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第百六十四話
営業終了の札が下げられた『日向』の店内には、まだ温かな灯りが残っている。
客はすでに帰り、テーブルの上には片付け前のカップや皿がぽつぽつと残っている。
窓の向こうには、沈みきらない夕焼けが山の
稜線を淡く染めていた。
橙と群青が混ざり合う空を、店の照明がやさしく映して、まるで一日の名残を惜しむように、
木の壁や床をほのかに照らしている。
カウンター席の中央、並んで座る玲真と玻璃の周りには、愁、京之介、凛の三人が集まっていた。
愁はカウンターの内側から、玲真と玻璃の空いたカップに新しいコーヒーを注ぎながら、静かに問いかける。
「京之介さんもどうですか?」
「ん♪ お願いすんで」
にこやかに笑う京之介は、脚を組み、肘を
カウンターにつきながら優雅に受け取る。
「はい。凛のはミルクとお砂糖たっぷりね」
「ありがと、愁ちゃん♪ ……あ、愁ちゃんのはボクが注いであげる!」
その隣に座る凛が軽く背伸びして、愁が彼の
カップに砂糖を入れている隙にポットを取る。
「ありがと、凛」
慣れた手つきで、愁のカップへ温かいコーヒーを注いだ。
「愁ちゃんも、ミルクとお砂糖いっぱいね!」
「うん。助かるよ」
そんな穏やかで微笑ましい空気が流れる中、
京之介はコーヒーを一口啜り、ふと視線を玲真に向ける。
「それで……今日はなんでまた、うちに?」
目を細め、興味深そうに尋ねる京之介。
玲真は静かに頷くと、傍らの椅子に置いていた小さなビニール袋を取り出し、スッと差し出した。
「まずはこれ。こないだ借りっぱなしだった服、返しに来た」
袋の中には、丁寧に畳まれた仕事着。
「……で、もうひとつ」
玲真は少しだけ表情を引き締めた。
「俺ら以外の“製造人間”が、どっかで動いてるかもしれない。連絡はつかないし、情報も限られてる。……愁達のとこなら何か掴んでるかと思ってさ」
カウンターに小さな沈黙が落ちた。
凛が少し真面目な顔で愁を見る。
愁は短く首を振る。
「そういう情報、俺には……。京之介さんは?」
聞かれた京之介だけは、静かにカップを指先でなぞりながら、意味深に笑った。
「……んふふ♪ 実はな、ちょい耳にしてんで。もともと“逃げた奴ら”の足取りは追ってた
けど――玲真が“解放”したって聞いた時から、
調査をちょい念入りにしててな」
玲真が軽く頷くと、京之介は続けた。
「そしたらな、あちこちで……どうも“お仲間”
が関わってるとしか思えん事件が、ちらほら
起きとる。全部、やけに“整いすぎた”事故とか、災害とかや」
「陽動、ってことですか?」愁が問う。
「んふふ……そう。誰かがなんかを隠してる、
うちは逆に誘うてるんとちがうかって、嬉しなってもうた♪」
カップを口に運ぶ京之介の笑みは、艶やかで、どこか愉しげだった。
「しかもな、とある地域でこっちのクローン監視用の信号がいくつも途絶えてんねん。偵察部隊を近々送る予定やで……当然、そないな楽しそ……
大変そうな任務やさかいうちも行くけど♪」
「……あぁ、やっぱりぃ……」
玻璃が小さく息をのむ。玲真は頬杖をついて、天井を見上げたまま短くため息をつき、それから京之介に視線を戻した。
「なぁ、その偵察、俺もついてっていいかな?」
問われた京之介は、少し眉をひそめて首を振る。
「んー、あかん。うちは指揮もとらなあかんし、あんたを常に同伴させとったら他の子らが
不審がるわ」
「別に、こっそり付いてくだけだ。現地じゃ
別行動ってことで」
玲真の声は低く、焦りを押し殺すように落ち着いていたが――京之介はくすりと笑い、目の奥が
刃のように光った。
「……あかん。うちは、あんたをそこまで信用してへんってこと――覚えとき」
その声色には、先ほどまでの艶が消え、冷たい威圧だけが残っていた。
一瞬で場の空気が張りつめる。
玲真の拳がわずかに震え、目が鋭く京之介を
射抜く。カウンターに並び見つめ合う二人――
その間の空気が裂ける直前で、
「だったら、俺も一緒に行きます。」
愁の声が、すっとその間に割って入った。
玲真の肩が僅かに緩む。愁は静かに続けた。
「別行動で構わない。玲真は俺が監視しておく……それでどうですか?」
京之介は、少しの間、愁を見つめ――やがて
楽しそうに唇を吊り上げた。
「んふふ♪ そら、ええなぁ。ちゃんと責任もって監視したってや♪」
そう言ってコーヒーを飲み干す。先ほどの
冷たさはもう消え、そこには好奇心と愉悦だけ
が残っていた。
「愁、いいのか?」
玲真が少し呆れたように尋ねると、愁はため息をひとつついて微笑んだ。
「いいよ。……仲間のこと、気になるんだろ?」
玲真は唇を尖らせ、少しだけ顔を赤くする。
「ちょっとな。俺が解放したわけだし……
責任も感じてる。でも、なんでお前はそこまで……?」
愁はカップを見つめ、口の端で笑う。
「止めなきゃ、あのまま京之介さんに飛びかかってたろ。……その先がどうなるかは、まぁいいとして――お店が壊れるのは避けたくてね」
そう言って、少し間を置く。
「……それに」
その先を言いかけて、愁はほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「それに、なんだよ?」
「……なんでもない。」
言葉にするのは照れくさい。
(――消えてもらっても困る……。玲真とは、
もう一度くらいは戦ってみたい……なんてマンガみたいな言葉、言うべきじゃないよね……)
心の中で、そう呟いてから、何事もなかった
ようにコーヒーを一口飲んだ。
張りつめていた空気が、ふっと緩んで愁が
カップを置こうとしたその瞬間――
「愁ちゃん! 愁ちゃんが行くなら、ボクも行くから!」
凛の声が弾けた。
真剣な響きが混じるその声に、店の空気が少しだけ明るくなる。
玲真を見つめる赤い瞳は、どこか警戒の色を
帯びていた。
敵意ではない。ただ――別の意味での警戒。
優しすぎる愁が、また誰かに“惚れられてしまう”のではないか。
それが、凛の一番の心配だった。
「ね、京兄ちゃん! いいでしょ?」
勢いよく言われた京之介は、くすりと唇を
歪め、にっこりと笑った。
凛の気持ちをすべて見透かしたような、穏やかで妖しい笑み。
「うちはええけど……」
愁の方に目をやる。その視線に気づいた凛が、カウンター越しにぐっと身を乗り出した。
「愁ちゃん、いいでしょ? ボクも、玲真を
しーっかり監視するから!」
「っ……」
潤んだ赤い瞳でまっすぐに見つめられ、愁は
わずかに押される。それでも穏やかに微笑み、
「ありがと、凛。助かるよ」
そう言うと、凛の顔がぱっと花のように明るくなる。
「やったー♪」
ぴょん、と軽やかにカウンターを飛び越え、
愁の肩へと身を寄せた。
頬がそっと触れる距離。甘い吐息がかすかに
混ざる。
「えへへ……ちょっと、わくわくするね♪」
愁はその言葉に、少しだけ表情を引き締める。
「……凛」
「ん?」
「……真面目に行かないと、怪我するよ。俺は
凛が傷つくとこなんて、見たくないからね」
凛は素直に肩をすくめ、微笑んでさらに頬を
寄せる。
「わかってるよ。もー、どんだけボクのこと心配なんだか♡」
「ほんとかな……って!?」
反対側の肩に、ふわりと影が差した。
振り向けば、京之介がすぐそばで頬を寄せていた。
距離が近い。吐息がかかるほどに。
「なぁ……愁、うちの心配は?」
低く艶のある声に、愁がわずかに眉をひそめる。
「……京之介さんを心配する理由って、あります?」
呆れた声の奥に、少しだけ笑みが混じる。
京之介は喉の奥で妖しく笑い、艶やかに囁いた。
「んふふふふふ♪ か弱ーいうちのことも、
心配してほしい♡」
その声はまるで、夜のカーテンの裾をそっと撫でるように柔らかく、その場の空気をふわりと
熱くした。
「あ、あの……」
和やかな空気がカウンターに戻り、玻璃は少し笑いながらも、遠慮がちに手を上げた。
「関係ないとは思うんですけど……その……
三人の関係って、どういう……?」
愁がわずかに言葉に詰まる。
代わりに、両隣の二人が同時に愁と腕を組み――
「「恋人!」」
見事にハモった。
玻璃はぽかんと口を開けたまま、やがてぽそりと呟く。
「……しょ、初対面でこんなこと言うの失礼かもだけど……愁って、ケ、ケダモノ……」
「えっ!?」
凛が吹き出し、京之介が手を叩いて笑い出す。
愁は眉をひそめて頬を赤らめ、思わず言いかけた。
「そ、そんなこと――」
そのとき。
厨房から香ばしい香りとともに、葵がふわりと現れた。
「はい、試作ドーナツ! 色々作ってみたから、みんなで食べよう♪」
両手に抱えたトレーには、揚げたてのドーナツが色とりどりに積まれている。
柔らかな照明の下で、葵の微笑みはまるで光
そのもののように場を包み込んだ。
「あと、一番の恋人は……僕なんだけどね!」
そう言ってカウンターにトレーを置くと、葵は自然に愁の胸へと歩み寄り――
その胸に頬を寄せ、少し上目遣いで見つめた。
「ね、愁くん♡」
その声は、甘く、少し息を含んでいた。
愁は思わず息を呑み、頬をさらに赤く染めながらも、視線を逸らせない。
「は、はい……」
「うん……正直で、よろしい……」
吐息が重なりそうな距離――あとほんの数センチ。
「愁くん……」
「葵さ……むぐっ!?」
その瞬間、凛と京之介の手が同時に愁の唇を
塞いだ。
「愁ちゃん、近すぎっ!」
「葵ちゃんも……ちょい大胆過ぎとちがう?」
「はぅ……」
真剣めいた声に、葵ははっとして身を引く。
それでも頬はほんのり桜色に染まったまま、
気を取り直すように明るく笑った。
「ま、まっ! とりあえずみんなでドーナツ
食べよ? ね!」
葵の声に、場の空気が更にやわらぐ。
「やった♪ じゃあ、こないだの美味しかったやつ!」
玲真は真っ先にチョコソースのドーナツを手に取り、ひと口。
「うわ……! うまっ……♪」
子どものように頬を緩ませるその顔に、葵は
思わず笑みをこぼす。
「ちょ……玲真……もう少し遠慮……」
控えめに口を挟んだ玻璃に、葵がにっこりと
笑いかけた。
「遠慮なんてしないで、いっぱい食べてよ♪
その方が僕は嬉しい。はい」
そう言って葵は、トングでそっと玲真が食べてるのと同じチョコドーナツをつまみ、まるで宝物を扱うように玻璃の手元に差し出す。
「ぁ……ありがとうございます!」
玻璃は両手でそれを受け取り、ちらりと愁を
見た。まだ半分信じられないような表情のまま、ぽつりと呟く。
「それにしても、三人だなんて……やっぱり……
ケダモノ……僕が気をつけなきゃ、玲真まで……」
小さくため息をつきながら、ドーナツを口に運ぶ。すぐにその瞳が見開かれた。
「っ……!? おいし……♡」
その声に葵と玲真が顔を見合わせて笑い、凛と
京之介もこらえきれずに笑い出す。
愁は唇を覆われたまま、ため息をついた。
けれど――
その夜の『日向』は、どこか特別だった。
深刻な話をしていたはずなのに、客室は笑い声と甘い香りに満たされ、窓の外では峠を渡る風が優しく木々を揺らしていた。
嵐の前の静けさのように、穏やかで、優しい
時間が流れていた。
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