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第百七十話

 夜風を切り裂きながら落下する中、愁は胸元の暗視ゴーグルを片手で引き上げ、街並みを覗き 込んだ。  どこを見回しても赤外と熱源を重ねた視界に 映るのは――ただの“沈黙”だった。  建物の内部、窓の隙間、裏路地の奥底まで、 熱反応はひとつもない。  明かりも暖房の残り香すらなく、人間が生活 していた気配だけが、まるごと剥ぎ取られたように消えていた。  「……衛星のとも、ドローンからのとも 全然違う……」  呟く声は風にさらわれ、夜空へ消えた。  瓦屋根をブーツの裏がかすめ、愁はわずかな 衝撃だけでしなやかに着地した。  先に降下していた玲真が、パラシュートを外しながら顎をしゃくる。  『……人間の気配がない』  視線の先、石畳には乾いた血の筋。  歩幅から考えて、逃げ惑った群衆のものだと 分かる。  だが――血痕だけだ。  死体がない。肉片すらない。  愁はイヤホンに指を滑らせ  「アルファ。」  と一言だけ呟き、低く息を吐いた。  「……何があったと思う?」  『持ってかれたんだろうな……。』  しゃがんで下の道路の血痕を指先でなぞるように眺めながら、玲真が低く言った。  『“あいつ”なら、やりそうだ。』  淡々としているのに、声の底には怒りが熱の ように潜んでいて、その奥にほんの僅かな諦めが滲む。  愁は夜風に髪を揺らしながら立ち上がり、瓦の縁へと視線を向けた。  「行こうか。」  玲真も血痕から目を切り、すっと立ち上がる。  『あぁ、けどエッフェル塔で待ち合わせなんて……派手だな』  「俺に言われても困る。京之介さんの趣味と いうか……」  愁が苦笑すると、玲真は鼻を鳴らし下の道路に放置された車やバイクへ目をやる。  『足でも拾うか?』  愁は即座に首を横に振った。  「いや……この静けさだ。あまり目立ちたくない。」  玲真も周囲を素早く見渡し、短く息を吐く。  『……だな。』  ふたりの視線が、一瞬だけ夜の街の中心に 向かって重なる。  次の瞬間――瓦屋根が砕ける強烈な蹴り出しで、ふたりは同時に跳んだ。 ***  栗色の屋根から屋根へ、影が駆け抜ける。  石造りの家々を飛び越え、バルコニーをかすめ、瓦を砕かぬよう正確な着地で進んでいく。  古い街区の上、ただ夜風だけが彼らの速度に 追いつけず、後ろへ千切れていく。  屋根から屋根へ、フランスの古い街区を駆け抜ける。    明かりの一切ない街。  灯りを失った通りには、渋滞したまま動かない車。倒れたままの自転車。  人が確かにいた証拠だけが、呼吸を止めたように残っている。    瓦屋根を駆け抜けていた愁のイヤホンに、雑音を噛んだ凛の声が割り込んできた。  『愁ちゃ……こっち、人の……反応、ない……だ、け……』  この通信が乱れるなんて異常だ――愁は眉を わずかに寄せ、短く「了解」とだけ返した。  屋根の縁で速度を落とし、しゃがみ込む。 玲真もすぐ隣に膝を折る。  夜風が、ふたりの間を抜けていく。  ゴーグル越しの視界には、やはり熱源がひとつもない。  フランスの古い街並みが、まるで息を止めた ように沈黙している。  『どうした?』  玲真が横目で問う。  愁は視線を前に向けたまま、ぽつりと呟いた。  「……玲真の言ってた“ノイン”って奴が人攫い なんだとしたら……攫われた人達は、どう なる?」  少し遅れて、愁の問いの重さを噛みしめたように玲真が目を閉じる。  開いた時、その声は淡々としていた。  『復讐だよ。俺達がされてきた事を…… そのまま返す。  あいつらにとって、人間は全員“痛みを与えてきた側”だから』  遠く、教会の鐘が風にゆられて小さく鳴った。  玲真はその音にかき消されるような声で 続ける。  『もし俺が……お前や、結生婆ちゃんや、店長さんに出会ってなかったら……  人間の優しさなんて知らなかったら……きっと俺も、同じことをしてた』  変声されているのに、いつもの玲真よりずっと弱く聞こえる。  過去に置き去りにしてきた自分へ触れるような声音だった。  愁は片手を瓦屋根の縁に置き、夜風に揺れる髪を押さえながら静かに言った。  「そうならなくて……本当に良かったよ」  玲真の目が、マスクの奥でわずかに見開かれる。  愁は淡々と言葉を続けた。  「“もしも”の話をしても、意味ないだろ?  だって今、玲真は俺の隣にいるんだから」  空気が一瞬張りつめたように止まる。  玲真は俯いたまま、小さく息を呑み――マスクの下で、ほんの少しだけ笑った。  『……愁。お前、こういう時ほんとずるい』  「何が?」  『そういうとこ。……お前に恋人が三人もいて、なんで上手くまとまってるのか、理由が分かった気がする』  愁は首を傾げ、真剣に考え込む。  「……もう少し、分かりやすく言ってくれると……」  玲真は小さく、そして甘く呟いた。  『……うるさい』  (なんでこいつ……俺より長く生きて“愛”とか 知ってる癖に……こういうのにだけ疎いんだ……)  マスクの中で自分だけに聞こえる声を漏らす 玲真を横目に、愁はひとつ息をつき立ち上がる。  「考えてても……しょうがないか。行こう、 玲真」  『っ……ああ!』  玲真も慌てて立ち上がり、ふたりは夜風を切り裂くように、再び瓦屋根の上を駆け出した。 ***  屋根から屋根へ跳び移った愁は、暗視ゴーグルを外し、夜気そのものを刃のような感覚で読み 取る。  誰にも消されず、ただ燃え尽きて終わった火事の痕跡だけが、瓦や壁に黒く貼りついて残って いる。 ――そのはずだった。  愁が目を向けた先。 真っ黒に焦げた跡の“ちょうど中心”で、ひとつだけ、風の影響をまったく受けない“揺らぎ” が あった。 焦げ跡でも煙でもない。 生き物の体温もない。 温度もなく、脈動も感じられない。 だが―― そいつは愁の跳躍のリズムに合わせるように、 わずかに頭を“向けた”。  意思が感じられない。  気配も感じられない。  そこに“心”の影すらない。  なのに、狙われている。 (……この気配は知っている種類にない……)    愁は反射的に腕を広げ、後ろの玲真を制する。 声は出さない。ただ、呼吸の深さだけで警戒を 示す。  玲真は跳躍の途中で脚をひねって着地し、視線を同じ方向へ向ける。  マスクの前面が薄く光を帯び、内部で多層レンズがカチリと位置を変える。  望遠。熱源検索。輪郭補正。  映像が数段階重ねられ、ひとつの“像”が浮かび上がる。  『……“あいつ”のやりそうな事だ。』  愁が低く、短く言う。  「……玲真。構えろ。」  「ああ。」  ふたりは同時に姿勢を低くしTAR-21を肩に 当てる。呼吸が自然と静まり、全身の筋肉が戦闘モードへ沈んでいく。   次の瞬間――  その“揺らぎ”が、人間には不可能な角度で折れ曲がり迫ってくる。   ***  凛達が降下したのは、愁たちのいる地点から 数十キロ離れたフランスの街区だった。  着地の衝撃が消えるのと同時に、凛は パラシュートを切り離し、首元のゴーグルを 下ろす。  湿気のない、ひどく乾いた空気。  街全体が“誰かに置き去りにされた”ような 沈黙。  凛は眉をひそめつつ、まず戦術輸送機へ短く 送る。  「……アルファー。」  この一言だけで京之介には降下完了と任務に 移行した事が伝わる。けれど通信は、少しだけ 雑音が乗っていた。  近くの建物から、淡い足音がひとつ。  「や、雪緒」  「……凛先輩!」  雪緒が追いつき、咲楽の方を親指で示す。  そこでは咲楽が、倒れかけたバルコニーの 手すりに片足を乗せ、立ったまま長距離狙撃銃であるTAC-50を構えていた。  微動だにしない。背筋は一本の刃のように 伸び、揺れはゼロ。戦闘特化体としての “完全な静止”。 イヤホンにその咲楽の声が入るが―― こちらにも微かな雑音が混じっていた。  『視界……クリア。 三キロ圏内……熱源なし。……静かすぎ……ます』  「行ってみよっか……雪緒」  凛は屋根に跳び上がる。  「はい!」  雪緒が続き、瓦が一瞬だけ低く音を鳴らす。  ふたりは、まるで獣のような速度で街を駆け 抜ける。  屋根から屋根へ、斜面から煙突へ。  夜の空気が裂け、瓦が風圧で震えるほどの スピード。  走りながら、凛は愁たちへの状況報告を送るが ――返ってくるのはほぼ雑音。かろうじて聞き取れたのは「……了解」だけ。  通信は繋がっているはずなのに、まるで “街そのもの”が妨害しているようで孤立している感覚が背筋を冷やした。  その時、視界の端に奇妙なものが映る。  建物の入口。  車道のど真ん中。  倒れたスクーターの横。  どこもかしこも、血痕だけが乾いて残り、 肝心の“人間”がどこにもいない。  少なくとも数週間は経っているはずの跡。  だが量がおかしい。  街全体を歩き回った人間が、 そのまま“抜け落ちた”ように感じる。  凛は走りながら、横目で雪緒を見る。  雪緒は呼吸こそ一定だが、 肩、指先――握る拳に薄い震えが残っていた。  (……まぁ、そうなるよねー……)  雪緒はまだ実戦十数回。  凛や愁の“桁違いの場数”に比べれば、まだ新人と言っていい。  それでも速度は落ちない。  咲楽の狙撃可能範囲ギリギリへ向けて疾走し、 影を切り裂くような跳躍の合間、凛はふいに振り返って口を開いた。  「ねぇ、雪緒。……咲楽のこと、好きなの?」  「――ッは!? わ、うわっ……!!?」  雪緒の足がもつれ、屋根の縁で危うく滑りかける。  辛うじて体勢を立て直しながらも、視線だけが落ちた。  「な、なんで……今、そんな……」 「なんとなく? いつも一緒だし、距離感も近いし? ねぇ、どうなの♪」  凛は余裕たっぷりに跳ね、雪緒の横顔を覗き込みながら笑う。  雪緒は観念したように、短く息を吐いた。    「……一緒にいるのは……普通なんです。 ずっと、そうだったから」  言葉は控えめ。  けれど迷いのない静かな響き。 「……離れると、胸がざわついて。居ないと…… 落ち着かないっていうか。  もしそれが“好き”って感情なら……きっと、 そうなんじゃないかと……」  雪緒は少しだけ照れたように笑った。  「……咲楽がいないと……俺、多分、ダメなんです」  「はい、恋確定〜♪」  凛は屋根の縁で軽やかに前転し、くるりと着地して笑う。  「えへへー♪ 早く気持ち伝えないと、雪緒 可愛いから、誰かに取られちゃうよー♪」  「そ、そんなこ……!! ……って、  この会話っ!?」    雪緒が慌てて声を上げる。  可愛いので、凛はさらににんまり笑った。  もちろんこの会話は――  全部、咲楽のイヤホンに届いていた。  バルコニーの手すりに立ったまま狙撃姿勢を 保つ咲楽は、スコープを覗いたまま表情を 崩すまいとするが……  頬がほんのり赤い。  (……任務中になんてこと言うんですか……凛さん!!)  ツンとした心の声とは裏腹に、耳の奥が熱い。  どうしても嬉しくて、胸の鼓動が少し速く なる。 凛の言葉が、繰り返し頭に残る。 ――“……咲楽がいないと……俺、多分、ダメなん です” (……雪緒くんも、そういう言葉は……直接、言えばいいのに……ばか……)  照れを押し込めるように、咲楽はスコープへ 集中し直す。  その瞬間だった。  視界の奥――“揺れてはいけない影”が、僅かに動いた。  咲楽の赤い瞳が一瞬で戦闘の光に変わる。 「……動体反応。三時方向、建物の影。  凛さん、雪緒くん――警戒を。何かいる」  凛と雪緒の足が同時に止まり、夜気が張りつめる。  無人の街に、ようやく―― 生者ではない“気配”が生まれた。

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