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第百七十四話

 凛は風そのものになった。  空気を裂き、石畳を蹴り砕く勢いで先頭を 駆ける。  雪緒と咲楽は、その背に必死で喰らいつくように走る。  エッフェル塔――愁と玲真との合流地点まで、 あとわずか。  だが背後で、悪夢の軍勢が蠢き、世界を覆う 影となって迫る。 ――カチカチカチカチカチカチカチカチカチ……!  追ってくる中、特に速い老人型。  本来なら朽ち果てる肉体を無理矢理反り返らせられ、役立たずと見なされた手足を千切り捨てられ、代わりに蜘蛛のような鉄製の機械義肢を無理矢理接続されたものたち。  逆さのままブリッジ姿勢で蜘蛛のように四足 走行する“異形”。  逆さまになった皺だらけの顔面は白濁した目から額にドス黒い粘液を垂れ流し、顎を上に向けて笑い続ける。  老人の骨格は悲鳴を上げ軋み。肉と金属の接合部を限界まで擦れさせ、石畳を、壁を、這うようにして狂った速さで走る。  裂けた歯茎から意味を成さない声を漏らしながら。  ――ぞろぞろではない。  ――殺到だ。  数千。数万。数百万。  老人だけが群れているわけではない。  その背後から、四肢を引きずり、骨を軋ませ、継ぎ接ぎの顔面から喉を裂くような呻きが迸る。  押し寄せる様は、濁流では生ぬるい。  街区ごと呑み込む肉塊の津波。  ヴェルサイユ宮殿に奴らを誘き寄せ、 ありったけのレーザートラップで切断し、爆薬で豪奢な城を丸ごと吹き飛ばした。  だが――焼け焦げた肉と骨が雨のように降っただけ。  効果は、絶望するほどに軽微。  凛のTAR-21は弾倉も銃身も限界まで酷使し 空になった。  咲楽のTAC-50も最後の一発まで撃ち切った。  大口径弾で頭蓋を砕き、内臓を撒き散らしても――奴らはなお迫る。  撃っても――終わらない。  斬っても――隙間が詰められる。  千切っても――後ろが押し寄せる。  凛の赤い瞳が、背後の“異形”を射抜くように細くなる。 「咲楽っ――“後ろ撃ち”!」  その呼気と同時に、咲楽の首がわずかに動く。  後方の影を一瞬だけ捉えるが―― 体は振り返らない。走る速度も落とさない。  代わりに、両脇のショルダーホルスターへ指が滑り込み、グロック42を二挺を抜き放つ。  「……了解」  次の拍で、咲楽の腕だけがしなるように後ろへ伸び――  パンッ、パンッ、パンッッ!! 銃声ごとに、追いすがる“元人間”の頭蓋が正確に炸裂する。  無駄弾ゼロ。照準逸脱ゼロ。  弾丸はすべて先頭個体の眉間へ吸い込まれ、 崩れ落ちた死骸につまづいた後続が、瓦のように折り重なる。 「……雪緒、続いて!」 凛の指示が飛ぶ。  倒れた屍の帯を見た雪緒の瞳が、闘志で紅く 灼ける。 「任せてくださいっ!」  雪緒はホルスターへ指をかけ―― G19を二丁、逆手に抜き放つつフルオートへ 切り替え。  同時に、振り返りながら跳ぶ。  その動きはまるで空気を蹴ったかのように 軽い。  「当たれぇぇッ!」  叫びと共に―― 両腕が十字を描き、弾丸の嵐が解き放たれる。  精密さでは咲楽に及ばない。  だが――火力は圧倒的。  火花の帷が、敵の列を寸断する。  老人型の前列は胸も顔も粉砕され、後列の怪物たちが破片を浴びて転がり倒れていく。  咲楽の精密射撃。  雪緒の制圧射撃。  ふたりの弾幕が、完璧に重なって後方を封じた。  凛は、咲楽と雪緒が切り拓くわずかな隙間を逃さない。  「――しっ!!」  踵が地を払った瞬間、《レベナント》から銀線が一斉に走る。  狙いはすべて、“異形”たちの顔面。  串刺しにし、絡め取り、数をまとめて引き倒し、“自分好み”な陣形に変えていく。  腰から小型アタッチメントを抜き取り、両手首の射出口へ装着。  二本の金属杭がY字を描くように突き出すその 左の杭を――  キィィン――ッ! 芝生へ撃ち込む。  深々と喰い込んだ二本の杭の間を、複数の伸縮ワイヤーが蜘蛛の巣のように走る。 「……いっくよぉッ!!」  凛は張りきったワイヤーに右足裏を押しつけ、 最大限にまで伸び切った瞬間――  弾け飛ぶ。  低空。障害物ゼロ。  本来なら、ワイヤー機動が成立しない開けた 地形。  しかし、この狼の印が刻まれたアタッチメントは――  凛の技術は――  その制限すら笑って踏み越える。  地面すれすれを、弾丸より速く滑る。  常人なら、否、通常の戦闘特化体でも恐れる 低空機動。しかし凛は、それすら愉しんで いるかのようだった。  「速っ……!?」  雪緒が思わず声を漏らす。  “異形”の中心点へ着地とほぼ同時に、右の杭を 踵のすぐ横へ撃ち込み――  左のワイヤーを水平に射出。  細い――けれど鋭利すぎる一閃は巨躯の胸を 貫き、返しが骨に食い込む。  凛はそのワイヤー尻尾を掴んだまま、張った 伸縮ワイヤーを足裏で再び踏み込み――  ――跳ぶ。  巨躯を軸に、ほぼ完全な円を一瞬で描く。  高速回転。目では追えない。  水平線上にいた異形たちは皆、その銀線が自分達を通過したことすら理解できず――  スパァァァッ…… とても静かな音を立てて、腰の高さで上半身と 下半身が別々の方向へ滑り落ちていく。  凛の靴底が着地する頃。  血飛沫が、まだ空中に浮いていた。  咲楽は撃ち続けながら叫ぶ。  「凛さん――正面! また増えてます!」  「大丈夫ッ!! ――逆にッ!!!」  凛は叫び返すと円の中心でワイヤーを突き刺され回転されたことにより、上半身を無くしたまま突っ立っている下半身に全力疾走。  次の瞬間、その赤黒く蠢く断面を“踏み台”に して天高く跳んだ。  空中。  上空の風が凛の猫っ毛を揺らし、赤い瞳が爛々と輝く。  「――そこぉぉっ!!」  空中から、左右へ二本のワイヤーが閃光のように奔る。  ワイヤーはそれぞれ逆さまに歪んだ皺だらけの老人型の――苛つく“逆さ笑顔”を易々と貫いた。  着地と同時。  両腕を大きく広げ―― 凛は全周回転を始める。  地面に吸い込まれるほどの加速。  即興の“高速リングカッター”が完成した。  猛烈な風圧が凛を中心に円を描き、その円の 範囲に踏み込んだ“人間もどき”は頭・腕・膨れた腹を触れたそばから輪切りにされていく。  滑る肉片。  ワイヤーの先端では逆さまの老人型が宙で笑ったまま、その鋭い義肢で仲間を弾け飛ばす。  四足の義肢がカチカチカチと虚空を掻きながら 仲間の胴体を抉り、切断していく。  地面を四つん這いする“赤ん坊爆弾”は風圧の 衝撃に、ぶよぶよした身体を赤く発光させ突然 膨らむ。 ボンッ! ボボンッ!! ボンッ!! ボボボッッ!!   その爆炎が凛の回転円に派手な花火のように 咲き乱れ、飛び散る血と薬品の臭いが渦に巻き込まれる。  「凛さん……すご……っ」  咲楽は弾倉交換すら忘れ、声を漏らす。  敵が多ければ多いほど、凛の回転は止まらない。止まらない。  雪緒と咲楽の周囲の密度は確実に薄れていく。  止まるとしたら―― 先端の老人型の身体がぐちゃぐちゃに潰され、 重りがなくなった時か――あるいは。  「く、っ……!!」  戦闘特化体でもそうそう耐えられない回転に 身体が悲鳴を上げ、視界がぐらりと歪んだ 瞬間だけ。  「う、ぇぇ……っ」  凛がワイヤーをぱっと放すと、その場でふら ふら地面に跪いた。  「凛さん!?」  「大丈夫ですかッ!?」  雪緒と咲楽は即座に駆け寄り両脇を固め、周囲に銃口を向ける。  凛は頭をくたくた揺らしながら、上目遣いで ふたりへ苦笑した。  「は、はは……やっぱ……あんましないほうが、いいよ、これ……楽しいけど、目が回るー……」    「十秒……十秒だけ待って…… そしたらまた、ザクザクいけるから……」  その様子に雪緒と咲楽は、地獄のど真ん中で、ほんの一瞬だけ頬を緩めさせられた。    ***  雪緒と咲楽は善戦していた。だが――弾は 有限。  雪緒は最後の予備弾倉まで撃ち尽くし、ため息ひとつ分の迷いもなくグロックをホルスターへ 納める。  代わりに鞘を蹴り飛ばす勢いで刀を引き抜き、そのまま迫り来る“人間もどき”の海へと―― 真正面から飛び込んだ。  一方、咲楽は両手のG42へ、最後の弾倉を叩き込む。  細く震える呼吸を静かに整え、狙うはただ―― 頭蓋のみ。  「……はぁっ」  引き金を絞るたび、頭部が砕け、骨片と黒い体液が飛ぶ。    その横で―― 凛は、ぶんぶん回った頭を振り、一拍で戦場へ 復帰した。  赤い瞳が再び、獣の光を取り戻す。  ワイヤーが閃き、空気を断ち、巨躯の四肢が弾け飛ぶ。  塔のように高い女型は両脚ともに切断され、歪に膨れた腹部を庇うように倒れ――  仲間ごと爆散し、柱のように噴き上がる爆炎が夜を裂いた。   しかし。  「……ちぃぃっ!!」  《レベナント》の残弾数表示が《0》。  左右どちらも、完全なる弾切れ。  途端、背面がざわりと歪む。   カチ、カチ、カチカチカチ――。  老人型の義肢が、金属を嘲るように打ち鳴らす音。  皺だらけの顔が何十、何百と折り重なり、逆さまに吊られた顔面だけがこちらを睨みつける毒蛇となって、空を裂き、凛へと襲いかかった。  落下中の凛に回避の余地など無い。  重力という鎖が、いまだけ彼を“人間”に縛りつけていた。  刹那――  「凛さんっ!!」  ぱん、ぱん、ぱん、ぱん――!!  咲楽が迷わず自分の正面を捨て、凛のために 弾丸を放つ。  狙撃は寸分の狂いもなく、積み重なる蛇の根元を撃ち抜く。逆さの顔が一つずつ等間隔に弾け 飛び、毒蛇の体が崩落を始めた。  けれど――そこで二丁のスライドが後退した まま、動かなくなる。  ――カチャ。   ――カチャ。  咲楽の弾丸は、尽きた。  「咲楽ッッ!!」  凛が重力に引きずり落とされるように転がり着地し、叫ぶ。  だが――遅い。  咲楽の真正面。皺だらけの皮膚。しぼんだ 眼球。垂れ落ちた顎。  死に損なった人間の悪夢だけを継ぎ接いだ群れが、地を這い、空を塞ぎ、前後左右 すべての死角を埋めた。  さらに崩れ落ちる毒蛇の残骸も義肢をガチカチと鳴らしながら、咲楽の頭上から殺到してくる。  「咲楽ッ!!」  雪緒が跳び込もうとする。  だが老人型の鋼爪の壁が、ギリギリと歯を鳴らし進路を封鎖する。  咲楽の逃げ場は――どこにも無い。  「……雪緒くん……」  咲楽が、儚い祈りのようにその名を呼び――  瞼を閉じた、一秒。  世界は、赤く……爆ぜた。

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