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第百八十一話

 「だーめッ!!!」  鋭く、けれどどこか必死な声が落ちた瞬間、 甘く絡み合っていた空気が、ぱちん、と弾けた。  次の瞬間、息を切らした凛が、二人の間に 割って入る。  「……折角ええ雰囲気やったのに…… いけずぅ……」  不服そうに唇を尖らせる京之介に、  凛は荒い呼吸のまま、きっと睨み返した。  「……凛……っ」  愁が名を呼ぶより早く、凛はべったりと抱き 合っていた二人を、力任せに引き剥がす。  「どっちが……もぅッ! 京兄ちゃんの方が、 意地悪じゃないかっ!!」  振り切ってきた三次元デバイスの追撃。  その緊張と怒りが、言葉の端々に滲んでいた。  「デバイスまで使って! ボクが先に、 愁ちゃんとキスしてたのにッ!!」  「……っ」  京之介は一瞬、言葉を失う。  それから、ぷい、と顔を背けた。  「……だって……うちの方が、先に約束したん やもん……」  頬をわずかに膨らませたその声音は、年上とは思えないほど拗ねていて、ひどく幼い。  ぷんぷんと怒る凛。  拗ねて視線を逸らす京之介。  ソファーに残されたまま、その様子を見ていた愁は――堪えきれず、ふっと笑ってしまった。  ついさっきまで、瓦礫の粉塵と生臭い血の気の中で、押し寄せる狂気を斬り裂き、赤黒い血肉に塗れていたというのに。  それが嘘だったかのように、今ここにあるのは、あまりにも平和で、どこか可笑しい兄弟喧嘩だった。  ――けれど。  このままではいけない、と思い直し、愁は静かに立ち上がる。  二人の間に歩み寄り、穏やかに口を開いた。  「凛、そんなに怒って言ったら――」  言いかけた、その時。  「……なんで……」  凛が、ぷいっと愁から視線を逸らす。  「なんで京兄ちゃんの味方するんだよ……  ボクの方が、先に……」  語尾が、少しだけ揺れた。  怒りの奥に滲む、拗ねた寂しさ。  そんな表情を、凛にさせてしまったことが 胸に刺さる。  ――ああ、だめだ。  そう思った愁は、一歩踏み出し、何も言わずに、そっと凛を抱きしめた。  「ぁう……」  腕の中で、声を漏らした凛の身体が一瞬だけ 強張り、それから小さく息を吸う気配が伝わってくる。  けれど、怒りも、不満も、まだ全部は溶けていない。    「……凛」  その耳元に、柔らかな声を落とす。  「帰ったら……凛の好きなお菓子、いっぱい作ってあげるから……ね?」  「……っ……」  それだけで、凛の喉が小さく鳴った。  「……そ、そんなことで……」  まだ何か言おうとした、その耳元に――  さらに唇を近づけ。  「……ちゃんと……さっきのキスの続きも……するよ……?」  甘く、低く、囁きながら、指先が服の上から、ゆっくりと凛の下腹部を撫でる気配。  「……っ……!」  「凛が……落ち着くまで……ちゃんと……」  吐息を、わざと耳にあてる。  「……なだめてあげる」  その瞬間、凛の喉が別の意味で鳴る。  身体が、正直に震える。  「……ずる……い……」  声が、溶ける。  胸の奥がきゅっと締めつけられ、その感覚が ――腹の奥へ、ゆっくり落ちていく。  「……怒れ……なくなる……」  「ふふ……♪ 怒る必要なんて、ないよ」    瞳がとろんと潤み、さっきまでの怒りは、跡形もなくほどけていった。  「ん……♡ ちゃんと……ボクが満足する……まで だからね……」  小さく、確かめるような声。  その言葉に応えるように、愁はさらに声を落とした。  「……わかってるよ、ちゃんと……」  耳元で囁かれた、その低くて甘い声音に、凛の膝からふっと力が抜ける。  よろめいた身体を、愁は慌てることなく受け止め、そのままそっとソファへと導いた。  「ほら……ここ。座って」  背に回された手はあくまで優しく、なだめる みたいで。  ソファに腰を下ろした凛は、少し名残惜しそうに愁のシャツの端を指でつまむ。  「……待ってて」  そう囁かれて、凛は一瞬だけ、ほんの少しだけ、寂しそうに目を伏せた。  それを見逃すほど、愁は鈍くない。  「……そんな顔しないで」  次の瞬間、頬に、そして唇に――短く、けれど 甘さだけは残す口づけが落ちる。  それだけで十分だとでも言うように、凛の表情はとろりと緩んだ。  「……約束、だからね……♡」  満足そうにそう言われ、愁は小さく笑ってから身を起こす。  そして、視線を向けた先。 ***  ソファの反対側で、不機嫌を隠そうともせず、 背中を向けたまま座る京之介。  その背中に、愁は静かに歩み寄る。  やがて、組まれた脚の前にしゃがみ込み、 見上げるようにして――  低く、穏やかな声で名を呼んだ。  「京之介さん……」  「……ふん……」  京之介は腕を組んだまま、そっぽを向く。  「……ええんや……うちとの“きっす”邪魔されたって……愁は、怒りもしいひんのや……」  美しい顔が、わずかに険しくなる。  その横顔を見つめて、愁は一瞬、言葉に 詰まった。  唇がかすかに開き、閉じる。  赤い瞳が、ゆっくりと潤む。  責めるでもなく、縋るでもなく――  ただ、少しだけ寂しそうな、泣きそうにも見える表情で、京之介を見上げた。  「……」  それは、京之介が普段、ほとんど見たことのない顔だった。  ――心臓が、どくりと跳ねる。  思わず視線を逸らそうとして、出来なかった。  喉がひくりと鳴り、組んでいた腕に、無意識に力が入る。  (……あかん……そんなん、反則や……)  京之介は、はっきりと動揺していた。  「け……けど……」  声が、わずかに揺れる。  「……愁、いっこも怒らへんやんか……」  言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなっていく。  「……うちとの、“きっす”は……そないに…… 大事と、ちがうんやん……?」  強がるような言葉とは裏腹に、胸の奥が、 きゅっと締めつけられていた。  ――確かめたい。  否定してほしい。    「そんなこと、ありません……」  静かに、けれど確かに想いを含んだ声でそう 告げて、愁は京之介を、ぎゅっと抱きしめる。  「赤の他人に……同じことされたら、俺も…… 怒るでしょうけど……」  突然の温もりに、京之介の身体が、僅かに 揺れた。  「……凛だから。大切な凛だから……許せるん です」  耳元で、低く囁く。  「……京之介さんも……そうでしょう?」  「……っ……」  胸の奥が、どくりと鳴る。  「……う、うん……そら……そうや……けどっ!」  頬に熱が集まり、みるみる赤く染まっていく。  怒りが、ほどけていく。  抵抗する理由が、音を立てて崩れていく。  「……だったら」  愁は、柔らかく微笑んで言った。  「ちょっとだけ……凛に、謝りましょう」  「……やけど……」  小さく漏れた抵抗の言葉。  その耳元へ、愁はさらに顔を寄せる。  「……俺の、お願い……聞いてくれないんですか……?」  吐息を含んだ、甘い声。  「……可愛い弟に……謝るだけ、ですよ……?」  「あ、ん……っ……♡」  思わず、喉から声が零れた。  耳まで真っ赤に染まり、肩から力が抜ける。  「……わ、分かった……♡」  素直な返事。  そして、照れ隠しのように、小さく付け足す。  「……けど……凛ちゃんのあと……うちとも……な……♡」  愁は、くすりと笑って、こくりと頷いた。  その瞬間、京之介の表情が、ぱっと明るく なり―― 一度、深く息を吸い、ゆっくりと、ソファーから立ち上がった。  視線の先には、ソファーの反対側で、 赤らんだ顔のまま、愁と京之介のやりとりを見守っていた凛。  歩み寄る足取りは、どこかぎこちない。  京之介は、凛の前で立ち止まり、一瞬、言葉を探すように唇を噛む。  「……あー……その……」  珍しく、歯切れも悪い。  「……うちが……その……大人気なかった……」  視線を逸らしながら、ぼそりと続ける。  「……デバイスまで使って……先、行ってしもて……悪かった……」  それきり、言葉が続かない。  凛は驚いたように目を瞬かせ、それから、 少し困ったように、照れたように視線を落とす。  「……ボクも……」  小さな声で、凛が答える。  「……京兄ちゃんが、先に約束してたのに…… 抜け駆けして……ごめん……」  二人の間に、短い沈黙。  やがて、凛は顔を上げ、小さく、でもはっきりと笑った。  「……もう、いいよ♪」  その一言で、京之介の肩から、ふっと力が 抜ける。  三人の間に残るのは、甘く、温度を帯びた 沈黙。  愁は、その光景を――  優しく、満足そうに、見守っていた。 ***  戦術輸送機の搭乗員室は、低く唸るエンジン 音に満たされていた。  振動は一定で、揺りかごのように身体を預けるにはちょうどいい。  後方の座席では、雪緒がシートに深く身を 沈め、静かな寝息を立てている。  長い睫毛が影を落とし、張り詰めていた気配は、すっかり解けていた。  その肩に、咲楽がそっと顔を寄せている。  無意識に距離を詰めたのだろう、額が触れそうなほど近く、指先は雪緒の服の端を、軽く掴んだまま離さない。  二人の呼吸は、いつの間にか同じ速さになっていた。 ――そして、その二列前。  並んだ座席に、凛と京之介は隣同士で座って いる。  互いに視線は前。  言葉も、ない。  ――けれど。  凛の頭の中では、さっきの声が、何度も反芻されていた。  『……なだめてあげる……』  耳元で囁かれた、あの低い声。  触れた手のひらの記憶。  約束でも命令でもない、逃げ道を塞ぐ甘さ。  「……っ……♡」  凛は小さく息を詰める。  何もしていないのに、下腹の奥が、じん、と 熱を帯びた。  ――帰ったら。  ――キスの続き。  ――ちゃんと。  言葉を思い出すだけで、喉が渇く。  隣で、京之介もまた微動だにしない。  だが、その内側は―― 静かに、激しく、乱れていた。  『……凛ちゃんのあと……うちとも……な……♡』  自分で口にしたその約束が、今になって胸を 締めつける。  あのとき見た愁の頷き。  照れた笑み。  確かに受け取った合図。  「……あか、ん……」  京之介は小さく呟く。  何が、とは言わない。  言えない。  想像の中で、眼鏡越しに見下ろされる視線。  名前を呼ばれる声。  抱きしめられた時の、一つになった時の、あの体温。  それだけで、腹の奥がきゅっと疼いた。  凛が、そっと身じろぎする。  シートに押しつけられた背中に、無意識に力が入る。  「……っ、あ……」  吐息が、漏れた。  その小さな音に、京之介が僅かに反応する。  視線は前のまま。  けれど、互いの存在を強く意識してしまう。  ――同じことを考えている。  確信に近い予感。  「……ちょい、凛ちゃん」  京之介が、低く呼ぶ。  「……なに……」  凛の声は、わずかに掠れていた。  「……帰ったら……」  「……うん……」  それ以上は、言えない。  言葉にしたら、本当に身体が動いてしまいそうだった。  腹の底まで伝わってくる輸送機の振動が、 まるで煽るように、一定のリズムを刻み続ける。  凛は唇を噛み、京之介は拳を、軽く握る。  何も触れていないのに。  何も起きていないのに。  二人とも、はっきりと理解していた。  ――これは、もう。  約束が、身体に先に触れている。  遠くで、愁の笑い声が聞こえた気がして、二人は同時に、息を呑んだ。  帰還まで、まだ時間はある。  けれど――  待つ時間そのものが、すでに甘い拷問だった。 ***  一方――  貨物室。  隔壁越しに響くエンジン音は、搭乗員室よりも低く、重い。  金属の床の微かな振動が、戦いの名残を まだ身体に伝えていた。  簡易ベンチに腰を下ろす愁。  その隣で、特殊軽量装甲服を脱ぎ、外した マスクを床に置いた玲真は、離陸前に空港施設内で見つけた袋入りのスナック菓子を、ガーゼと テープでぐるぐる巻きにされた手で器用に摘み、口へ運んでいる。  脱ぎ捨てられた装甲服は、血と埃に薄く汚れ、繊維の隙間に戦闘の名残を抱えたまま、無言で 床に横たわっていた。  「もぐ……あんまり、甘くないな……これ……」  床に転がるそのマスク――  鷹を模した鋭い造形の外殻には、戦闘で擦れた細かな傷がいくつも走り、縁のあたりには、 拭いきれなかったらしい微かな血の痕が 残っている。  冷たい素材のはずなのに、そこに刻まれた 痕跡だけが、生々しく温度を帯びていた。  マスクに長時間押さえつけられていた名残で、 玲真の金髪は、ふわふわとした本来の質感を 失い、額から後ろへとぺたりと流れている。  それに気づいた愁が、何気ない仕草で手を 伸ばした。  「……」  言葉もなく、指を差し入れて、わしゃわしゃと手櫛で髪をかき混ぜる。  「んん……なにしてるんだよ……?」  不思議そうに問いながらも、愁の指の感触が 心地良くて、玲真は身を引くことはしない。  愁は絡まりをほどくように、空気を含ませる ように、ゆっくりと指を動かす。  金色の毛束が、少しずつ元の柔らかさを取り 戻していく。  「……ん♪」  満足そうに、ほんの小さく頷いて。  「こっちの方が……玲真らしい……」  そう言って、にっこりと笑う。  静かで、優しくて――それでいて、ひどく綺麗な笑顔。  理由は分からない。  分からないのに。  玲真は一瞬、視線を逸らし、喉の奥が妙に詰まった気がして、照れ隠しみたいにスナック菓子を一気に口へ放り込む。  「……もぐ……っ」  ばくばくと、必要以上に咀嚼しながら、誤魔化すように俯いた。  「……で」  咀嚼しながら、ふと視線を上げる。  「こんなことが出来るくらい、お前の手…… もう、治ってるのか?」  愁は一瞬、視線を落とす。  包帯の下――痛みは、もうほとんど残って いない。  だから、手櫛なんてことも出来るのだが――  「うん……まぁ……」  僅かな間。  戦闘特化体に備わる治癒機構の存在は、玲真も理解している。  それでも、この回復速度は――理屈の上では、 明らかに早すぎた。  慈愛のキスを、通常の二倍受けたから。  理由は、あまりにも単純だ。  それを知っているからこそ、愁はほんの少しだけ、困ったように笑う。  「あは、は……なんでだろうね?」  どこか不自然な笑みを浮かべ、そのまま話題を逸らすように続ける。  「そんなこと言ったら、玲真こそ……もう、だいぶ動かせるでしょ?」  玲真は、空になったスナック菓子の袋を無造作に放り、自分の手を前に出す。  ぐー、ぱー、指を開閉しながら確かめる ように。  「まぁ、俺は……食えば、ある程度は 回復する」  淡々とした声。  事実を述べているだけの口調。  それから、ふと思い出したように眉を寄せる。  「そういえば……」  視線が、隔壁の向こうを向いた。  「凛と、京之介。搭乗するとき、今のお前みたいに、妙に落ち着きがなかったな」  「……そ、そう?」  「ああ。顔も、赤かった気がする。戦闘後の 興奮……とは、少し違う気がする」  不思議そうな言い方だった。  玲真は、“愛”も“恋”も、知識としては知って いる。  だが、それが身体や感情にどう作用するのか までは、理解していない。  愁の言葉にドキっとしたり、愁の指先が 唇や髪に触れた時、似たものを感じてはいる のだが―― それがそうであるとは、気づいていない。  快楽も、欲も、彼にとっては“機能”の外にあるものだった。  愁は、その理由を知っている。  だからこそ、また少しだけ、笑って誤魔化す。  「……そのうち、分かるんじゃないかな」  一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せてから。  「きっとさ。……玲真の場合は、そうだな…… 玻璃と一緒にいたら……」  その名を出した瞬間、玲真はわずかに首を 傾げた。  「……そう、なのか?」  納得とも否定ともつかない表情。  愁は答えず、ただ曖昧に微笑んだ。  知ってしまうのは、きっと―― もう少し、先でいい。  貨物室に、再びエンジン音だけが満ちる。 振動は変わらず、一定で。  それぞれの胸の奥にある“温度差”だけが、 言葉にならないまま、静かに残っていた。

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