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第百六十一話

《深骸域》中央エレベーター。  低い駆動音が響く密室の中で、愁と凛は並んで立っていた。  愁の肩にはザ・クリーナーに修理してもらった装甲服のバッグ。片手には、黒鞘の《星薙》。  凛は背中のリュックに新装備と予備弾倉を詰め込み、どこか上機嫌に鼻歌をこぼしていた。 「ふふ、今日はいっぱい貰っちゃったねぇ……♪」 「……うん。」  愁は穏やかに笑ってみせたが、その内心は少し沈んでいた。  ザ・クリーナーにまでメイド服姿を見られた ことを思い出すたび、胃のあたりが重くなる。  (――多分、約束はちゃんと守る凛のこと。今夜には“スペシャル”な画像……何枚か送っちゃうんだろうな……) 「ねぇ……凛……」 「ん……?」 「やっぱり、写真を送るの……」  そう小さく呟いた瞬間――  エレベーターが低い駆動音を残して減速し、 数字の灯がゆっくりと止まった。  まだ目的の地上階ではないのに、扉がスライドして開く。 そこにいたのは、京之介だった。  黒のベストに白のシャツ。自分たちと同じはずの制服――けれど、彼のそれはまるで別物に見えた。  細い指先で艶やかな朱を含む前髪をかき上げる仕草ひとつが艶めいて、空気ごと香りを変える。  光沢のあるネクタイが喉元で揺れ、照明の反射が滑らかに胸元を撫でた。 「……京之介さん?」  愁が瞬くより早く、京之介はにっこりと微笑み――  それから、まるで再会を待ちわびていたかの ように両腕を広げた。 「んふふふふふ♪ やぁん、やっぱり愁やないの……久しぶり♪」 「さっきまで、お店で一緒だったじゃないですか……」 「んふ……細いことはええさかい……それより 偶然にも会えるなんて、運命感じてまうやん♪」  口では“偶然”と言いつつ、瞳は最初から愁を 追っていた。  その証拠に、彼の立っていたエレベーター 内監視用の壁に埋め込まれたモニターの前に何故か置かれていた椅子の座面には――ほんのりと、 まだ温もりが残っているようだった。 「偶然……って、顔じゃないけど」  凛がぼそりと呟く。 「うふふ……ええやんか、凛ちゃん。こうして また逢えたんやし♪」  京之介は軽く手を振って取り繕うと、愁に歩み寄った。  だが、抱きしめようとした瞬間、視線が愁の 手元――黒い鞘へと滑った。 「……その鞘。まさか、刀かいな?」 「ええ。古和美さ……ザ・クリーナーが装甲服の修理ついでに……ちょっとサービスですって」  愁の穏やかな声に、京之介の唇がゆっくりと 歪む。 「へぇぇ……あいつがん……」  その瞳は笑っているのに、底では鋭く光っていて、恋する人間のものと、戦いを愛する人間の もの――両方の色を孕んでいた。 「相変わらず部屋の中でもマスクを外さへん 陰キャにしては……ちょいとは気の利くことするやん……。」 「……そういう言い方は……。良い人ですよ、古和美さ……ザ・クリーナーは……」  愁が静かに言うと、京之介の眉がぴくりと揺れた。笑みの輪郭が、ほんの一瞬だけ硬くなる。 「うふふふふ♪ 良い人、ねぇ……。」  指先で唇をなぞりながら、京之介はわずかに 身を乗り出す。 「――ほな、ちょっと試してみよか?」 「試す?」 「模擬戦や。幻躯廊、空いてるはずやし。  昔うちが教えた構え、まだ身体が覚えとるか、見てみたいんよ」  愁は一瞬、考えるように目を伏せた。  凛がすかさず間に入り、困ったように笑う。 「ちょ、ちょっと待って京兄ちゃん! 愁ちゃん、今すっごく疲れてるんだから、ね!」 凛の声を受けて、京之介はくすりと笑った。 「凛ちゃん、心配かいな? かわええなぁ♪」  笑いながら、京之介は愁の目の前で軽く指先を鳴らした。 「どうせ帰るだけや。軽ぅくでええ。愁が本気 出すとこ、久々に見たいんよ。……なぁ、恋人 からのお願いや……な?」  その呼びかけに、愁は静かに息を吐いた。  黒鞘を見下ろし、ほんの一拍の間だけ考える ように目を閉じる。 「……ちょっとだけ、ですよ」  その瞬間、京之介の顔に子供のような喜色が広がった。 「んふふっ♪ せやから、うちはアンタが好きやねん――ほんまに、たまらんわぁ♪」 *** 《幻躯廊》――深骸域・第二層。  仮想ではない。だが、現実でもない。  ここは戦闘特化体の育成や実戦訓練に用いられる量子再構築空間《幻躯廊》――現実を限りなく 再現しながら、死を伴わない戦場を生み出す ための“檻”だ。  その中に、今日のテーマとして選ばれていたのは――静かな竹林。  吹く風、ざわめく竹、踏み締める土の湿り気。  すべてが緻密に再構成された幻だというのに、愁の肌にはそれがあまりに生々しく感じられた。  風が頬を撫で、竹の葉が指先を掠め、呼吸の音までもが異様に鮮明。  ――京之介の趣向だ。  無機質な訓練場ではなく、刃と心が研ぎ澄まされる“和の庭”。  そんな場所を選ぶあたりが、彼らしい。 「……時代劇みたいですね……」  愁は言いながら腰に木刀を携え、静かに足を 開く。  呼吸を一つ置き、視線を京之介へ。  その向かいで、京之介は片手で短めの木刀を 持ち、笑みを浮かべていた。  「んふふ……ええやろ? いつでも、どっからでも、かかってきたらええのに♪」  軽やかな声。けれどその立ち姿には、殺気を 帯びた静寂がある。  風が一瞬止んだ。  愁は低く呟く。  「それでは……遠慮なく。」  ――踏み出した瞬間、空気が爆ぜた。  竹の葉が風圧で舞い上がり、視界が緑の閃光で塗り潰される。  愁の姿が消え、京之介の視界からも一瞬で 消失。  踏み込み一撃、直線の突き。  木刀の切っ先が空気を裂き、竹の幹を震わせた。  「ふふっ……見え見えやね♪」  京之介は片手の木刀を軽く払うだけで、その 突きを逸らす。  金属音にも似た衝突音。木刀同士が擦れ合う わずかな煙。  その反動で愁の体勢が一瞬だけ浮く。そこを 逃さず、京之介が胴を薙ぐ。  ドン、と肉を打つ重い音。  愁の身体が吹き飛び、片膝をついた。  「愁ちゃん……!」  モニタールームで凛が息を呑む。  彼の目は高速戦闘についていけず、AI補正の リプレイで辛うじて二人の軌跡を追っていた。  画面越しの京之介は、肩に木刀をぽんぽんと 当てながら愁を見下ろす。  「これが真剣やったら、あんたは真っ二つやな。んふ……こんなんなんかいな♪」  唇の端が艶やかに歪む。愁の胸が上下し、 息が白く散った。  「……ちょっと……なまってますね…… もう一度。」  愁は木刀を構え直す。  京之介は嬉しそうに、口角を更に上げた。  「そう言う思た♪ ほんま、それで ええ……!」  ――次の瞬間、幻躯廊の竹が一斉にざわめいた。  風が渦を巻く。  愁が跳躍する。地面を蹴った瞬間、竹葉が 舞い、幻光が散った。  京之介もまた同時に地を蹴る。二条の影が交錯し、空中で木刀がぶつかる。  ガキィン――!  音が遅れて響く。  凛の目には、ただ光の線と風の軌跡しか映ら ない。  それはまるで、竹林の中で雷鳴が走るかの ような瞬間。  愁の一撃が流星のように落ち、京之介がそれを片手で受け止める。  互いの髪が風圧でなびき、足元の土が抉られる。  京之介の目が細められる。  「うふふふ……ええやん……その目ぇ……。やっと “斬り合い”になってきたやんかぁぁ♪」  愁は息を整えず、次の斬撃に移る。  動きが一瞬、消えた。  残像だけが竹の影を切り裂いていく。  竹が倒れるたび、光が差し、音が爆ぜる。  ――幻躯廊のカメラは、ふたりの速度を制御しきれずに軌跡を補完し続けていた。  モニターの解析数値は上限値を振り切り、 凛の目に映るふたりはまるで風と風が戦っているようだった。 竹やぶが唸り、光が閃く。  愁の木刀が弾かれ、肩口に京之介の一撃が叩き込まれた。  「くっ――」  低く息を洩らし、愁の身体が宙を舞い、土を 砕いて転がる。  葉が散り、空気が震える。  京之介は軽やかに木刀を下ろし、足元の土を 軽く蹴った。  「そんなんでは、大切な人を守れへんよ?  葵ちゃんやら……うちやら……」  その言葉が終わるより早く、愁の目がわずかに細まる。  次の瞬間、竹の影が裂け、風が音を追い越した。  バチィィッ!!!  火と煙が散り、京之介の両手が木刀を掴んで いた。  いつの間にか――片手では支えきれなくなっていた。  「……京之介さんを……守る必要って、あるん ですか……?」  愁の唇がわずかに笑みを描く。  その声音は、風よりも静かで、刃よりも冷たい。  京之介の紅の瞳が愉しげに細まり、頬にかかる朱の髪が風に舞う。  「んふふ……どうやろうな……?」  言葉と共に、京之介が笑う。  その瞬間、愁の身体が再び、風と化した。  木刀が軌跡を残さない。  竹の葉が舞い、斬撃が閃光のように交錯する。  愁の姿は残像に変わり、京之介の斬撃すらそれを追えない。  幻躯廊の制御AIがオーバーレートを検出し、 モニターの数値が真紅に染まる。  「……なに、これ……!?」  モニタールームで凛が声を漏らす。  彼の目には、風と光しか見えない。  愁が京之介を押している。音が遅れて響く たび、竹が次々と裂け、砂塵が爆ぜる。  愁の脳裏に、ふと浮かぶ。  (――葵さん……)  葵を守ること。  その想いは、身体の限界すら凌駕していた。  (あの人を……守れなければ……俺の、意味が ない……)  その想念が筋肉を駆動させ、反射を極限まで 加速させる。  風が唸り、竹の林が爆ぜる。  京之介が両足で地を踏み締め、全力で受け止める。  木刀と木刀がぶつかるたび、光が散った。  その光の連打が、竹林を一瞬の白昼に染め上げる。  「んふふ……やっぱ、愁は……こうでなくっちゃ♪」  京之介が満面の笑みで吠えた。  だが愁は、答えない。ただひたすら、前へ。  風が形を持つような速度で、愁が刃を走らせる。  もはや人の戦いではなかった。  そして―― ***  「っ……ちっとも見えな……」  「やぁ……楽しいね。」  「ッッ!!?」  モニターに集中していた凛の背筋が、次の瞬間に凍りついた。  隣に“誰か”が立っていた。  無音で、気配もなく。  いつの間にかそこに“いた”。  照明の光を受け、ところどころが青く反射 する黒髪。  男にも女にも見える“その人”は、白い指で猫の絵の描かれたマグカップを持っていた。  中の紅茶から湯気が立ち、甘い香りが静かに 漂う。  凛が驚きの声をあげるより早く、その人は 穏やかに微笑んだ。  「……いいね。どこまでも、速く、強く…… そして美しい。」  視線はモニターではなく、窓越しの竹林に向けられていた。  ガラスの向こうでは、愁と京之介の戦いが光と風の奔流となって渦を巻いている。  その人は――紅茶をひと口だけ飲み、ゆるやかに瞬きをした。  「……愁くんは……まだ、強くなる途中なんだね。」  そう言って、静かに微笑む。  竹林の風の音と、茶の香りが重なり合い、 モニタールームが一瞬、夢のような静けさに包まれた。 *** 竹の葉がざわめく。 風が、愁と京之介の髪を逆立てる。 木刀が打ち合わされるたび、乾いた音が森に弾けては、消えていく。 「――っ!!」  愁の踏み込みは音を裂いた。地を蹴る度、砂塵が巻き上がる。  対する京之介は一歩も退かず、鋭い軌跡で木刀を受け止める。 衝突の衝撃が腕を痺れさせ、二人の距離が一瞬、紙一重に縮まる。 「んふふ……速なったねぇ、愁……♪」  低く笑う京之介の頬を、風が撫で抜ける。 その瞬間、愁の身体が霞のように跳ね上がった。 空中で交差する木刀――音が鳴るより早く、視線がぶつかる。 木刀の柄がひび割れた。  甲高い音と共に、京之介の手の中で折れた刀が弾け飛ぶ。 「――なっ!?」 愁の一撃が迫り―― 首元に止まった木刀。風が二人の間をすり抜ける――静寂。 「……どないしたん……」 京之介は微笑み、愁を見上げる。 「そないなんじゃ……敵は倒せへんよ?」 「……大切な、京之介さんに……傷をつけるわけ…… ないでしょ……」 愁の木刀が、力を失って落ちた。 次の瞬間、愁の身体が傾ぐ。  京之介は反射的に抱きとめ、その胸に受け止めた。 二人の呼吸が、竹のざわめきと重なり合う。  京之介の頬は紅く、胸の奥で鼓動が波打っていた。その指が愁の髪を梳き、囁くように唇が 動く。 「……ほんま……負けそうやわぁ……♡」 「京之す――んっ……」  愁が言いかけたその瞬間、京之介は迷いもなくその唇を塞いだ。  風が止まった。  竹やぶを抜ける風が、二人の間にそっと吹き抜ける。  唇が離れた瞬間、愁の呼吸が小さく震えた。 頬は淡く朱に染まり、瞳にはまだ微かな驚きと 恥じらいの涙の光が残っている。 「……これ、絶対……ここの記録に残りますよね……」 「ええやん……♪ 慈愛のきっすやさかい…… 絶対、今の愁に必要やん……」 「……はぁ……」  ため息を吐きつつも、愁はすぐにいつもの柔らかな微笑みを浮かべて――そっと京之介の頬に 指先を這わせた。 「……そういえば、今日の晩ご飯……クリームシチューなんですけど……食べに来て、くれます……?」  竹の葉がカサリと鳴った。  京之介は少しだけ目を細めて、疲れを隠さず、けれど心から嬉しそうに笑った。 「んふ……ええなぁ……絶対に行く……♪ そや けど、その前に、もうちょい……」  囁きながら、再び唇が重なる。  先ほどよりも深く、優しく、そして長く。  戦いの熱も痛みも、すべてがこの瞬間に溶けていった。 *** 「……って! いつまでキスしてるんだあのふたりッ!!」 幻躯廊の外、監視室のモニター前で、凛が両手をぶんぶん振り回す。 「訓練だよ!?模擬戦だよ!?どこが!?ねぇ、どう思うっ!?」 隣の席に目を向けた瞬間―― 「……あれ?」 そこには誰もいなかった。 「……ていうか……あの人、誰?」  ぽかんと口を開け、凛の声だけが監視室に 響いた。

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