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第百六十五話
夜の名残を薄く溶かしたような早朝。
冷たい空気を切り裂くエンジン音が、山肌を震わせる。
真紅のシルビアS15が、峠道を滑るように駆け抜けていく。
街灯のない道を、ヘッドライトが白く切り裂き、岩肌と木々の影が流れては消える。
ハンドルを握る葵の横顔を、メーターの淡い光がふっと照らした。
その一瞬、睫毛の影までもが、夜明け前の静寂に溶けていく。
「うわぁぁ……凄いッ♪」
助手席には、愁でも凛でもなく――葵と同じ
『日向』の仕事着に身を包んだ玻璃の姿が
あった。
背筋を正して座る彼の膝の上では、両手が
そっと重ねられている。
車体がカーブを抜けるたび玻璃の肩がわずかに揺れ、そのたびに葵はちらりと横目で彼を気遣う。
「玻璃くん、寒くない?」
「大丈夫です! それよりも楽しくて……このシルビアって車、凄い速いんですね♪」
「ふふ♪ うん。ちょっと古い子だけど、
まだまだ走りたがってる、いい車なんだよ♪」
その言葉に呼応するように、エンジンが低く
唸り、車体が夜気を裂く。
CDプレーヤーから、小さく旋律が流れていた。葵は自然とその曲に合わせるように、かすかに唇を動かす。
「星座の導きで、いま見つめあった――」
懐かしさを帯びた声と歌詞が、車内をやわらかく包みこむ。
玻璃はその歌声に耳を澄ませながら、窓の外に流れる薄闇を見つめていた。
エンジンの低い唸り、流れる風、そして葵の声。そのすべてが重なって、これから始まる一日の静かな序章を奏でているようだった。
――三日前。
玻璃が『日向』を初めて訪れた日。
玲真と一緒にカウンターに座り、皆でドーナツを頬張っていたとき。
凛が突然、思い出したように声を上げた。
「そういえば、ボクらが出発したら……
その間、葵ちゃん一人でお店しなきゃいけなく
なっちゃう」
瞬間、場の空気が静まった。
愁も京之介も、視線を交わして少し考え込む。
そんな中、玻璃が小さく手を挙げた。
「だったら……僕が手伝います。僕、戦いじゃ玲真の足を引っ張るだけだし……」
玲真が驚いたように顔を上げる。
一瞬、言葉を探すように彼の唇が動き――
やがてふっと柔らかく微笑んだ。
「玻璃……そうだね、その方が俺も安心
する……」
「ぁ……はは、やっぱり玲真もそう思う……」
小さく俯いた玻璃の声には、どこか寂しさが混じっていた。
「っ……違う!」
けれど、その寂しさに気づいた玲真は、少し
慌てたように、玲真は鼻の頭をかきながら言い
直した。
「……その、愁じゃないけど……俺も、玻璃が
怪我とかするの……嫌っていうか……」
玻璃の頬が、見る見るうちに赤くなった。
「う、うん……ぁ、ありがとう……」
カウンターの向こうで、そのやり取りを見ていた葵がくすっと笑う。
「甘いね……」
「ええ……とっても」
愁は優しく目を細め、微かに口元を緩めた。
「んふふ……♪ あないなの、ええなぁ……」
京之介が羨ましそうに呟くと、
「京兄ちゃんじゃ、ムリでしょ♪」
凛が即座にツッコミを入れる。
「やかましっ!」
軽く頭をはたかれた凛の笑い声が、店内に
弾んだ。
玲真は照れ隠しに笑って、言葉を切り替える。
「ま、まぁ、とにかく――店長さんの手伝い、
頼むよ!」
「わ、分かった! 頑張るよ、僕!」
頬を真っ赤にして黒縁メガネを押し上げる
玻璃。その小さな決意を、みんなが温かい目で見守っていた。
――そして今。
夜が明け始める。
峠の向こうの空が、かすかに白み、シルビアのボンネットに朝の光が滑り落ちた。
冷たいエンジン音が、どこか優しく峠に響いていた。
***
山肌の向こうに滲む朝日が、窓硝子の縁を
ゆっくりと照らしていく。
厨房からは焙煎した豆の香りが漂い、
カウンターの上でドリップポットが静かに
湯気を立てている。
開店準備の音が、静寂の店内に優しく響く。
椅子を整える木の擦れる音。カップを棚に戻す軽い音。その中で、玻璃はエプロンの紐を結び
直し、丁寧にテーブルを一枚ずつ拭いていた。
臨時で手伝うことになった日から、二日目。
葵と二人なのは、今日が初だ。
愁に教わった接客の言葉遣い、レジ操作の
手順、カップの並べ方――どれもきっちりと覚え、間違えない。
一度聞いたことは確実に記憶する玻璃の几帳面さに、愁も驚いていた。
(……頑張らなきゃ!)
昨日の愁の指導は、徹底していた。
『日向』の客は、ただコーヒーを飲みに来るだけじゃない。
“空気”を味わいに来る。
――だから、表情ひとつ、言葉の間の呼吸ひとつが、何より大切だと。
開店前の光が少しずつ強くなり、磨き上げた
ガラス戸に朝の色が映る。
玻璃は最後のテーブルを拭き終えると、ふっと手を止めた。
その瞬間、ふと脳裏をよぎったのは、昨夜の
玲真の言葉。
――「客から、嫌なことされたら、ちゃんと
そいつの顔を覚えといて。俺がボコボコにして
やる。」
思い出した途端、玻璃の手が止まり、頬に
熱が宿る。
「……もう、あんなこと言って……」
小さく呟きながら、唇の端をわずかに上げた。
その笑みを、窓の外の光がやわらかく包む。
カウンターの奥では、ポットからカップへ
コーヒーの注がれる音が響いて、カウンターの上の陶器の皿の横に、コトっと置かれた。
静かな音が木の天板に響く。
皿の上では、湯気を立てるふわふわの玉子と、香ばしく焼けたベーコンが香ばしく焼かれたパンの間で、彩りよく重なっている。
「お待たせ、玻璃くん。」
そして、葵の柔らかな声が響いた。
「ありがとうございます!」
玻璃は姿勢を正して頭を下げた。心の底からの感謝が、その声に滲んでいた。
葵が用意してくれるこの朝食は、彼にとって
一日の始まりのご褒美だった。
昨日も同じように葵がサンドイッチを作ってくれて、玻璃は初めて“朝ごはんの温かさ”というものを知った。
玲真と二人、日本に来てからの数ヶ月。
目的はあっても、身分証も、経歴も、働く術もなかった。
結生婆ちゃんのおかげで、なんとか食べ物を
分けてもらえていたけれど――
正直、毎日がひもじかった。
特に玲真は、純粋に戦うために造られた身体。
人よりもずっと多くのカロリーを必要としていて。
だから玻璃は、いつもこっそり自分の分を少し彼に譲っていた。
――その分、余計に今が嬉しい。
葵が笑って差し出してくれる“当たり前の朝”が、胸の奥にじんわりと沁みていく。
「いただきます!」
サンドイッチをひと口かじった瞬間、ふわりと溶ける玉子の甘みと、ベーコンの香ばしい塩気が舌に広がる。
玻璃の頬がほころび、瞳が輝いた。
「……美味ひぃぃ……♪」
思わず漏れた声に、葵がくすっと笑った。
「ふふ……大袈裟だよ、玻璃くん。でもそんなに喜んでくれたら、作り甲斐があるね♪」
その笑顔は、朝日みたいに優しくて。
玻璃は黒縁眼鏡を指先で押し上げながら、小さく呟いた。
「大袈裟じゃないですよ……葵さん。すごい
です、こんなに美味しいもの作れるなんて」
「えへへ、ありがと。じゃあ、明日はもっと
美味しいの作らなきゃね」
軽やかに笑う葵の声に、玻璃の胸がほんのり
温かくなる。
皿を空にし、カップの底に残ったコーヒーを
飲み干した頃には、窓の外がすっかり朝色に変わっていた。
いよいよ『日向』の開店準備が整う。
***
朝七時、開店直前。
峠道の中腹。
紅葉の隙間からのぞく『日向』の看板の前には、今日も静かな行列ができていた。
入口から緩やかに蛇行する列は、テラスを
下り、さらに道沿いの駐車場へ続いている。
「『日向』の新しい店員さん、もうネットで
話題になってるよ」
「愁くんたちがいないの寂しいけど……
新人くん、写真よりめっちゃ可愛い〜♡」
「ほんと、昨日あの子とちょっと話せたけど、すっごい癒された……」
「葵さん、今日も客席に出てくれると
いいなぁ」
そんなささやきが、柔らかい朝の空気の中に
溶けていく。
並んでいる女性たちはスマホを手に、楽しそうに微笑み合う。
中にはレンズを構える者もいるが――ここに並ぶのは、皆“日向の空気を大切にする客”。
相手が嫌がれば、決して強引には撮らない。
その暗黙の節度が、この店が愛されている
理由のひとつでもあった。
やがて、木製の扉が カラン と柔らかい音を
立てて開く。
朝の光の中に現れたのは、白いシャツに黒の
ベスト、細身のスラックス、そしてきちんと結ばれた黒いネクタイ。
黒縁眼鏡の奥の、まだ慣れないようなおどおどした眼差しが列をゆっくりと見渡す。
小さく息をのみ、胸の前でそっと手を揃えて――
青年は深々と頭を下げた。
「……お、おはようございます」
その瞬間、列のあちこちで小さな吐息が漏れた。まるで、朝露のように“可愛い”が揺れた。
噂の“新入り”――玻璃だ。
愁に教わった仕事内容は一日で完璧に覚えてしまったものの、接客だけはまだぎこちない。
慣れない笑み、硬い姿勢、運ぶ手つきもどこか慎重すぎる。
それでも、注文を取るたびに眼鏡の奥の瞳がきらりと揺れ、相手を真っ直ぐに見ようとする誠実さだけは隠しようがなかった。
「かわいい……」「真面目……」「守ってあげたい……」
そんな小さな声がコーヒーの香りに紛れ、
ふわりと客室に溶けていく。
そのとき、厨房の扉が音もなく開いた。
白い湯気の向こうから現れたのは、黒髪を
きゅっと束ねた葵。
両手にトレイを抱え、柔らかな笑みを浮かべている。
――その瞬間、客室の空気が止まる。
客たちの視線が、一斉にその姿へと吸い寄せられた。静かなため息が、ひとつ、またひとつ。
「……葵さん、出てきてくれた……!」
「ほんとだ……!」
誰もが小声で喜びを漏らし、その笑顔を壊さないように、そっと背筋を伸ばした。
葵がカップをカウンターの上のトレイに置く。
玻璃が小走りで駆け寄り、受け取ったトレイを持ち替える。
ふたりの視線が一瞬、交わる。
「玻璃くん、これ七番さんと、こっちはテラス席の十八番さんね」
「は、はいっ……!」
慌てて眼鏡を押し上げる玻璃。
その初々しい仕草に、客席の空気がまたやわらかく波打つ。
“がんばってる子”を見守るような、優しい笑顔があちらこちらに広がった。
葵もほんのり目を細め、息を含んだような
声音で言う。
「……ふふ。慌てないで、一緒に頑張ろ♪」
そう言って戻っていく葵の背中を、玻璃は
まっすぐに見つめる。
SNSで賑わい、一向に冷める気配のない
“『日向』ブーム”の真ん中で、葵と玻璃は、
懸命に、そしてどこか微笑ましく働いていた。
その姿があまりに健気で、客たちはまた心の
どこかを温かく満たされていくのだった。
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