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第百六十七話
夜空を滑る戦術輸送機の貨物室は、照明を落とされ、低い振動が床から脛を伝ってくる。
天井の赤いランプが静かに点滅し、金属の壁に揺らいだ影を縫い付けていた。
愁は膝をつき、玲真の胸元のバックルを静かに締め直した。
軽量装甲服はほとんど音がしない特殊素材で
作られているが、愁の指が触れるたび、玲真の
体温だけははっきりと伝わってくる。
「……きつくない?」
玲真は小さく首を振った。
「大丈夫……」
ぎこちない仕草の裏に、拒絶の影はまったくない。
「でも、この服……コードだのセンサーだの、手順が多すぎる」
愁はくすりと笑う。
「高性能ってやつだよ。慣れれば着るのも早くなる。身体にも馴染むように作られてるしね」
愁がそう言うと、玲真は視線を伏せる。
ほんの一瞬、彼のまつ毛が震え、照明に赤い影を落とした。
「そうだ、これも」
愁は、京之介の言葉を思い出しながら背後の
ケースを開けた。
そこには、影を孕んだ鈍銀のマスクが静かに
横たわっていて、どこか鷹を象ったその防弾面は、光を飲み込みながら沈黙している。
「被っといて。外じゃ外さないでよ」
玲真は手に取り、指先で金属のラインをゆっくりなぞった。
「……声が、変わるって言ってたな」
「あぁ、ちょっと変わる。標的に遭遇しても、玲真の正体に気づかれないように――京之介さん
に言われたろ」
玲真はしばらく黙ったままマスクを見つめ、
やがてふっと笑ったように息を漏らした。
「……しょうがないか。それに、これ結構
格好良い。」
「それには同意見。どことなくファルコナーっぽいし……」
「ファルコナーって?」
尋ねてくる玲真に、愁は小さく笑って答えた。
「映画に出てくるキャラクターだよ。」
「映画……ね。観たことないから分かんないな。面白いのか?」
「あぁ、面白いよ。」
愁が即答すると、玲真はふっと笑って、
「じゃあさ、今度見せてくれよ。映画って……“美味いお菓子とコーラ”ってやつがセットなんだろ?」
と、期待を隠しきれない声で言った。
「そういうことは知ってるんだな……ふふ♪ いいよ。ポップコーンとコーラは用意しておく」
そう言う愁の横顔に、玲真は「やった」と
小さく息を弾ませた。
「ほら。そろそろ被せるから、じっとして」
愁が声を落として言い、手にしたマスクの固定具を指先で確かめ、そっと玲真の頭へと添えた。
冷たい金属が触れた瞬間、玲真の肩がわずかに跳ねる。愁は「大丈夫」と囁くように言い、
位置を微調整しながら押し当てた。
鈍く低い音を立てて、金属が密着する。
次の拍、マスクは吸い付くように玲真の顔へ
吸い付くように装着された。
『……凄いな。重さがわからない』
「ちょっと動かないで。チューブが接続しに
くい」
愁は玲真の左腕――ガントレットに取り付けられた細いチューブをつまみ、マスク側のコネクターに差し込む。
カチ、と繊細な接続音。
直後、玲真の視界に淡い光が走り、透明な
データの層がいくつも重なって流れ込む。
愁を見るだけで心拍・体温・筋肉の緊張度。
貨物室の壁へ視線を移せば、材質から破壊強度まですべて解析される。
『……これは……』
「視界は細かく調整できる。熱源追跡もズームも使える。……ほら、少し目を細めてみて」
玲真がまぶたを半分閉じる。
途端に視界が滑らかに寄り、愁の顔が近づき、
その深い赤い瞳が画面いっぱいに広がった。
『……あぁ……』
「通信機能も付いてるし、GPSも搭載。かなり優秀だよ、これ」
暗銀色のマスクは無表情。だがその奥から
向けられる玲真の視線は、真っ直ぐ愁に向かっていた。
『……便利な首紐、って感じだな』
「かもね。けど、俺や凛のにも付いてる。
……それがあれば、お前が突っ走っても――
拾え……」
愁は言いかけて、堪えていたものが弾けた。
「ぷっ……あはは……っ! だめだ……玲真、声……お前、女の子になってる……っ!」
『はっ!?』
玲真は慌てて自分の声を確認し――
『あ、い、う……ああっ!? なんだ
これ!?』
あまりに可愛らしい声音に、マスクの奥の顔が真っ赤になるのが、愁には手に取るようにわかった。
『ッ……なんとかならないのか、これ!?』
「はいはい……ふふ……♪」
愁は玲真のガントレットの側面に指を滑らせ、
装甲の隙間にある小型インターフェースを呼び
出した。
浮かび上がったタッチパネルを迷いなく操作し、音声フィルタのトーンを次々と切り替えて
いく。
「ふふ……♪ これが低いのの最大……これで
いいんじゃないかな……あはは……♪」
『笑うな!』
「ごめんごめん……っ、はは……」
『……あー……これなら、まだマシだ』
「お詫びに、はい。これあげる」
愁は銀色の棒状携行食を三本、軽い調子で差し出す。
『なんだそれ?』
「これは携行食。不味いけど、これは一番
マシなチョコ味。」
『……?』
「一本で五千キロカロリー。三本あれば、万一のことがあっても、お前なら大丈夫だろ?」
『ふーん……まぁ、確かに……』
受け取ろうとした玲真の指先が、装甲服の上からでもわかるほどわずかに止まる。
『……前の時、これがあったらお前に勝ってたかもな。』
「ふふ……どうかな……?」
愁はわずかに口元を緩め、静かに続ける。
「それはまた今度……確認してみようか。」
玲真はマスクの奥で笑ったのが、声色で分かる。
『……それも楽しみだ♪』
携行食を受け取り、ぎゅっと握る。その仕草に、わずかながら“人間的な温度”が滲む。
『……愁。』
「ん?」
『これ、このままじゃ食えないんだけど。』
言いながら、玲真はカン、カン、とマスクを
指で叩いた。
「ああ……それは」
愁がガントレットのインナーパネルに指を滑らせる。
即座にマスクが応答し――
シャコン……と低い機械音とともに、全面下部の五分の二が左右へスライド。
まるで雀蜂の大顎が開くように、内部へ収納されていく。
「これで食べれるよ。」
開いた部分を感じさせるように、愁が玲真の頬のあたりを指で軽くぷに、と触れる。
『ッ……』
その優しさに触れた一瞬、玲真は思わず見様見真似でガントレットを操作し――
カシュッ、とマスクを戻した。
「……どうした?」
『なんでもない。ただ、ちょっと……』
言いかけたところへ、愁のイヤホンと玲真の
マスクのスピーカーに京之介の声が割り込む。
《おふたりはん、あと十分で降下予定ポイントやけど、準備はええかいな?》
「完了してます。」
『……こっちも問題ない。』
二人がそれぞれ返事を終えると、玲真はマスクの奥で小さく息を吐き、愁の方へそっと顔を
向けた。
『……この、人垂らし……』
マスクの内側で頬を赤く染め、小さく呟く。
もちろん、その声は愁には届かない。
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