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第百七十三話

 戦術輸送機の搭乗員室。  金属を震わせる重低音のエンジンが、静寂の幕を揺らしている。  京之介は深く座席へ身を沈め脚を組み、赤い縁 の眼鏡をくいと指で押し上げた。  レンズの内側の、空間投影された立体映像には 十機の蝙蝠型三次元デバイスが映る。  真夜中の翼。  そのボディは実物の蝙蝠より一回り大きく、 艶やかな黒の外殻が光を吸い込み、薄膜の翼は 金属繊維で編まれ、静寂を切り裂いて舞う。  瞳に当たるセンサーは深紅に明滅し―― 主の脳波を拾って動く忠実な眷属。  数日前、ネット越しの遠隔操作で飛ばした只の偵察ドローンは、市民の活気と観光客の笑い声と平穏そのものの街並みしか映さなかった。  だが今――  ネットを介さず京之介が直接指揮する“眷属”が 見せる現実は、まるで別世界。  視線が僅かに揺れると、まばたき一つで映像は次へ切り替わる。  彼らが映しているのは―― つい一時間前まで、灯りも人影もなく、死んだ ように沈黙していたパリの街路。  その静寂を破り、闇の底から溢れ返る“異形”が 街路という街路を埋め尽くす悪夢の光景。  愁と玲真、そして凛・咲楽・雪緒の周囲では その“人間もどき”が次々と切り裂かれ、撃ち抜かれ、砕け散り、瓦礫と血の濁流が流れ続ける。  (さすがはうちの愁……それに凛ちゃんも、 よう頑張ってる……それにしても)  そして―― 凱旋門が崩れ落ちる瞬間まで克明に記録されていた。 「んふふ……ほんま、暴れはったねぇ……♡」  赤い瞳が愉悦で細められる。  他国に降下した他の部隊も、同様の“人間もどき”に襲われている。戦闘は激しく、多少の犠牲はあれど各隊は優位を維持している。  そしてつい先程、一機のデバイスが “流入地点”を特定した。  ――第一目標は達成済み。    (せやけど……)  組織が誇る鉄壁のネットワークは、 今や跡形もなく侵食されている。  常識ではあり得ない規模のハッキングが、 まるで指先一つの戯れのように完遂されて いた。  ――ノイン。  製造された“怪物”が、ただ微笑むだけで世界の防壁が砂の城のように崩れ去るなど、本来あってはならないことのはずなのに。  京之介は眼鏡を外し、目頭をきゅっとつまんでから天井へ視線を向けた。  その唇には艶めいた弧が浮かぶ。    「んふふ……♪」  (考えても……しゃあないか……♪)  疑惑よりも先に湧き上がるのは、胸の底を焼き尽くす欲求だった。  他部隊の隊長たちは優秀だ。  今この瞬間、京之介が指揮を執る必要はない。  愁たちがなお戦い続けるパリの一帯には、異常なまでの密度で“人間もどき”が滞留していた。  三次元デバイスが拾い上げた膨大な熱量―― 数千万の脈動のうち、その半数以上が あの場所へ吸い寄せられている。  地を這い、壁を這い、波のように重なり、 今も息を潜める街を喰らわんと蠢き続けている。  「あぁ……」  未知の敵、まだ味わったことのない斬り心地。  元人間だろうと関係ない。ただの獲物――。  戦いたい。  斬り裂いて、新しい血の温度を確かめたい。  その衝動と同じ強さで――  いや、それ以上に激しく疼く想いがある。  ――愁に会いたい。  さっき交わした情熱的な口づけが、まだ唇に 残っている。  愁の体温も、吐息も、まるでそこにいるかの ようだ。  (……ほんま……うちの愁は……。 出際に、あないな“きっす”するさかい……♡)  ――愁に会って、さっきよりも熱くて蕩かされるような口づけがしたい。  その妄想だけで、喉の奥が震える。  愁への抑えきれない欲求と、敵を斬り刻みたい本能的衝動。  相反するふたつが胸の中で絡みあい、京之介の身体を、静かに座席から押し上げた。  腰には愛用の小太刀を添えるように差し込む。  深紅のロングコートをハンガーから指先で つまみ上げる仕草は、 いつも通りの余裕を 纏っているはずなのに――布地が肩へ滑り落ちる その一瞬だけ、抑えきれぬ焦りが微かに滲む。  けれど、優雅さだけは一寸たりとも乱れない。  (……うちが行ったら、愁……嬉しゅうて泣き よるかもしれへんねぇ……♡)  くすりと笑い、眼鏡をかけ直す。  十機の蝙蝠型デバイスが、指示を待つように 戦術輸送機の周囲へ集い、静かに羽ばたいた。  「ま、楽しみは楽しみとして――」  後部ハッチがゆっくりと開き、夜風が吹き 込む。  「だぁい好きな“きっす”、おかわりしに 行こか……♡」  赤い瞳が、愉悦と恋情で艶やかに光る。  紅の男が一歩踏み出すと、 黒い翼たちが随伴し、夜空へ散った。

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