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第百八十二話

 日本近海――  地図にも記されないその海域に、深骸域の “地表の顔”は存在している。  夜。  日本時間、二十二時をわずかに過ぎた頃。  濃い闇に沈む海と、島全体を覆い尽くす 深い緑。  外から見れば、それはただの無人島だった。  レーダーにすら、意味のある反応を返さない、名もなき島。  だが、その島へ向けて、愁たちを乗せた 戦術輸送機は迷いなく降下していく。  操縦席では、パイロットが管制と短い交信を 行っていた。  淡々と、符号のような言葉が並ぶ。  ブラボー、デルタ、数字、数字、アルファ、 タンゴ、数字、エコー。  意味を持つのは、それを知る者だけだ。  通信が終わると同時に、機体は減速し、着陸 態勢へと移行する。  ――その瞬間。  戦術輸送機は、夜空から消えた。  正確には、姿を失ったのではない。  島全体を取り囲む、不可視の防護領域―― 《ファントム・ミラージュ》と呼ばれる欺瞞障壁の内側へ、侵入したのだ。  外部からは、どれほど目を凝らしても何も 見えない。  映像も、熱も、存在そのものが拒絶される。  正規のパスコードなしに接触すれば、機体は 障壁に弾かれ、衝突の衝撃すら観測される ことなく、木端微塵に消し飛ぶ。  だが、認証された者だけが、その内側を見る。  障壁を抜けた先―― そこに初めて、真の島の姿が現れる。  島全体を覆い尽くす、手つかずの深い緑。  熱帯とも温帯ともつかぬ植生が、起伏に富んだ地形を静かに呑み込んでいる。  だが――  その中心部だけが、まるで巨大な刃で大地を 抉り取ったかのように、数キロ四方にわたって 人工的に切り拓かれていた。  二本の滑走路は、異様なほどの長さを持ち、 X字に交差している。  それは単なる冗長設計ではない。  発進と帰還、双方において最大効率を叩き出すため、風向、気圧、島嶼特有の乱流すら計算に 織り込んだ配置――  空域そのものを制圧するための構造だ。  滑走路を取り囲むように、空港監視、地表面探知、航空路管制を担う複数のレーダー施設が配置され、管制塔、消防施設、そして十数棟の鉄骨造格納庫が、機能だけを優先した無機質な列を 成して並んでいる。  ここは――  誰が建造したのか。  いつから存在しているのか。  その記録は、どこにも残されていない。  最新技術が惜しみなく投入されている一方で、 コンクリートの継ぎ目には長年の風雨に削られた摩耗があり、滑走路の舗装には、幾度となく 重ねられた補修痕が、運用の歴史を無言で語っている。  新しいのに、古い。  更新され続け、使い潰され、それでもなお 稼働を止めなかった時間だけが、確かにここに 蓄積している。 ――ここは、深骸域の帰還地点。  夜空を裂くように、任務を終えた戦術輸送機が次々と降下してくる。  外見は、C-17 グローブマスターIII。  その巨体とシルエットは、あくまで既存機としての偽装に過ぎない。  誰の嗜好か、あるいは欺瞞として最適解だったのか。  だが、その内実は―― 深骸域専用改修機という、規格外の存在だ。  超高効率ターボファンエンジンを搭載し、 最大巡航速度はおよそ三千キロ。  従来機の三倍に相当し、通常運用時でさえ、 既存輸送機の限界速度を容易に上回る。  機内には循環式エネルギー機構を備え、燃料 補給という概念そのものが排除されている。  航続距離の制約は理論上ほぼ存在せず、 運用上の制限は、機体ではなく搭乗員にのみ 残されていた。  パリを朝八時に発ち、途中寄港も、空中給油もなく、夜の日本へ帰還する。  それは明らかに異常な性能だ。  だが、その事実を知る者は、この島と同じく、どこにも記録されない。  愁たちを乗せた機体も、静かに滑走路へと 降りてくる。  重厚な機体が減速し、誘導灯と地上管制の指示に従って進路を修正。  やがて、格納庫のひとつへと吸い込まれて いく。  定位置に停止した瞬間、合図も号令もなく、 整備員たちが一斉に動き出した。  「油圧、問題なし」  「全エンジン、回転安定……」  『接続入ります』  無線と肉声が入り混じり、工具の金属音が 乾いたリズムを刻む。  機体のエンジンはまだ完全には止まらず、低く唸る振動が格納庫の床を伝っていた。  点検、接続、記録。  すべてが流れるようで、無駄がない。  そして――  後部ハッチが、ゆっくりと開いていく。  夜の空気が流れ込み、油と金属の匂いに、 潮の気配が混じった。  最初に姿を現したのは、マスクを被った玲真 だった。  製造人間であることは、まだ伏せられていなければならない。  そのため、彼は再び予備の特殊軽量装甲服を 身に纏っている。  激戦で血と埃に塗れた装備とは違い、こちらは比較的きれいな――“外向け”の装い。  『はぁぁ……長かった……』  ハッチを降りた途端、高い天井に向かって腕を伸ばし、思いきり背伸びをする。  「普通の輸送機に比べたら、だいぶ早い けどね」  その隣に、愁が続いた。  下半身は装甲服用のズボン。  上半身は、肌に張り付くような薄手の 黒シャツ一枚。  夜風が、かすかにその輪郭をなぞる。  「……あ、そうだ」  思い出したように愁が足を止める。  それにつられて、玲真も立ち止まった。  「これ、渡しとく」  そう言って、どこからか取り出した スマートフォンを差し出す。  『……俺に?』  玲真は、それを見下ろして首を傾げる。  「玻璃にも同じの渡してる。もう連絡先も 入ってるから。玻璃のも、俺のも」  一瞬だけ考え、玲真は受け取った。  『……なぜ俺たちに?』  「連絡には必要でしょ? 持ってて。明日、 また連絡するから」  画面に触れることはしないが、確かに “持たされた”感触を確かめるように、指が 閉じる。  「それと……」  愁は言葉を継ぎ、駐機場の一角でローターを 静止させている機体を指差した。  「パイロットには先に話を通してあるから。 一言も喋らなくていいよ」  V-22に偽装された超高速輸送機。  この島から本土へ向かうための、専用の足だ。  玲真は、小さく頷いた。  ――と、そこで。  『……お前は』  ふと、問いが零れる。  『一緒に、帰らないのか?』  愁は、少しだけ考えてから。  「……寂しい、とか?」  くすっと笑って、首を傾げた。  次の瞬間。  『バカか!? ちょっと聞いただけだっ!!』  マスク越しでも分かる勢いで、玲真が 前のめりに叫ぶ。  変声された高い声が、格納庫に反響した。  「あはは……♪ 冗談冗談」  愁は、もうほとんど完治した両手を胸の前で 振る。  『……まったく……』  玲真は腕を組み、明らかに不機嫌そうだ。  愁は気にせず続ける。  「俺たちは……任務の報告とか、雑用が あるし……それに……」  言葉が、ふと途切れた。  さっきまでの軽い笑みが薄れ、代わりに頬が、わずかに赤くなる。  「……多分、遅くなるから。先に行ってて。 明日――」  そこまでだった。  左右から、同時に肩を掴まれる。  「――愁ちゃん♪」  「――んふふ……♪」  凛と、京之介。  二人とも、輸送機の中で溜め込んだ昂ぶりを、 隠す気など最初からない。  「玲夢ちゃん、お疲れっ♪ 気をつけて 帰ってね!!」  凛が、にこにこと手を振る。  「そや。帰るまでが遠足やさかい♪」  京之介が、楽しげに笑った。  愁が何か言う暇はなかった。  二人はそのまま彼を引き寄せ、有無を言わせず、玲真の前から連れ去っていく。  エンジンの唸りと、整備員たちの声に満たされた格納庫の中。  残された玲真は、その背中を一瞬だけ見送り ――やがて、小さく息を吐いた。  手の中のスマートフォンを、無意識に強く 握りしめる。  愁に、この先何が起こるのかは分からない。  分からない――はずなのに。  心のどこかで「……頑張れ」と、そんな感情が、ひとりでに浮かんでしまう。  『まぁ……』  (……恋人が三人もいるんだ……当然か……)  そう内心で切り捨てかけて―― ふと、思考が引っかかる。  (……いや、当然なのか……? そもそも、 恋人って……一人じゃ……)  結論に辿り着く前に―― 背後から、気配。 「玲夢さん!」 「玲夢ちゃん!」  偽名を呼ぶ声。  振り返ると、やや慌てた様子で駆けてくる 雪緒と咲楽の姿があった。  二人が目の前まで来たところで、雪緒が先に 息を整えながら口を開く。  「……はぁ、間に合った」  『そんなに慌てて……どうしたんですか?』  玲真は、意識して丁寧な口調を作る。  「本土の方に戻るんですよね?」  『はい。その予定ですが……』  「あぁ、間に合って良かった」  雪緒は胸の前に手を当て、小さく息を吐く。  それから、改めて背筋を伸ばした。  「俺たち、ここが“家”なので。 お別れの前に、ちゃんと挨拶しておきたくて」  『はぁ』  「……それと、もう一度、お礼も言っておこうと思って」  そう言って、雪緒は軽く頭を下げる。  「あの時、咲楽を助けてくれて……本当に、 ありがとうございました」  その所作は、どこか愁に似て落ち着いていて、 無駄がない。  偽りとはいえ“新人”の玲真に対しても、その 態度は変わらない。  (――誰に対しても、こうなんだな)  玲真は、直感的に理解した。  見ている限り、唯一砕けた態度を見せる相手がいるとすれば―― それは、きっと隣に立つ咲楽だけだろう。  「助けてくれて、ありがとね! あの借りは、絶対返すから♪」  そう言って、咲楽もぺこりと頭を下げる。  戦闘中、彼が向けていた銃口は、自分に迫る敵ではなかった。  凛へと襲いかかる敵に対して、残弾を惜しみなく使っていた。  玲真が援護しなければ―― 彼は、今ここにはいなかっただろう。  (……部下の鏡、か)  顔を上げた咲楽の表情は、戦闘中の張り詰め たものとは違い、柔らかく、年相応の無邪気さを帯びている。  それは、雪緒の隣にいるからだ。  (いや……)  玲真は、ふと別の可能性に思い至る。  (……あの場面で守るべきは、凛だった。 自分よりも、凛が無事でいる方が――雪緒の 生存確率は格段に上がる……)  あの選択は、明確には凛のためではない。  雪緒の命を守るための、迷いのない 判断だったのだ。  (……なるほど……)  玲真は、静かにそう納得した。  ――本来なら。  この程度の情報から、ここまで踏み込んだ解釈はしない。  感情とは曖昧で、揺らぎやすく、数式にも 理論にも落とし込めないものだ。  玲真は、そういうものだと“知って”いた。  それに、考えたところで結果が変わる類の 事象でもない。  ――だが。  愁の隣に立ち、誰かを見るときの視線を見て、 葵に向ける声音を聞き、凛や京之介との距離感を、無意識のうちに追っていたせいか。  人間の“感情”というものが、いつの間にか気になる対象になっていた。  興味を持ち、観測し、理解し始めてしまって いる。  (……咲楽は、雪緒に好意を抱いている。 そして、雪緒も……)  これは知識ではない。  注入されたデータでも、理論でもない。  短い時間とはいえ、人間と並び、言葉を交わし、関係性を見続けた結果―― そう判断してしまった、というだけだ。  学習だ。  そして、それは“人間に近づいた”という 事実でもある。  そんな二人を前にして、玲真はマスクの内側で、わずかに呼吸を整え。  (……と、今はそんなことを考えている場合 じゃない)  判断を切り替える。  良くも悪くも、この二人は無邪気で、率直で、 そして――よく人を見ている。  詮索する意思がなくとも、気づけば核心に 触れてしまうタイプだ。  ここで正体が露見すれば、最悪の場合、 この場に続々と帰還してくる戦闘特化体すべてと、同時に敵対する。  ――勝てない、とは言わない。  だが、今ここでやる意味はない。  それだけの話だ。  それに玲真は、足元から立ち上る“圧”を、 冷静に分析していた。  個として強い、という次元ではない。  存在そのものが、階層の異なる演算領域に ある。  (……この地下に、まだ“なに”かが……)  基地そのものが、意図的に“奥”を伏せている。  今、踏み込めば確実にリソースを削られる。  ――ならば、選択肢は一つ。  『――あー……お気になさらず……!』  変声機を通した、やや高めの声。  『私、ちょっと用事がありますので! お先に失礼しますねっ!』  どこか可愛らしく、少し大げさな仕草でぺこりと頭を下げ―― 次の瞬間には、小走りでV-22の待つ方へと向かっていた。  「あ、玲夢さ……」  背後から雪緒の声と、視線を感じる。  だが、玲真は一度も振り返らない。  これは逃走ではない。  撤退だ。  勝てない戦いに、意味もなく立ち向かうほど―― 玲真は、無謀ではなかった。

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