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第百八十話

   照明は落ちたままなのに、空間は不思議と 暗くない。  朝の光が、ガラス越しに差し込んでいる。  ここは、オルリー空港の展望ラウンジ。  光は床に細長く伸び、止まった椅子の影と、 誰も座らないテーブルの脚を静かになぞって いく。  風の音も、機械音もない。  聞こえるのは、遠くで軋む建物の微かな音、 それにふたりの会話だけ。  「ねぇ……凛、そろそろ降ろしてくれても……」  「んー……もうちょっと」  凛は愁を担いだまま、外から見えない場所を 求めて奥へ進む。  誰にも見つからなくて、それでいて、滑走路だけはよく見える場所。  「ここなら♪」  ――誰にも邪魔されない。  そう言わんばかりに、凛は愁をソファに そっと下ろした。  「……凛?」  凛は、立ったままだ。  腕を組み、じっと愁を見下ろしている。  「……また、危ないことして」  低く抑えた声音。  責める鋭さよりも、押し殺した不安の方が 濃い。  「さっきさ……もしボクも、咲楽も、雪緒も、京兄ちゃんも戻れなかったら――」  一拍、息を呑む。  「……愁ちゃんも、玲真も、死んでたかもしれないんだから」  愁はその言葉を正面から受け止めて、ほんの 少しだけ目を細めた。  そして――いつものように、場を和らげる笑いを浮かべる。  「助かったよ。でも――」  テープとガーゼで雑に巻かれた両手を、ひらりと持ち上げてみせる。 「ちゃんと、逃げる準備もしてた♪」  軽い調子。  いつもと変わらない、穏やかな笑顔。  ――けれど。  その笑顔は、凛や咲楽、雪緒、京之介を守るためなら、自分の命など迷いなく後回しにしてしまう愁の性分を、意図的に隠すためのものだった。  本当は、あの瞬間。  “星薙”が暴れ出した時点で、引き返せる余地などほとんどなかったことも、玲真を巻き込んだ 以上、賭けに近い判断だったことも――  愁自身が、誰より分かっている。  それでも。  それを口にすれば、凛はきっと泣く。  京之介は笑いながらも、きっと二度と同じことを許さない。    だから愁は、いつも通りを装う。  優しさゆえに、危うさを誤魔化す。  ――それが、自分に出来る唯一のやり方だと信じているから。  「……どーだか」  凛は疑わしそうに眉をひそめる。  けれど、その視線は離れない。  「あはは……♪ ほら」  愁は笑顔のまま、軽く顎を上げる。  「おいで」  その一言に、凛は小さく息を吐いて一歩 近づき――そのまま、素直に愁の膝の上に跨る。  「……もー……」  ぼそりと零しながらも、拒む気はない。  「ボク……頑張ったんだからね! 愁ちゃんの代わりに、だからその分――」  言葉を遮るように、愁の視線が凛を真っ直ぐ 捉える。  正面から見つめられて、凛はそれ以上続けられなくなった。  「凛が、どれだけ頑張ってくれたのか…… ちゃんと知ってるよ」  「ぁ……」  腰を抱き寄せられ、凛の身体がぴくりと 反応する。  「俺の代わりに、雪緒と咲楽に指示を 出して……」  惚れ惚れするほど柔らかな声。  それだけで、凛の頬に熱が集まっていく。  「その指示が的確だったから、ふたりとも 頑張れたんだ」  その言葉に、凛の唇がかすかに震えた。  「……うん……」  正面から、愁を見つめる。  「一生懸命、頑張ったよ」  その瞳に宿るのは強がりでも誇張でもなく、 ただ愁に……恋人に褒めてほしいという、素直な気持ちだけ。  「ん……わかってる」  愁は、やさしく囁いて、迷わず手を伸ばす。  ガーゼ越しの指で、凛の頭を包み込むように 撫でる。  「……もっと……」  凛の小さな声に応えるように、もう一度、 ゆっくり。  「本当によくやったね……」  凛の肩から、すっと力が抜けた。  額を愁の胸に預け、甘えるように身をすり 寄せる。  「……もっと……して……」  小さな声。  愁は微笑み、さらに優しく頭を撫でる。  ガーゼとテープに覆われた指先が触れるたび、かすかな布擦れの音がした。  「……ね、愁ちゃん……」  凛は顔を上げ、愁の手をそっと見つめた。  「うん?」  「……それ、痛くない?」  一瞬だけ目を伏せてから、愁は凛を見る。  「平気だよ。それに――」  やわらかく、迷いのない声。  「凛の傍にいたら、痛みなんかどこかに消え ちゃった」  その言葉に、凛の赤い瞳がかすかに揺れた。  「……ほんと?」  「うん……」  そこにあるのは、取り繕った笑顔でも、痛みを隠すための強がりでもない。  本当にそう思っている時だけに見せる、 愁のまなざし。  それを理解した瞬間、言葉は自然と途切れ、 ふたりはただ見つめ合う。  朝の光がガラス越しに頬をなぞり、世界は音もなく、ゆっくりと遠のいていった。  「……じゃあ……」  凛はそっと、愁の装甲服に指を掛けた。  「もっと……傍に、いてあげないとね……」  そう囁いて凛の方から、さらに身を寄せる。  触れる前に、ほんの一瞬、ためらうように息が重なり――  やさしく、唇が重なった。  急がない。確かめるように、そっと、何度も。  凛は愁の唇を包むみたいに、甘く、丁寧に 口づける。  触れるたび、想いが滲む。  「ん……」  額と額が寄り、呼吸が近くなる。  今度は愁のほうから、そっとキスを返した。  「ん……ふ……っ♡」  唇と唇がほどけて、また重なり、溶け合う。  先に、とろりと凛の胸の奥が溶けていきそうな キス。深く、けれどどこまでもやさしいキス。    欲しかったもの。戦いのあとに、凛が心から 望んでいた、ご褒美そのものだった。    「……可愛い……」  唇を離した愁の囁きが、凛の耳に落ちた瞬間。  その赤い瞳が、ゆっくりと、とろり緩む。  さっきまでの激しい戦闘なんて、もう遠い。  ただその一言だけで、胸の奥が強く跳ねて、 熱が一気に込み上げた。  「は……ぁ……♡ ずるい……」  かすれた声が零れる。唇は離れているのに、 距離はほとんど変わらない。  凛の呼吸はまだ乱れたまま、お腹の奥がじん、と疼いて、愁の胸元に置いた手を離せずにいる。  触れていないのに、触れているみたいで。  さっきよりも、ずっと近い。  言葉のない沈黙が、熱を帯びて流れていく。  「愁ちゃん……」  凛は、そっと名前を呼んでから、小さく 続けた。  「迎えが来るまで……あと二十分くらい、あるから――」  視線が絡み、空気が甘く張りつめる。  どちらからともなく、もう一度――と、身体が 引き寄せられかけた、その時。  ――すうっ。  誰かが息を吸ったわけでもないのに、ふたりの間を流れる空気が、わずかに冷えた。  けれど、その違和感に気づく余裕はなかった。  視界は近く、呼吸は絡まり、世界は互いの体温と鼓動だけで満ちていたから。  凛が、ふと背中に視線の重さを感じた時には―― もう、遅かった。  ソファの周囲。  少し離れた空間に、黒い影が静かに“在る”。  最初から、そこに配置されていたかのように、 十機の蝙蝠型三次元デバイスが、等間隔で浮かん でいた。  夢中になっている間に、いつの間にか――囲まれていた。  「……っ!」  声になる前に、二機が動く。  細く伸びた脚部アームが、愁と凛の間へ滑り込み、触れるか触れないかの距離で――  やさしく、けれど有無を言わせず、愁を引き 離した。  「な、ちょ……!」  凛が手を伸ばすより早く、さらに別の二機が 愁の身体を掴み上げる。  ふわり、と重力が切り替わる感覚。  「……はぁ……」  宙へ持ち上げられながら、愁は小さく息を 吐いた。驚きはない。むしろ、どこか諦めたような声音だ。  「もう少し、普通にすればいいのに……」  「愁ちゃ……ッ!」  名を呼んだ凛の声が、届く前に距離が開く。  反射的に駆け出そうとしたその前へ、壁のように残る八機が一斉に展開した。  進めない。  追えない。  目の前で、大切な存在が、淡々と連れ去られていく。  「……っ、くそ……!!」  悔しさが喉を焼いた。  凛は、空港内に響き渡るほどの声で叫ぶ。  「京兄ちゃぁぁぁん!!  これ反則でしょぉぉぉおお!!」  その叫びだけが、静まり返ったオルリー空港の高い天井に、いつまでも、いつまでも反響して いた ***  人の気配は、もうどこにもなかった。  案内板の淡い光だけが、かつては清掃員の手で磨き上げられていたはずの床に、無機質な線を 落としている。  だがその床には、乾ききった血の飛沫や、踏み荒らされた痕がまだ残っていて、光はそれらを 隠すことも、消すこともできずに照らしていた。  その奥で――  プレミアム・トラベラー・ラウンジだけが、 まるで理由を持つかのように、静かに 灯っている。  木目の床に溶ける柔らかな照明。  上質なソファは深い影を抱え込み、周囲には 薄く埃が積もっているのに、そこだけは丁寧に 手入れされ、その形を崩していない。  誰もいないはずの場所。  それでも、この空間だけは―― 最初から「迎える準備」が整えられていた。  通常のラウンジが、空港と共に完全に機能を休めているのに対し、ここだけは違う。  誰かの意思によって選ばれ、呼び起こされた――憩いのための場所。  その静けさの中へ、二機の蝙蝠型三次元デバイスが、愁を運び込んだ。  脚部アームに軽々と支えられ、宙を進む間、 愁は特に抵抗もしなかった。  「……もう、降ろしてくれても……自分の足で行きますよ、俺……?」  深紅に明滅するセンサーを見上げ、そう訴えてみても、返答はない。  ――まあ、こうなることは、だいたい想定の範囲内だった。  ……はず、だったのに。  「……え?」  空中で、不意に背中の感触が変わる。  軽量装甲服のバックルが、ひとつ、またひとつと外されていく。  「う……あ……ちょ、ちょっと……」  脚部アームの先端――鋭さを思わせるクローが、 信じられないほど繊細に動く。  布地を傷つけることもなく、身体に触れすぎることもなく、ただ“正確に”、装甲を解体して いく。  金属同士が触れ合うはずの工程なのに、音は ほとんど立たない。  あまりにも手慣れた動作だった。  ジッパーが静かに下ろされ、肩から、胸元から、装甲が剥がれていく感覚に、愁は思わず喉を鳴らした。  次の瞬間―― 血に濡れた軽量装甲服は、その役目を終え、空中へと放り出される。  残されたのは、身体の線に沿って張りつく、 薄手のシャツ一枚。  汗と熱を含んだそれは、まるで素肌の続きを なぞるようで、戦いの余韻と鼓動が、布越しに くっきりと浮かび上がっている。  ――とん。  着地した瞬間、背中にやさしい衝撃。  デバイスの脚部が、逃がさないと言わんばかりに、軽く後押しする。  その先に――京之介がいた。  そのまま、抱き留められる。 「んふふ……♪ おかえり、愁」  低く、楽しげな声。  腕に包み込まれた瞬間、張りつめていた身体から、すっと力が抜けた。  京之介の胸は、驚くほど安定していて、まるで最初から、ここに戻ることが決まっていたかの ようだった。  「……少し、強引すぎませんか……?」  愁がそう口にすると、京之介の、赤く吸い 込まれそうなほど美しい瞳が、すっと近づいて きた。  「だって……うちの方が、先に約束してたやんか……」  そう呟いて、柔らかそうな唇をわずかに 尖らせる。普段なら誰にも見せない拗ねた仕草。  そこには、緊張なんてない。  ついさっきまでの外の激戦など、最初から存在しなかったかのように京之介は、いつも通り だった。  ――いや。  愁の前でだけの、いつもの京之介。  「それに……車の中やと、ちゃんと聞けへんかったし」  声を落としながら、京之介の視線が愁の身体を確かめるようにゆっくりとなぞる。  「……あんたの身体、心配でな。……いける?」  腕が伸び、逃がさないように、けれど乱暴に ならないように、「心配」という意思だけを 込めて、静かに締まる。  「あの“刀”……」  わずかに眉をひそめる京之介。  「“あいつ”、明日にでも文句言うたるわ……」  ――ああ、いつものことだ。  愁は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく 息を吐いて、受け入れるように京之介の胸に身を預けた。  「……報告は俺がするので、言わなくていいですよ、それよりも」  見上げて、赤い瞳を細め。  「“あれ”が大量に出てきた時点で、撤退させてくださいよ」  責めるでもなく、ただ困ったように静かに 続ける。  「俺と凛は慣れてますけど……  付き合わされる三人が、可哀想です」  その言葉に、普段なら軽く笑って流すはずの 京之介が、珍しく言葉を失った。  「だって……」  一瞬、視線を逸らして。  「……そっちの方が楽し――……やのうて、あの子らの訓練も兼ねて――」  「はぁ……」  愁のため息が、それをやさしく遮る。  「死んだら、元も子もないですよ」  声は低く、落ち着いていて。  「凛も大変そうでしたし……玲真だって……」  そう言いながら、愁は京之介の背に腕を回し、ぎゅっと抱き返した。  「ん……ぁ……」  「……そういうのに付き合わせるのは、俺だけにしてください」  「……ん……」  京之介は、頷くしかなかった。  その無防備な反応が、あまりにも珍しくて。  愁は、ほんの少しだけ微笑む。  「俺だったら……どこまでも、付き合います から……」  「……愁……」  額が触れるほどの距離で囁かれた声は、もはや妖艶でも、余裕でもなかった。  ただ――  愛おしさに揺れているだけの声。  「……京之介さん……?」  その呼びかけに、京之介は言葉を探すことを やめる。  「っ……」  代わりに、そっと―― けれど逃がさぬように、愁を導いた。  自分の手で丁寧に整えたばかりの、大きな ソファー。  深く、柔らかく沈み込む座面に、愁の背が 預けられる。  拒む気配は、ない。  むしろ受け入れるように、愁は仰向けになり、静かに京之介を見上げた。  「……やっぱり、強引ですね……」  囁くような呟き。  それに応えるように、視界がふっと陰る。  京之介が跨り、眼鏡の奥で細めた瞳が、熱を 含んで揺れた。  「……だって、うちの愁やもん……ンッ……」  その言葉の途中で、唇が重なる。  ――躊躇は、なかった。  深く、確かめ合うようなキス。  離れないことを選ぶように、京之介は体重を 預け、愁の唇を塞ぐ。  「……ん……っ……ふ……」    愁は拒まず、そっと腕を伸ばした。  ガーゼとテープでぐるぐるに巻かれた手で、 コート越しに京之介の背を抱き寄せる。  なだめるように、落ち着かせるように―― ゆっくりと撫でる。  その指の動きに、京之介の呼吸が、ほんの わずかに乱れた。  唇が触れ合ったまま、離れない。  けれど、その隙間から、甘く湿った吐息と一緒に、かすかな声が零れる。  「……ちゅ……ん……は……ぁ……痛ない……?」  心配が滲む声音。  愁は、そのとろんとした赤い瞳を見つめ返して、小さく笑った。  「……平気ですよ……」  そう前置いてから、少しだけ視線を伏せる。  「それに……凛のキスのおかげで、少し楽になって――」  言い終わる前に、唇が塞がれた。  深く、強く。  さっきよりも、はっきりとした温度を伴って。  言葉はない。  けれど―― 「うちの方が癒せる!」とでも言うみたいに。  京之介は唇を離さないまま、愁の上で身を寄せ、少し拗ねたように息を含ませる。  そのまま、指先が肩にかかり、コートが脱ぎ捨てられた。  続いて、背広も。  布が滑り落ちる、かすかな音。  この静かなラウンジでは、その音すら妙に 生々しく響いて、京之介の小さな嫉妬と抑えきれない独占欲を、余計に際立たせる。  「……っ……」  名残を引きずるように、細い銀色の糸を残して、ようやく唇が離れた。  吐息が混じり合った距離のまま、京之介は指先で眼鏡をくい、と押し上げ。  「……なぁ……もっと、癒したろか……?」  見下ろす視線には、照れと期待がないまぜに なっていた。  隠そうとしても隠しきれない、素直すぎる熱。  その指先が、肌に張り付くシャツの上から、 そっと愁の胸をなぞる。  確かめるみたいに、ゆっくりと。  「……色んなとこ……♡」  囁きと同時に、手のひらは胸元から、引き締まった腹の上へと滑り落ちていく。  とろんと蕩けた、レンズ越しの赤い瞳。  間近で見つめられ、わずかに開いた唇から、 甘い吐息が零れた。  愁は、その視線と熱に当てられ、息を整える ことすら忘れ。頬が、じわりと熱を帯びた。  「……もう……だめですよ……」  言葉の途中で、呼吸が乱れる。  「キス、だけ……」  それでも、言い聞かせるように続けた。  「じゃなきゃ……止まれなくなっちゃい ます……」  その一言で、京之介の胸が大きく脈打つ。  「……っ♡」  濡れた唇が、思わず緩む。  頬が、はっきりと赤く染まった。  「ほ、ほんま……?」  愁がこくりと頷いた、その瞬間。  京之介は嬉しさを隠しきれないまま、さらに 距離を詰める。  「……だから、今は……ここまでで――」  言い終える前に、身体が密着した。  「そんなん……かなん……」  低く零れた声と同時に、唇が重なる。  止まってほしくなくて。確かめるように、 何度も、何度も。下唇を甘く啄みながら、京之介はゆっくりと、その上へ身を沈めていく。  「ちゅ……ん……させて……な……?」  唇が触れ合ったまま、首をわずかに傾げる。  妖艶で、どこか背徳的な姿。  けれど―― 眼鏡の奥に宿るのは、余裕なんかじゃない。  ただ、愁に触れたくて仕方がない、ひどく素直で、幼いほどの熱。  「……京之介さん……」  愁は、そっと両手でその頬を包む。  優しく、それでいて確かに制する仕草で。  「迎えの……時間もあるし……」  「……そんなん」  京之介は低く笑い、額を擦り寄せ。  「待たせといたらええやろ……」  「でも……」  その呟きを唇で塞ごうとした、その瞬間。  ――風を切る音。

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