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第百六十三話
開け放たれた窓から、冷たい朝の光と風が流れ込んでいた。
アパートの二階、木枠の縁に腰を下ろし、玲真は黙って膝の上のパンを指でちぎり。
「……ほら、マロン♪」
指先でちぎったそれを、足元に丸まる小さな影へと落とす。
「にゃ♪」
マロンと名付けられた薄茶の野良猫が短く
鳴き、尻尾を揺らしながらパンを舐め取る。
小さな舌のかすかな音が、壁紙の剥げた部屋に
こだました。
「あは♪ 慌てるなよ、食いしん坊のマロン。」
微笑みながらも、玲真の手はもう次の欠片を探さなかった。それが、この部屋に残る最後の食べ物だと知っていたからだ。
「はぁ……それにしても、腹減ったなぁ……」
膝の上にちょこんと乗ったマロンの顎の下を指で撫でながら、玲真は呟いた。
「にゃ〜♪」
小さな鳴き声が、静かな部屋にぽつりと響く。
「そんなことより、玲真」
メモ紙いっぱいの卓袱台の前で、畳の上に正座してノートパソコンを睨んでいた玻璃が、顔を
上げた。
「ノインから返信がないんだけど。
“計画中止”って送ってから、もうずっと」
「にゃ♪」
玻璃の言葉に、先に反応したのはマロン
だった。
「ふふっ、可愛いねぇ……君は」
その仕草に玻璃はつい頬を緩める。玲真は、
そんな彼を見て小さく笑い、視線を窓の外に流した。
「ノインか……あいつのことだから、もしかしたら――」
「まさか……もう動いてる、とか……?」
「んー、その可能性は……大ありかも」
玲真が言いながら立ち上がると、マロンは膝
からぴょんと跳び降り、一階のブロック塀の上に
着地。
「じゃあな、マロン……また、お前が食べれるもんあったら、やるから♪」
玲真が言いながら立ち上がると「にゃ♪」と
まるで挨拶するみたいにマロンは鳴いて、軽やかに駆けて行った。
「あは♪ 可愛いやつ。……んで」
軽く笑った玲真は、そのまま卓袱台の前に腰を
下ろして、玻璃の背後へ身を寄せた。
畳がわずかにきしみ、玲真の吐息が玻璃の耳を掠める。
「れ、玲真……こそぐった……」
玻璃のすくめた肩越しに、玲真は無言でキーを叩きながら、世界中のニュースを次々と開いていく。製造人間が関わっていそうな事件や、不可解な失踪――けれど、どれも断片ばかりだった。
「……これ以上は無理だね。俺らの今の設備じゃ」
玲真がぼそりと呟くと、玻璃は俯きながら小さく言った。
「……ぁ……こんな、しなくても……僕、どくから……」
すると、玲真はくすりと笑い、背後からそっと
腕を回した。
「ん……こうしてると、温かいじゃん♪」
耳元に、囁くような声。そのすぐあと、
ふわりと吐息が触れた。
「ひゃうっ……!? も……玲真!」
玻璃の声が裏返り、真っ赤になった頬を隠す
ように俯く。黒縁のメガネがずれ、慌てて指先で押し上げた。
玲真はその様子を見て、小さく笑う。
「愁のとこに確かめに行こう。服も返さなきゃだし、あいつんとこなら、なんか分かるかもしれないし」
「……ぼ、僕も行くの?」
「もちろん。今度は、玻璃も一緒に、な♪」
囁かれた声が耳の奥に残り、玻璃は胸の鼓動を押さえるように、コクンと頷いた。
***
夕方が近づくころ。
峠道を登る二つの影が、長く伸びていた。
玲真と玻璃。
財布の中はすっからかん。だから、ふたりは
歩いてここまで来た。
その歩調は、玻璃の速度にぴたりと合わせられている。
焦らせるでもなく、時折ふと足を止めては、
沈みかけの光を指さして「ほら、綺麗だな」なんて笑う玲真。
玻璃は息を弾ませながら、その笑顔を見て
小さく頷いた。
「……はぁ……っ、玲真……まだ、あとどのくらい……?」
「んー、あと少し。ほら、あの木の間に、屋根が見えるだろ? あれが『日向』だよ」
玻璃の手には、白いビニール袋。
中には愁から借りた仕事着――
玲真が一日だけ手伝わされた時、借りたものが、丁寧に畳まれて入っている。
袋の取っ手を指に絡ませながら、玻璃はくいっとメガネを押し上げた。
「ねぇ玲真……なんで、こんな時間に行くの?」
「早い時間だとさ、客が多いんだよ。下手すりゃ、また手伝わされるかも。俺、今そんな体力
までは残ってないよ♪」
「あ、あはは……お金がないって、改めて思うけど大変……」
「はは……♪ 俺達がまともに出来るのって、
人殺しくらいだもんな」
「ふふ……そうだね。僕なんか、それすら危ういけど」
他愛もない会話を続けながら坂を登る。
やがて、木々の間から看板が顔を出す――
喫茶店『日向』。
昼間の混雑が嘘のように、今は静かだった。
道沿いの駐車場からテラスへ続く階段には行列もなく、代わりに帰りの客たちが笑顔で降りて
くる。
けれど、それでもすれ違いざまに視線を集めてしまうのが、玲真と玻璃だ。
「ね、あの人……この前一日だけ入ったって
噂の……」
「えっ、今度はメガネ成分も追加!? 美形の組み合わせ強すぎるんだけど!!」
「……っ、聞こえてる……恥ずかしい……」
玻璃は顔を真っ赤にして、玲真の背に隠れるように歩いた。
「気にするなって。ああいうのは風みたいな
もんだよ」
「……でも……」
玲真が軽く笑い、片手を後ろに伸ばす。
「ほら、俺が前に立ってる。安心しな」
「ぅ……うん!」
玻璃は、その指先をそっと掴んだ。
ただそれだけのことなのに、玻璃の胸の奥が
じんと温かくなって、周囲の声は耳に入らなかった。
階段を上りきり、広いテラスを抜けて『日向』の扉を開ける。
カラン――と小さな音が響く。
ちょうどレジから出てきて客を見送っていた
愁が扉の方に振り返り、目を丸くした。
「……玲真? それに……?」
沈む夕陽の光が、三人の間を照らして――
***
店内にはまだ数組の客が残っていた。
「玲真……それと、玻璃……。ちょっとここで待っててくれる?」
愁に案内されて、玲真と玻璃はカウンターの端、空いた二席に腰を下ろしていた。
客室の奥では愁と京之介が常連たちに囲まれ、笑顔と軽い冗談を交わしている。
そのやりとりに惹かれるように、店内の空気はやわらかく、どこか名残惜しい温度を帯びていた。
木目のカウンターは磨かれていて、ほんのりと温かい。
窓の外では、夕暮れが山の向こうへと沈もうとしている。橙と群青が混ざる光が、店の中へと
静かに流れ込んでいる。
数分もしないうちに、凛が湯気を立てるカップを二つ、音もなく置いた。
「これ、葵ちゃんから。特製ブレンドだって……」
その言葉に、玲真は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……わざわざありがと。店長さん、忙しいだろうに」
「ん、まぁね。今日は特にね……」
凛は軽く笑ったけれど、その赤い瞳にはほんのりとした警戒の色が残っていた。
無理もない。
彼が最後に玲真と顔を合わせたのは、チェルノブイリの焦土の中。
愁が命を懸けて戦った、あの戦場での敵。
玲真はそんな空気を察して、カップを置いた。
そして、素直に頭を下げる。
「……あの時は、悪かったな。お前にも、愁にも」
隣の玻璃も、慌ててぺこりと頭を下げた。
「ぼ、僕も……その……ごめんなさい」
凛は目を瞬き、数秒の沈黙のあとでふっと息をこぼした。
「……なにそれ。素直すぎて拍子抜け」
そして、玲真と玻璃の顔を見比べる。
その瞬間――。
「「……ぐぅぅ〜……」」
沈黙を破ったのは、ふたりの腹の音だった。
見事なハーモニーで。
凛は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「ぷっ……ふふっ、なにそれ……! 同時とか、反則だよ……!!」
玲真は頬をかきながら苦笑いし、玻璃は耳まで真っ赤になって俯く。
「……ちょっと待ってて」
凛はそう言って厨房へ小走りに消えた。
――数分後、皿を手に戻ってくる。
皿の上には、こんがり焼いたパンとふんわりした卵の香り。
「はい、特製……ってほどでもないけど、
サンドイッチ。ま、ボクが作ったから味は保証しないけどね」
冗談めかした声とは裏腹に、その瞳は優しかった。
「……お前、名前なんだったっけ?」
「ん……凛だよ。月見 凛……どうして?」
「いや。ありがと、凛」
「ぁ……ありがと……凛君!」
玲真が小さく微笑み、玻璃は両手で皿を受け
取る。
「べ……別にお礼を言われるほどじゃ……ほ、ほら! お腹空いてるんでしょ、早く食べなよ!」
恥ずかしそうに言いながら、凛は顔を背けた。
ふたりはほとんど同時に、サンドイッチを口に運ぶ。
「ッ!? おいしい……!」
玻璃が驚いたように目を見開く。玲真も口角を上げて、頷いた。
「うん、うまい! サンドイッチ……こんな
パンもあるのか……甘くないけど……美味い♪」
「ちょ……褒めすぎでしょ……」
そう言いながらも、凛の頬はほんのりと緩んでいた。
湯気の立つコーヒーと、簡単なサンドイッチ。
静かに閉店を迎える客室の片隅で、三人の間に、ほんの少しあたたかな時間が流れていた。
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