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第百六十六話

 『日向』は、昼間の賑わいが嘘みたいに静かだった。  外はすでに薄闇が落ち、山の木々が風にさらわれて、ざわ……と低く鳴っている。  窓の外をかすめるその音は、どこか冷たく、 それでいて店内のあたたかさを強調していた。  店内には皿が触れ合うかすかな音と、シンクに落ちる水の音だけが響いていた。  玻璃はテーブルから集めた皿やカップを、両腕に抱えて慎重に運ぶと、そっとシンクへ置き、 袖をまくる。手に少しだけ湯気が触れて、冬の気配を感じさせる。  「葵さん、これ、洗っちゃいますね」  「うん、ありがと。……でも、休みながらでいいよ。慣れないお仕事で疲れたでしょ?」  作業台の向こうで、葵が明日の仕込みをしていた。カットされたベーコンの香りと、ドーナツ 生地の甘い匂いが混ざる。  玻璃は手を止めずに首を横に振った。  「いえ……僕は、玲真と違って“不良品”だけど……一応、製造人間ですから。あまり疲れは 感じません」  空腹に弱いことは、恥ずかしくて言えなかった。葵は、洗剤の泡を見つめながら、その言葉に眉を寄せる。  「自分のこと、そんなふうに言っちゃダメ だよ」  「え……?」  「玻璃くんはすごいよ。一度教えたことはすぐ覚えるし、真面目で優しいし。……それに接客だって、このまま少しずつ慣れてきたら……」  シンクに落ちる水が、ぽちゃん、と跳ねて 光った。  その言葉は玻璃の胸にそっと落ちて、じんわりと広がる。  「壊れやすいから玻璃(はり)――そう名づけられた。  生まれた時から“不良品”と呼ばれてきた。  薄暗い檻の中、ガラス越しに番号を呼ばれる 順番を待つだけの日々。    誰かが自分を“必要”だと言ってくれるなど、 考えたこともなかった。  でも今、自分のしたことを“すごい”って言ってくれて、未来まで期待までしてくれる人がいる。  胸の奥がじんと熱くなり、玻璃は息を飲む。    「……って」  葵は自分で言っていて、急にハッとしたように目を瞬かせた。  「あはは……ごめん。玻璃くんは臨時で手伝ってくれてるだけなのに、なんかずっと一緒に働くみたいな言い方しちゃっ……」  「……葵さん」  「ん?」  「……ありがとう、ございます」  玻璃は深い感謝を込めて、愁に教わった丁寧なお辞儀をする。その仕草は少しぎこちないのに、とても美しかった。  葵はふっと表情をやわらかくして――  「それよりさ」  唐突に、どこかいたずらっぽい声色になる。  「玻璃くん、玲真くんのこと……どう思ってるの?」  「っ……は、はい!? な、なんでそんな……!」  洗っていた皿がかたん、と揺れて、泡がふわりと飛んだ。  玻璃の耳先まで真っ赤になった反応に、葵は 思わずくすっと笑う。  「なんかね、勘なんだけど……玻璃くん、玲真くんのこと“好き”なんだろうなって♪」  “好き”――その言葉が、玻璃の頭の中で反響した。人間の感情を学習する上で知っていた単語。でも、考えたこともない感情。  けれど今、胸の奥でその音がほのかに熱を 持って響く。  「そ、そ、そ、そ、そんなことは……」  慌てて言葉を否定する玻璃に、葵が小首を 傾げる。 「違うの?」 その優しい視線に押されて、玻璃は慌てて首を 振ってしまう。  「ち、違います! た、ただ……」  「ただ?」  追いかけてくるような葵の声。  玻璃は言葉を探し、唇をぎゅっと噛んだ。  でも胸の奥から湧き上がるものは、もう止められなかった。  「れ、玲真は……僕を檻から助けてくれたから。その恩返しをしたくて、一緒に行動してる だけで……」  ほんの一瞬の間。  玻璃は肩を震わせながら、まるで蓋が開いた ように続けた。  「でも、玲真……いつも優しくて……」  玻璃は言葉を探しながらも、胸の奥に浮かんだ感情を隠せずに続けた。  「僕みたいなのを……絶対に見捨てたりしないんです。怖かった時も、泣きそうだった時も……手を引いてくれて。それが、なんていうか…… すごく安心して……」  頬がじんわり熱くなるのを感じながら、自分でも驚くくらい素直に話が溢れ出す。  「一緒にいると……楽しいんです。どうしてかわからないけど……本当に楽しくて。玲真が 笑ってくれると、胸がきゅーってなって……  嬉しくてどうしようもなくなるんですよ。 ……僕と居て、笑ってくれるんだって……変なとこで毎回ドキドキして……」  言いながら、自分で自分の胸を押さえてしまう。  「それで……心細いなって思った時は、なんでか玲真が気づいてくれて、手を握ってくれたりもして……玲真の手、あったかくて……こう……指の 先から胸の真ん中までぽかぽかしてきて……。  離したくないなぁって……ずっとこのままがいいなって……思っちゃうんです」  言葉の端が照れで震える。  けれど止まらなかった。  「で……で、あの……」  視線が泳ぐ。  ちょっとだけ、いつもより小さな声。  「パンを食べてる時の玲真……すっごく可愛いんですよ。あの真剣に食べてる顔……ほっぺとか、ちょっとだけもちっとして……。  僕、あれ見るとなんか……胸がぎゅーってして、もっと見たいなぁ……って……」  気づいたら、頬が真っ赤になっていた。 「あ、えっと……あと……」  まだあるのか、と葵は微笑みながら聞いて いる。  玻璃は気づかず、さらに畳みかけた。  「夜に一緒に歩くときとか……肩が触れたり すると、それだけで変にドキドキして……。  隣にいるのが玲真だと……なんか、世界が少しだけ明るいっていうか……。 何してても楽しくて……嬉しくて……  “あ、今……幸せだなぁ……”って思うこと、すごく多くなって……」  そこでやっと、玻璃は自分がどれだけ喋っていたかに気づき、慌てて口を押さえた。  「……っ! あ、あの、こういうのは、 その……!」  ぱたぱたと手を振る玻璃。  彼は、まだ気づいていない。  葵はくすっと笑いながら優しく言った。  「玻璃くん、それ……」  「……はい?」  「恋、だよ」    「は……」  時間がすぅっと遠のいた。  厨房の時計の音も、水音も、すべてが薄く 霞む。  恋。  その言葉が胸の奥のどこかで、ゆっくりと形を持ち始める。  壊れやすい玻璃の胸の中で、初めて芽吹いた 小さな光。  「ね、いいことだよ。誰かを好きって」  葵の声は、静かな夜に落ちる鐘の音みたいに優しく響いた。  玻璃は頬を赤く染めたまま、小さく笑う。  「っ……はい」  けれど胸の奥には、別の疑問が残っていた。  “恋”がどんなものなのか理解したばかりの自分だからこそ、確かめたいことがある。  皿をすすぐ手をそっと止め、玻璃は口を開いた。  「……葵さんは。」  「ん?」  「葵さんこそ、愁とは……どんな感じなんですか? どこを好きになったんですか?」  愁は、完璧だ。強くて優しくて、美しい。  だが、恋人が葵だけではない。それが玻璃には不思議でならなかった。  葵は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかに笑った。  「そっか。僕ばっかり玻璃くんの話を聞いてたもんね」  袖をまくる葵の腕に、薄く残る傷痕。  それを何気なく見つめながら、葵は静かに語りはじめた。  「僕ね……昔、親の借金で売られてたんだ」  淡々とした口調。それでも滲む痛み。  玻璃は息を飲み、ただ聞いた。  「身も心もボロボロで……何度も諦めかけた。でも、運良く助けられて……色々あって、この お店で働くようになって。気づいたら、ここが 僕の居場所になったんだ」  葵の視線は、店内の静かな空気に向けられる。  厨房のやわらかな灯りが、彼の横顔を照らしていた。  「でもね……ずっと寂しかった。お客さんも あんまり来なくて。誰もいない夜に仕込みをしてると、何のために生きてるのかわからなくて……」  葵はふと笑みを浮かべて、顔を上げた。  「そんな時に、愁くんに出会ったんだ」  その笑みは、恋を語る人のそれだった。  「一目惚れだったよ。きれいで、優しくて……一緒に働きたいって言ってくれて」  葵の頬に、淡い赤みが差す。  「一緒にいるうちに、どんどん好きになって……。愁くんも僕のこと好きって分かって、 凄く嬉しかった……。けど、僕は汚れてるから、愁くんを遠ざけようとした。」  「っ……」 声が震えたのを、玻璃は聞き逃さなかった。  「……でもね、愁くんは諦めなかったんだよ。何度も“僕のこと好き”って言ってくれて……。 そのたびに嬉しくて、嬉しくて……」  玻璃は胸が熱くなるのを感じた。  「愁くんが“普通の人間じゃない”ってわかっても、その気持ちは変わらなかった。……恋って、理屈じゃないんだね」  その“特別さ”は、玲真との関係にも重なって 見えた。  けれど――納得できないものが、ひとつだけあった。  「……でも、葵さん」  「ん?」  「愁が……凛ちゃんや京之介さんと仲良くしてて……それでいいんですか?」  葵は少しだけ目を瞬かせ、それからふわりと 笑った。  「ふふ……♪ いいんだよ」  「……いいんですか?」  「うん。もちろんヤキモチを焼く時もあるけどね。でも、凛くんも大切な友達だし、京之介さんも……まあちょっと変わってるけど悪い人じゃないし」  葵は水滴を拭いながら、柔らかい声で続けた。  「……愁くんを好きな人には、悲しい思いを してほしくないんだ。優しい愁くんに、愁くんを大切に思う誰かを傷つけてほしくなくて……」  その声は、あたたかくて、ほんの少し切なかった。  玻璃は胸の奥がじんと揺れるのを感じながら、何も言えずにいた。  そして――  葵は小さな声で呟いた。  「……それに、こうなったのは……だいたい 僕のせいだし……」  けれどその言葉だけは、水音にさらわれ、玻璃の耳には届かなかった。 ***  店を閉め、入口の鍵を回したあと、葵と玻璃はテラスを抜ける。  山の夕風がふたりの頬を撫でる。昼の暖かさ が消えはじめ、どこか冬の気配を含んだ冷たさが混ざっていた。  「はぁ……ちょっと寒くなってきたね」 葵が肩をすくめながら言う。  「はい……。でも、冬ってもっと寒いんですよね……? 僕の身体……耐えられるかな……」  玻璃は腕を抱きしめるようにしながら、真剣に不安を口にする。  その反応に、葵は思わず小さく目を瞬かせた。 玻璃が“冬”を知らないのは、彼が試験管の中で 生まれ、目を開いた時にはすでに今の姿だった から――そう思うと、胸の奥にふわりと不思議な 感覚が生まれた。 けれど、すぐに優しい笑みが浮かんだ。 「そんなふうに思うの、普通だよ。だからね―― 冬はあったかいお洋服を着るの」  「ぁ……そ、そうでした……」  「うん♪ マフラーとかね。ふんわりしてて、 巻くと気持ちいいんだよ」  そんな他愛もない会話を交わしながら、ふたりは階段を下りていった。  山の斜面は夕暮れに沈みかけ、落ちていく陽が稜線を金色に沿って縁どっている。  駐車場に停められた葵のシルビアS15は、その光を受けて、まるで火照ったように赤く輝いて いた。  「……やっぱり綺麗ですね、この子……」  思わず漏れた玻璃の言葉は、感嘆という より“うっとり”に近かった。 葵はその声にくすっと笑う。  「ふふ♪ ちゃんと週に一回は洗ってるからねぇ。」  夕方の光のせいか、真紅の車体が朝よりも艶めいて見える。  朝にも一度助手席に乗ったはずなのに、玻璃はなぜかまた緊張していた。  ドアに手をかける動作は、まるで壊れものでも扱うように慎重で――助手席に腰を下ろしたあとも、背筋がぴんと伸びてしまう。  「そんなに固くならなくて大丈夫だよ?」  そう言われて、ようやくシートに深く体を 預ける。  柔らかいクッションが身体を受け止める感触は同じなのに、夕方の空気のせいかどこか違って 感じられた。  エンジンをかけると、S15特有の低い鼓動が 車内に広がって、その音が今はやけに心地よく 響く。  「……はぁ、落ち着く音……。なんか……眠くなりそうです。」  思わずこぼれた玻璃の呟きに、葵は運転席で 小さく笑った。  「ふふ……変なの♪ でも、疲れてるんだったら帰りは寝ててもいいからね」  その声音は、冬の前触れの冷えた空気の中で どうしてこんなにもあたたかいんだろうと思えるほど優しい。  玻璃は急に胸の奥がくすぐったくなって、 慌てて首を振った。  「ぃ、いえ……そんな……。送ってもらえるのに……寝るなんて……」  自分でも理由がよく分からないまま、 “この人の声をもっと聞いていたい”という気持ちが、ぽつりと胸の底に芽生えてしまっていることに気づく。  頬が熱くなり、玻璃はそっと視線を窓の外へ 逃した。  夕暮れの色がぼんやり揺れて、その揺らぎは、葵に対して感じている小さな憧れのようにも 思えた。 ***  静まりはじめた山道を、ヘッドライトが細く 切り裂く。  完全な夜にはまだ届かない。  けれど夕闇はもう濃く、空の端にはかすかに 群青色が残るだけだった。  曲がりくねった下り坂の先では、ガードレールの外に広がる森が黒い塊のように沈んでいる。  冷えた風が窓の外をかすめ、枝葉がさわりと 揺れる音が微かに聞こえた。  山の下の街では、店の明かりがぽつり、ぽつりと灯りはじめていて、その橙色が闇の底で小さく瞬いていた。  玻璃は、ふっと視線を落としてつぶやいた。  「……なんか、寂しいですね。」 葵はハンドルから視線を外し、横顔をちらりと向ける。  「え?」  「玲真のいないアパートに帰るの……。一人になるの、久しぶりで。静かすぎて、落ち着かないというか……」  言いながら、胸の奥がきゅっとする。  あの無機質な“檻”の静けさを、どうしても 思い出しそうになる。  一人きりの夜は、本当は少し怖い。  葵はそんな玻璃の気配にすぐ気づいたようで、運転しながら柔らかく微笑んだ。  「そっか……うん、その気持ち、わかるよ。」  その声には、ただの共感だけじゃなく、葵自身も“寂しさ”という感情を知っている人間なのだと伝わる温度があった。  数秒、静かに車の音だけが続き―― ふと葵が明るい声で続ける。  「ねえ、玻璃くん。」  「はい?」  「今夜、うちに来る?」  玻璃は目を瞬かせる。  「え……僕が、葵さんのところに?」  「うん。ほら、うちも今日は誰もいないし…… 僕も、ちょっと寂しいからさ。」  その言葉に胸の奥に小さな灯りが灯ったようで、玻璃は俯き、そっと確認するように問う。  「……本当に、いいんですか? お言葉に甘えても。」  「もちろん。帰りにコンビニ寄って、お菓子でも買ってさ。一緒に映画見ながら食べよう。 僕らふたりで頑張ったんだから、ご褒美だよ♪」  “映画”という単語に、玻璃は息をのむ。  映画――  それは、人と人が同じ方向を向いて “感情を共有する時間”。  憧れはあるのに、ずっと手の届かなかった もの。 「……映画、見たことないです。」 「え、そうなの?」  葵が驚いたように目を丸くする。 「はい。もちろん、知識としてならありますけど……娯楽として観るのは、初めてです。」  一瞬驚いたあと、葵は優しく笑った。  「じゃあ、決まりだね。玻璃くんの“初映画”、僕と一緒にだ♪」  その瞬間、胸の真ん中がふわっと熱を帯びた。  助手席の窓に映る自分の頬が赤いのを見て、 玻璃は慌てて顔をそらした。  「……嬉しいです。」  「ふふっ、僕も。一人で見るより、友達と観たほうが絶対楽しいもん♪」  「……とも、だち……?」  思わず繰り返した声に、葵がはっとして手を 振った。  「ご、ごめん! 勝手にそう呼んじゃって…… 話してると楽しくて、つい……」  玻璃は勢いよく首を横に振る。  「ちが……! ち、違います……! う、嬉しいんです……! 僕が、葵さんの…… お友達なんて……!」  それを聞いて、葵の笑みがふんわり広がった。  「良かった。ふふっ♪ じゃあ……友達として改めてよろしくね、玻璃くん。」  その言葉が胸の奥にそっと染みこんでいく。 “友達”――その響きが、玻璃には眩しいくらい だった。  やがて、コンビニの明かりが前方に浮かびあがる。  「何食べたい?」と葵がウインカーを出しながら尋ねる。  玻璃は少し悩んでから、小さな声で答えた。  「……ドーナツ……と、身体に悪いものが、いいです。そっちの方が、美味しいって聞いたので……」  葵は目を瞬かせて、すぐ楽しげに笑った。  「ふふ、やっぱり僕の友達だ♪」  シルビアが駐車場に滑り込み、ブレーキと共に静けさが戻る。  蛍光灯の白い光がフロントガラスを照らし、 ふたりの表情を柔らかく浮かび上がらせる。  葵がドアに手をかけながら言った。  「今日はね、映画とお菓子の夜会。玻璃くんの言ったので、観る映画もう決めちゃった♪」  玻璃は胸が弾むのを抑えきれず、嬉しそうに 笑った。 「……はい♪ すごく楽しみです!」  外では風が通り、木々の枝が揺れる音がかすかに聞こえる。  けれどその冷たささえ、どこか優しく感じられた。

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