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第百七十九話

 パリ・オルリー空港。  かつて人の波で満ちていたターミナルは、 一か月以上、誰にも使われていない。  滑走路に灯るはずの誘導灯はすべて沈黙し、 ガラス張りの建屋は、曇った鏡のように空を映している。  死骸は、ない。  だが―― 何も起きなかったわけではないことを示す痕跡が、確かに、そこかしこに残されていた。  壁面に穿たれた無数の弾痕。  粉砕された自動ドアの残骸。  床にこびりつき、誰にも洗い落とされなかった血の染み。  地元警官と軍隊が、ここで“止めようとした”―― その事実だけが、静かに語られている。  ターミナル内部は、異様なほど静かだった。  空調は止まり、掲示板には、永遠に更新されることのない出発案内が、なおも点灯したまま。  出発も、到着も、もう存在しない。  空港正面――スッド通り。  そこにも、動かなくなって久しい車列が 連なっていた。  ハンドルを切ったままのセダン。  ドアを半開きにしたままのバン。  フロントガラスに薄く砂埃を被った車体 ばかり。  時間だけが、すべてに等しく降り積もって いる。  ――その中で。  一台だけ、明らかに異質な存在があった。  オレンジ色の、プジョー・トラベラー L3。  他の車と同じように停まっている。  だが、近づけばすぐに分かる。  エンジンフードの奥に、まだ消えきらない―― 微かな熱。  車内には、誰もいない。  それでもこの車体には、死んだ街の中に かろうじて残された、生の痕跡があった。 ***  空港の滑走路は、異様なほど静まり返って いた。  離陸も着陸も失われて久しい黒いアスファルトの上に、朝の光だけが淡々と降り注いでいる。  その中央に、愁と玲真は立っている。  玲真は、“星薙”によって皮膚が剥がれた両手をだらりと下げていた。  ガーゼは必要以上に重ねられ、テープでぐるぐると雑に巻き留められている。  止血と保護――それだけを目的にした、慣れて いない手つきの応急処置だ。  鷹を模したマスクの奥から、玲真は痛みを無視するように、なお周囲へ警戒の網を張っている。  愁もまた、同じようにテープでぐるぐる巻きの 腕を下ろしたまま、視線だけで滑走路の端から 端までをなぞっていた。  「……結局、玲真の仲間は現れなかったね」  低く抑えた愁の声に、玲真はマスク越しに重い息を返す。  『……恐らくここじゃない。 だが、気配はあった。そう遠くない場所に いる……。』  「悪趣味な人体改造して、覗き見って 結構……」  『最悪だろ? 正直、そんな“奴”が次に何を しでかすかも分からない……けど――』  言葉が途切れる。  玲真は一度、愁の方を見てから、迷うように 視線を逸らした。  「……けど?」  促され、ほんの一瞬の逡巡のあと――  玲真は、ぽつりと零す。  『……お前――お前達となら、なんとかなりそうな気は、する……』  短い沈黙。  やがて愁は、肩をすくめて苦笑した。  「ふふ……♪ 俺がさ、ずっと玲真の横に居ると思ってる?」  『なっ!? 今回だけのつもりか!?』  「……いや、居るけど? 俺、監視役だから ね♪ ……嬉しい?」 その瞬間。  マスクの奥で、玲真の頬が――はっきりと、 赤くなる。  『ッ……お前……絶対、今まで友達いなかった だろ……』  語尾が勢いを失い、尻すぼみになる。  それを聞いた愁は、片手の甲で頬を押さえながら、くすくすと笑った。 一方、雪緒は違った。  あれほど長く、濃密な戦闘は――彼にとって、 初めての経験だった。  移動中の車内でわずかな休息は取れた。  けれど、足元はまだ覚束ない。    それでも、雪緒は愁へと歩み寄る。  「……愁さん」  名を呼びながら、一歩。  さらに、もう一歩。  迷いなく距離を詰めてくる雪緒に、愁は小さく首を傾げた。  「……どうしたの? どこか怪我してる?」  問われて、雪緒はふるふると首を振る。  そして、キッ!と強い眼差しで愁を見上げた。  「さっきの……! あんなの、やらないで ください」  声音は強い。  だが、その奥に震えが混じっていることを、 愁は見逃さなかった。  「……死んでたかもしれないんですよ……?  俺……もし……もし愁さんに何かあったら……」  気づけば、装甲服同士がコツ……と触れた。  そんな距離だ。  「雪緒――」  愁は苦笑し、なだめるように肩へ手を伸ばす。  だが、剥がれた掌がガーゼの下で疼き、反射的に手の甲で押さえる形になる。  「ごめんね。心配、かけちゃって」  それでも、雪緒は止まらない。  少し荒い呼吸が、触れ合いそうなほど 近づいて――  「……愁さん……」  見上げる瞳は、今にも泣き出しそうで。  「……ちーかいッ!」  鋭い声が、二人の間を断ち切った。  咲楽だった。  同じだけ疲れているはずなのに、雪緒の肩を掴み、ぐいっと引き離す。  「ちょっと距離感! それとね、愁さんだけ じゃないですから!」  勢いよく振り向き、今度は玲真を指差す。  「玲夢ちゃんもだよ! 心配したんだから!」  玲真は一瞬きょとんとし、それから慌てて 背筋を正した。  『……申し訳ありません。配慮が足りませんでした』  変声機越しの丁寧で柔らかな声は、どこか ぎこちないが、誠実だった。  「仲間なんだから! 危ないことする時は、  ちゃんと皆に――九条さんにも、状況報告して 承諾得てから!」  『……はい。以後、気をつけます』  その素直な返答に、咲楽は少し拍子抜けした ように瞬きをする。  玲真自身もまた、玻璃以外から“心配される”という感覚に、ほんのわずか不思議な温度を覚えていた。  ――そこへ。  「ごめんねっ!! 話の途中!」  どの旅客機とも繋がっていない搭乗橋―― 空洞のトンネルを、影が一瞬で駆け抜けた。  次の瞬間、その影は滑走路へ落ちる。  凛だった。  靴音はほとんど聞こえない。  跳ねるように着地し、そのままたたっと―― いや、流れるように滑走路を駆ける。  一直線に、愁へ。  「ちょっと休んでて! 三人とも!」  言葉と同時に距離が消えた。  迷いなく伸びた手が、愁の腕を掴む。  「……凛?」  「愁ちゃん、借りてくね!」  返事を待たず、くいっと軽く担ぎ上げる。  「ッ……!?」  次の瞬間には、もう背中しか見えなかった。  凛はそのまま方向転換し、跳ねるような足取りで建物へ――  あっという間に、搭乗橋の影へと消えて いった。  ぽかん、と。  滑走路に、三人だけが取り残される。  遠ざかる足音が完全に消えてから、玲真が 小さく息を吐いた。  『……なんだったんでしょうね、今の』  マスク越しの声は、どこか本気で困惑して いる。  「さぁ……?」  雪緒も同じように首を傾げる。  その横で、咲楽はなぜか視線を逸らしたまま、頬だけがほんのり赤い。  「……?」  不思議そうにしつつ、雪緒はふと玲真の方を 見た。  「そういえば、玲夢さん」  呼びかける声には、もう震えはない。  先ほどまで泣き出しそうだった面影は消え、 今度は抑えきれない高揚が滲んでいた。  「凄かったです。ほんとに……新人とは思え ない動きでした」  一歩、身を乗り出す。  「愁さんと、同じくらい」  『えっ……い、いえ……』  即座に返した声は控えめだったが、 その奥で、玲真の胸は確実に浮き立っていた。  (……同じくらい、か……まぁ、そのうち超えてやるけど……悪くない……)  そんな玲真の様子を、横目で見ていた咲楽が、思い出したように口を開く。  「……うん。僕も、そう思う」  少し間を置いてから、玲真を正面から見る。  「それに……まだ言ってなかった」  小さく息を吸い、  「庭園で助けてくれて、ありがとう。玲夢ちゃん」  「あ……俺からも」  雪緒も慌てて続き、深くはないが、真っ直ぐに頭を下げた。  「本当に……助かりました。本当は、俺が助けなきゃいけないのに、間に合わなくて……」  『……っ』  玲真は一瞬、言葉を失う。  テープでぐるぐる巻きにされた両手を胸元で、困ったように揺らしながら、  『いえ……私は……当然のことをしただけです から』  そう答えた声は、どこかぎこちない。  玲真は、マスクの奥で小さく息を整える。  感謝されることに、まだ慣れていない。  まして、こんなふうに真正面から向けられる のは――  胸の奥が、くすぐったく、ほんの少しだけ 居心地が悪くて、それでも――悪くない。  だが。  「でも、あれだけ強かったら、組織内で噂くらい聞くはずなのに……」  雪緒が、ふとそんなことを口にした。  『え!?』  「それに……女性だったら、なおさら……」  顎に手を当て、考え込むような仕草。  話題が、じわりと――いってはいけない方向へ 転がり始める。  (まずい)  愁も凛も、京之介もいない、この状況で。  『あー……えっと……』  玲真は、咄嗟に両手を胸元に寄せ、少し大げさなくらい可愛らしく首を振る。  どうにか誤魔化そうとする、その動きが逆に 目立ってしまった。  「そもそも、クリーナーが使うマスクを、なんで玲夢さんが?」  『うぇ!?』  思わず変な声が漏れる。  話題は自然と、鷹を模したマスクへと流れ―― そこに、咲楽も首を傾げて加わった。  「そうだよね。それに玲夢ちゃん、いつの間にか輸送機に乗ってたし……不思議」  『えー……そ、そうでしたっけ……』  直感が、はっきりと警鐘を鳴らす。  (――まずい)  『あ、あー……その……お腹、空いたので』  唐突にそう言い放ち、くるりと踵を返す。  『私も、少し空港内を散策してきますね!!』  「あっ……」  雪緒が声を上げた時にはもう遅い。  玲真は逃げるような早足で、その場を後にしていた。  残された雪緒と咲楽は、しばらくぽかんと その背中を見送り――  「……面白い人だな、玲夢さん」  「ふふ……♪ 本当、シャイな子なんだね」  さっきまでの激しい戦闘が嘘みたいに、ふたり同時に肩の力が抜ける。  「はぁ……けど、やりきったな……」  雪緒はそのまま、どさっと尻から滑走路に座り込み、勢いのまま仰向けに倒れた。  「うん……ほんと……こんなの、初めてだよ……」  咲楽も隣にぺたんと腰を下ろし、汗で頬に張りついた黒髪を指で押し上げながら――  自然な流れで、雪緒の腕を枕にする。  「っ……!?」  横を見ると、すぐそこに、あまりにも無防備な咲楽の顔。  汗ばんだ頬、細い睫毛に縁取られた赤い瞳が、近すぎる距離でまっすぐ雪緒を映している。  「……でも、雪緒くん」  戦場では決して見せない、柔らかくて、どこか甘い表情――思わず息を止めてしまうほどの。  「約束、忘れないでよ?」  雪緒は慌てて視線を逸らし、頬をぽりぽり と掻く。  「わ、わかってるよ……訓練だろ……」  「ちょっと!」  「……その後の、ケーキも」  ぼそりと付け足したその言葉に、咲楽の口元がふわりと緩む。  「へへ……うん♪」  血まみれの戦いを切り抜けたふたりに、ほんの少しだけ春みたいな空気が混じった。

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