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第百六十九話
パラシュートハーネスを締め直しながら、凛は無骨な金属扉を開けた。
貨物室には低い機体振動と金属の匂いが満ち、後部ハッチは今にも開く準備を整えたまま重々
しく鎮座している。分厚い装甲の向こうから、
気圧差で空気が“吸い寄せられるように”微かに
流れ込み、冷たい風が足元を撫でていく。
「愁ちゃん、いい?」
凛はマスクをつけた“新人”――玲真の姿を確認し、その後ろから雪緒と咲楽も続いて中へ入ってくる。
「うん、いつでも。」
愁も、すでに準備を整えていた。
改造を施された特殊軽量装甲服の肩に彫られた狼の刻印が、点滅する赤照明に合わせて生き物のように陰影を変えていく。
両脇と腰のホルスターにはグロックG19が
四丁、手には凛と揃いのTAR-21。そして背に
帯びているのは、漆黒の鞘に収まった一本の刀。
その立ち姿ひとつで、場の空気が引き締まり――
雪緒は、愁の背の黒鞘に気づいた瞬間、息を
呑んだ。尊敬してやまない愁が、また刀を帯びて
いる。
(……愁さんが……刀……しかも俺と、お揃い……!)
「愁さんっ! ぁ……そ、その刀……?」
あからさまな嬉しさに、愁は一瞬きょとんとして、困ったように口元をゆるめた。
「これは……ザ・クリーナーからの“贈り物”
だよ。」
任務参加が決まった夜、ザ・クリーナーこと
熟山 古和美から
《星薙の感想を必ず報告すること!》
と強制力しか感じないメッセージが届いたのだ。
使うかも分からないのに、愁には持って行かないという選択肢は最初からなかった。
「……凄い……あのザ・クリーナーから……」
そんな裏事情を知らない雪緒は、胸の奥がぱんっと弾けるように高鳴る。
「……俺に“これ”をくれてから、愁さんが刀を
使わなくなったから……その、俺のせいなの
かなって、すこし思ってて……」
言いながら、手にした自分の鞘をぎゅっと握る。その視線はまっすぐ愁に向けられて、期待と嬉しさが混じった子犬みたいな笑み。
「でも……また刀を帯びてくれて……俺、すごく
嬉しいです!」
「そ、そう……?」
愁は自然と後ろへ重心が引ける。
押されてる。完全に押されてる。
けれど嫌ではなくて、少しだけ照れくさい。
「……雪緒がそう言ってくれるなら、よかった……のかもね」
その横で、咲楽が面白くなさそうに小さく唇を尖らせる。
「ふん……」
(……口を開けば……愁さんのことばっかり……)
愁を尊敬しているのは自分も同じだ。
なのに雪緒が、愁のことで心をいっぱいにしているのが……なんだか、つまらない。
その正体がヤキモチだなんて、本人はまだ
認めていない。
気づけば、咲楽は雪緒の背に声をかけていた。
「ねぇ、雪緒くん!」
呼ばれた雪緒は振り返り、少し困ったように
眉を上げる。
「なんだよ、咲楽。今……」
だが、その視線は途中で止まった。
咲楽も同じ方向へ顔を向け――ふたりの視線が、ふと同じ“場所”でぴたりと重なる。
鷹を思わせる意匠のマスク。
凛や愁と同じTAR-21。
特殊軽量装甲服に身を包んだ“新人”。
その視線に気付いた愁がふたりの前に歩み出て、短く紹介しようとした。
「あぁ、この子は新人の――」
「……女の子、ですか?」
咲楽が言いながら目を瞬かせる。
雪緒も珍しげに見つめた。戦闘特化体に女性はほとんどいないからだ。
“新人”は少し戸惑いながらも、ぎこちない仕草で会釈する。
「そう、彼女は……れ――」
言いかけて愁は一瞬だけ迷い――玲真の名を
飲み込み、別の名をそっと与える声で言った。
「彼女は……玲夢だよ。ね?」
『……玲夢、です。今日は任務に同行す……させてもらいます。』
玲真は内心ため息を飲み込みつつ、
マスク越しに前髪を払うように指先を添え――
ほんの少し女の子らしい角度でお辞儀をした。
雪緒は柔らかく微笑む。
「うん、よろしくお願いします。緊張しなくて
大丈夫だよ」
咲楽も負けじと笑みを浮かべた。
「よろしくね、玲夢ちゃん♪」
その調子の違いに、“玲夢”はまた少しだけ肩をすくめる。
後ろでは凛が肩を震わせ
(……玲夢ちゃん、可愛いじゃん……♪)
喉の奥で笑いを飲み込みながら、面白がるように目を細めていた。
***
赤ランプがふっと消灯し、隣の緑ランプが点滅へと切り替わった瞬間、
後部ハッチが低い唸りをあげながらゆっくりと開き始めた。
冷たい夜風が貨物室になだれ込み、金属の匂いと共に空気が一気に張り詰めた。
機体の中にいた全員の呼吸が、わずかに止まる。
――降下開始。
緊張が跳ね上がる中、最初に前へと踏み出したのは雪緒だった。
迷いのない足取りで愁の前に立ち、深く、静かに息を吸い込む。
「……愁さん。」
「うん?」
「少し離れ離れになりますけど、今日は――
あなたの動きを見て、ちゃんと学びます。俺は――」
その言葉の続きを、咲楽が遠慮なく遮った。
「はいはい! 行くよ!!」
返事も待たず雪緒の手首を掴んで、そのまま
勢いよくハッチの外へ飛び出した。
「えっ――!?」
雪緒の驚きの声は、荒々しい風にちぎられ夜の闇へ消えていく。
残された愁は、わずかに肩を落としながら苦笑した。
緊張と混ざる、ほんの少しの安心感――いつもの二人は、どこでもブレない。
***
「……あ、そうだ!」
雪緒と咲楽が夜の闇へ吸い込まれていった
直後、飛び出す寸前だった凛が、何かを思い出したようにハッと振り返ると、そのまま勢いよく
愁の胸元へ飛び込んできた。
コツ、と装甲同士の当たる小さな音がする。
「凛……?」
抱きついたまま凛は軽く背伸びし、愁の唇に
自分の唇を重ねる。
「んー♡」
ちゅ、と甘い音。
唇を離した凛は、愁をじっと見上げて小声で
尋ねた。
「ね……玲真に、変なことされてない……?」
さっきまで“先輩らしさ”を装っていた表情が、
愁の前ではすっかりいつもの無邪気で嫉妬深い
恋人の顔に戻っている。
愁は小さく笑って、凛の頬に触れた。
「されてないよ。大丈夫。それより……
雪緒と咲楽を頼んだよ?」
耳元で優しく囁くと、凛は嬉しそうにふわりと笑い
「もちろん! 任せて……でも、その前に――」
再びキスしようと身を寄せた、その瞬間――
「んふふっ……ほんま可愛いなぁ、凛ちゃん♪」
気配もなく背後に現れた京之介が、楽しげに
笑いながら凛の腰を掴む。
次の瞬間、抵抗する隙も与えず、そのまま夜空へ押し出した。
「えっ、ちょ、京兄ちゃ――!!」
凛の叫びは、開いたハッチから吹き込む風に
あっという間にさらわれていった。
***
貨物室に残ったのは、愁と玲真、そして京之介だけだった。
風の唸りが響き、開け放たれたハッチの向こうには夜空が広がっている。
玲真はちらりと愁と京之介の方へ視線を向け
『……じゃ、俺も行く』
そう言って短く息を吐き――
そして飛び降りる直前、ふと愁の方へ視線だけを寄せて――
『あんまり待たせるなよ?』
軽く、でも何か気遣うような調子で言い残し、
玲真は迷いなく闇へと身を投げた。
その姿はすぐに風にさらわれ、夜空へと消えていく。
***
後部ハッチの前に残されたのは、愁と京之介だけ。
夜風が唸りを上げ、足元から黒い空が吸い込むように広がっている。
沈黙を破ったのは、京之介のほうだった。
愁が玲真の後を追うように一歩踏み出そうとした瞬間、京之介はその横顔を掴まれてしまった
みたいに見つめ――
胸の奥に押し込んでいた不安が堪えきれず、そっと距離を詰めた。
細くしなやかな指が愁の顎へ触れ、ほんの少しだけ上向かせる。
「……愁」
その名を呼んだ声は、嫉妬を必死に隠そうと
する震えを含んでいた。
そして次の瞬間――
京之介は熱に浮かされたように愁を抱きしめ、深く、深く口づけた。
求める気持ちがそのまま形になったような、
必死で、甘く、息が溶け合うキス。
名残惜しそうに唇を離した京之介は、掠れた声で囁く。
「……玲真には、なんも……されてへんよね……?」
本当は“凛よりも”気にしていた。
ほんの指先でも玲真に触れられていたら――
そう思うだけで胸がきつくなるほどに。
言い終える前に、愁の手が京之介の頬に触れた。
「ふたりとも、もう少し俺を信頼してくれて
いいんじゃないですか……?」
柔らかい声だった。
叱るというより、安心させるための響き。
そして愁のほうから身体を寄せ、京之介の息を奪うほど濃密なキスを落とした。
それはさっき京之介が与えた熱よりも深く、
甘く、京之介の不安を根っこから熔かしていく
ような口づけだった。
唇が離れたとき――
京之介はハッと息を呑み、指揮官としての自覚をようやく掴み直した。
頬はまだ赤く、呼吸もわずかに震えている。
それでも無理に平静を装いながら、愁へ向き
直る。
「……そ、それと。この任務、不明瞭な点が多いさかい……気ぃつけて。定時報告、忘れんといてや……。なんかあったら――うち、すぐ駆けつけるさかい」
声には、さっきまで愁に触れられていた熱の
余韻がどうしても滲んでいて、抑えきれない
震えが語尾に残った。
愁はそんな京之介に優しく笑う。
「……心配ありがとうございます。
頑張ってきますね。」
その一言を残し、愁はハッチの縁に軽く足を
かけ、夜空へ跳躍した。
漆黒の闇に吸い込まれるように、その背は
小さくなっていく。
京之介は、その場にぺたんと膝をつき、遠ざかる愁の影を見つめた。
「……あぁもう……抱きしめに飛び降りたいぃ……」
胸の奥が軋むほど愁を求めたが、どうにか任務の重大さが激情を押しとどめた。
ただ、震える指先だけが愁の余熱を忘れられ
ずにいる。
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