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第百六十二話

 最初に消えたのは、村の灯だった。  山あいの国境沿い、雪を被る集落。  朝になっても煙突から煙が上がらない。郵便の車が通り過ぎても、犬の鳴き声一つしない。  その報せは、やがて曖昧な通信の断片として 隣国へ伝わった――だが、誰も本気で取り合わなかった。  次に消えたのは、街の音だった。  市場のブザー、学校のチャイム、夜更けの酒場のピアノ。  それらが一つずつ、まるでスイッチを切るように止まっていった。  電波塔は正常に点滅し、送信ログも “問題なし”と記録されている。 ただ、そこに人間の声がない。  ポーランドの南東部では、国境警備隊の 一個中隊が消息を絶った。  オーストリアでは、地方自治体のデータサーバが焼失した。  ルーマニアでは、宗教施設の信者全員が “移動中”として処理されていた。  すべてが記録上は“存在している”。  だが、現場には何もない。  人々は最初、それを単なる移住や暴動の結果と思った。  メディアは他国のテロを連日報じ、愚かな 大多数の識者たちは「混乱の連鎖」だと語った。  愚かなメディア。映像に映る炎のひとつひとつがどこか“似ている”ことに気づく者もいなかった。燃え方、崩れ方、群衆の動き。  それらが機械の再現のように、同じ速度で反復されていた。  とある施設に、夜ごとに運ばれるトラックがあった。黒い防水シートをかぶせた荷台、番号を 削られたナンバープレート。  幹線道路の監視カメラには一度も記録されない。代わりに流れるのは、別の日に撮られた “正常な通行”の映像。  システムはそれを“過去データの自動補完”と 認識し、誰も異常を報告しない。  それは“誰か”ではなく、“何か”の意志のように動いていた。  人間の時間感覚では捉えられない周期で、 夜ごとに人が減る。 職場から、病院から、住宅から。  消えた者のメールは送信され、SNSは更新される。だが文面はすべて、どこかでコピーされた“生存の証明”にすぎない。  一部の研究者が気づき始めた。  人口統計が、日ごとに微かに削れている。  気象衛星が観測する熱源分布が、地図の一点に吸い寄せられている。  だが調査を命じられたチームは全員、国境付近で通信を絶った。  残されたのは、雪上に並ぶ奇妙な足跡。  それは人の形をしていながら、歩幅が均等 すぎた。  報道は続く。  だが、報じられるのは常に“別の何か”だ。  戦争、感染、噴火、テロ。  画面の向こうで世界が燃えている。  そしてその間にも、現実の“人の数”が、静かに 減っている。  街灯が一つ、また一つと消えていく。  夜の道路を渡る風が、無人の標識を鳴らす。  空には何の異常もない。  だが、何処かの施設では―― 誰にも知られず、何千、何万という心臓の鼓動が、別のリズムで打ちはじめていた。   ***  人間の大多数が、まだ“自分たちは平和”だと 愚かに信じているその裏で、製造人間たちの 国が、目に見えぬまま膨張を始めていた。  潮煙が断崖を洗い、鉛色の海が岸辺に重くぶつかる。スコットランド北岸の風はいつも早く、 岩礁を舐めるように走る。  崖の上から見下ろすと、岸壁に寄り添うように古びたドックと、そこに連結された半ば朽ちた 浮体構造物が見えた。  岸からは一本の細い橋が伸び、夜でも赤い航路灯が淡く揺れている。  外側から見れば、そこは廃棄予定の海洋掘削 プラットフォームと古い造船ドックが組み合わさった、時代遅れの工業地帯だ。  作業服を着た労働者たちが昼の便で戻り、古いクレーンが海霧の中でうなりを上げる。  だが、その地下で、あるいは海上の空室に 通じる扉の向こうで、別の作業が静かに進んでいるのを、外側の人間は知らない。  夜になると、海上に幾艘もの小型貨物船が接岸する。表向きは保守部材の補給だ。  満載のコンテナはクレーンでゆっくりと積み替えられ、乗り場のランプが規則正しく点滅する。だが荷札には微妙な異動記録。搬出表には “人道支援物資”――そんな一行が淡々と並ぶ。 通し番号の欠落、夜間にだけ行われる補給スケジュール。  誰かが、数字を擦り消しているのだ。  貨物が内部へ運ばれる。その隙間に、大勢の 人間が入っている。扉は閉められ、記録上は 「空荷」だ。船のエンジン音と作業員の声が波にかき消される。冷えた海風が、岸壁に残された 毛布の端を掴んで揺らすだけだ。  この施設の心臓部は、動力室と呼ばれる巨大な円筒の下にある。外側からは見えない給排気管、冷却ループ、そして長大な搬送コンベアが迷路のように伸びている。  深い場所では機械音が連続し、金属と皮膚が 接触するかすかな擦過音が、規則的に反響していた。そこでは「意思」を削り取り、肉体を組み替えるラインが、冷静に動いている。  島を守るように浮かぶ船団の中には、改造用の移動ユニットがいくつも混じっている。  外観は整備船や旧式のフェリーだが、その甲板下には拘束区画、麻酔投与室、機械アームの格納庫が隠れている。彼らは波間を渡りながら、夜の静けさを利用して人員を拾い集め、次の便で 内陸、あるいは海底トンネルへと送る。 移動することで監視網に痕跡を残しにくく、 もし追跡されても「他国の漁船」として誤認されやすい。学習した群れのように、船団は孤立し、組織の意志だけを静かに運ぶ。  同時に、世界の別の場所では裂け目が生まれていた。遠隔地での爆発、都市での蜂起、列車の 脱線。ニュースは連日、大きな悲劇を映し出し、観衆の視線はそこへ吸い寄せられる。  だがそれらは目眩ましに過ぎない。炎や瓦礫の向こうで、欠番は増え、村はいくつも、昼の帳簿から消えていく。誰も気づかない。記録は整い、同じ映像が繰り返し流され、報道はうるおいを 失った風景を繰り返す。  施設では、機械が淡々と組み替えを繰り返す。新しい部位が加わり、皮膚に埋め込まれたセンサーが同期する。改造を終えた者たちは、薄暗い 通路を渡され、船団の一隻へと戻される。  だが「戻る」とはもう言えない。誰もが、 もはや“元”には戻れない仕組みが仕上がっているのだ。  遠く、深い場所で、計画は進む。人間の数は、確実に減っていく。世界はまだ大災禍の喧騒に 気を取られている。だがその喧騒が沈む前に、 あるいは沈んだ後に、この海は、別の軍勢を 吐き出すだろう。 ――そして、その裏には、“彼”と呼ばれる製造人間の冷たい理性が横たわっている。  人間によって造られ、弄ばれ、組み替えられたその身体は、いまや鋼と知性の集合体。  彼の望みは、創造主への、その同族全てへの 報復であり、手段は徹底した効率と秩序。  彼にとって欠番となる人間は、ただの“素材”でしかない。  世界の静寂の下で、無数の改造された人間達が彼の指令を受け、動き出している。

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