ガリュッ!?!?』
狼の唸り声が一瞬裏返る。
「連絡先交換もしたし……仲良くしてくれたら、友情の印に送ってもいいですよ♪」
ザ・クリーナーはコクコクと頷き、
その様子を見て愁は深くため息をついた。
冷たいラボの空気の中、奇妙に和やかな沈黙が流れる。
――この三人の関係は、どうやら想定以上に賑やかになりそうだった。
***
コホン、と咳払いの仕草をしつつ、マスクの
口部から低く「ガル……」と漏らすザ・クリーナー。
恐らく、さっきまでの空気を仕切り直すつもりなのだろう。
『ガァァ……ええと……あれでしたね。愁の装甲服でしたね……』
彼が左腕のガントレットに埋め込まれたタッチパネルを操作すると、天井から金属音を響かせて機械アームが降りてくる。
無骨なアームの先には、黒いケース。ゆっくりと愁の前に差し出された。
ケースの中には、修理を終えた愁の装甲服。
愁がそれを手に取り、指先で生地の感触を確かめた瞬間――わずかな違和感に気づく。
重みも、質感も、以前と違う。
『ガァ……装甲の素材を試作のものに変更しました。それと、布地ももう少し頑丈にしておきましたよ。』
言いながら、ザ・クリーナーは左腕のパネルに視線を落とし、右の指先で軽やかにスライド操作を行う。
無骨な指の動きに合わせ、ホログラムが淡く揺らめく。
『君の行動履歴を見ると、以前から――かなり無茶をしてますからね……』
愁は苦笑しながら装甲服を眺める。
ザ・クリーナーが再び指を滑らせると、
もう一本の機械アームが低く唸りながら降下してきた。
「……これは?」
愁が目を細めて問うと、マスクの奥で小さく
笑うような気配。
『ガル……これは、サービスです。君は本来、
“これ”の扱いが得意でしょう?』
アームが差し出したのは、艶やかな黒の鞘に
納められた一本の刀。
その鞘には、白いマスキングテープが貼られ、手書きで《星薙 》と記されている。
愁が静かに星薙を受け取り、柄に手をかける。
鞘から引き抜いた瞬間――「ん……?」と小さく首を傾げる。
刃も棟も、何もない。ただの空虚な柄。
『ガ……ちょっと貸しなさい。』
ザ・クリーナーは小首を傾げる愁の手から柄と鞘を受け取り、再び鞘に納める。
そして、無骨な手つきでゆっくりと抜いた。
――瞬間。
光が溢れた。
音もなく、蒼白い線が走り、空気を裂く。
刃先、棟、切先、反りまで完璧に再現された“光の刀”が姿を現す。
淡く輝く光は呼吸するように揺らめき、冷たい鋼とは異なる、生きているかのような存在感を
放っていた。
『ガルル……これは登録されたガントレットで
操作しなければ使えません。』
ザ・クリーナーは得意げに肩をすくめる。
『君のガントレットにも、私のと同じものをインストールしてあります。――最大に設定すれば、
この刃は数秒ですが……かなり伸びます。』
「……それは、ちょっと強力すぎません?」
愁の眉がわずかに上がる。
『グゥ……備えあれば、なんとやら……。ま、最大出力で使えば、充電完了までは通常モードでしか使用不可ですけどね。その鞘は――充電器と思ってください。』
淡々と説明するその声の奥に、職人としての
誇りと、少しの遊び心が混じっていた。
「……いいなぁ……愁ちゃんだけ……」
そんなふたりのやりとりを見ていた凛が、少し唇を尖らせて呟いた。
その声を聞いたザ・クリーナーは、一瞬マスクの奥で目を細め、刀を鞘に収めると、ぽいっと
愁に放り投げた。
「……っと」
そしてラックの方へと足早に移動し、ガチャガチャと金属の箱をいくつも取り出しては、何かを
詰め込みはじめる。
重い箱を抱え上げ、プラットフォームの上に
ガチャンと置く。
『ガルル……凛君には、これ全部、プレゼントです。』
「えっ?」
凛が瞬きをする間に、ザ・クリーナーはひとつの円盤状の装置を手に取り、床にコトリと落とした。
『……これは、地雷』
ガントレットを操作すると、円盤から細い光の糸が――網目状のレーザーが天井から壁へと広がっていく。
『ガゥ……ガントレットで起動時間、範囲などを設定できます。引っかかれば、どんな生物でも
サイコロステーキになりますからね♪』
「すごいっ……! いいの!? 本当に!?」
凛の瞳がぱぁっと輝く。
その様子に、ザ・クリーナーの肩がわずかに
揺れた。マスク越しでも、彼が笑っているのが
わかる。
『ガルル……いいんですよ。それに、どうせ君に渡そうと思ってましたし。』
彼はさらに箱を開け、次々と装備を並べていく。
『ガゥ……《レベナント》の予備弾倉もたくさん入ってますからね……思う存分、暴れてください♪』
凛が喜んで地雷を手に取ると、ザ・クリーナーは急にトーンを落とした。
『ガルル……でも、設定ミスしたり変に触ったりしたら、君がバラバラになりますからね。気を
つけて扱ってくださいよ?』
「はーいっ♪」
と、子供のように無邪気に返事をする凛。
その声を聞きながら、ザ・クリーナーは箱の
中身を再確認し、バッグにまとめて渡す。
その指先はどこか丁寧で、優しい。
愁と凛、ふたりを見つめるその視線の奥には――
(愁君には一生、頭が上がりませんし……)
そんな思いが、静かに滲んでいた。
そしてもう一つ、誰にも言わない小さな期待も。
(……凛君には、これからも“仲良く”してもらいたいですしね……愁君の写真も、まだ……)
マスクの奥で、狼の口がわずかに吊り上がった。
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