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第百八十三話

 深夜四時を少し過ぎた頃。  愁はアパートの前で一度だけ呼吸を整え、 鍵をそっと回した。  かちり、と鳴る音さえ抑えるように、玄関の扉をわずかに開く。  葵には連絡してあった。この時間帯に帰る、 とだけ。  (……葵さん……今日も仕事だし……。  目覚ましが鳴るまで、せめて起こさずに……)  靴を脱ぎ、足音を殺して廊下を進む。  床板が軋まない位置を、自然と覚えてしまっている。  ダイニングの扉に手をかけ、ゆっくりと―― 本当に、ゆっくりと扉を開いた。  「おはよ、愁くん♪」  「……っ、葵さん」  ダイニングの席に、葵が座っていた。  カップを両手で包むように持ち、少し眠たげな目をしながら、けれど穏やかに微笑んでいる。  待っていた。  それが、言葉にしなくても分かる佇まい だった。  「……起きて、いなくても……」  そう言いかけた、その途中で。  「だって」  葵の声が、やさしく、でもきっぱりと被さる。  「二日も、愁くんと離れ離れだったんだよ」  椅子が小さく音を立てる。  葵は立ち上がり、ためらいもなく愁の方へ歩み寄って――いや、ほとんど駆け寄るように。  そして、そのまま細い腕が、ぎゅっ、と愁の 背中に回された。  「……っ」  胸元に顔を埋めるようにして、葵は愁を抱きしめる。  頬が擦れて、吐息が服越しに伝わってきて―― 力は強くないのに、指先の位置も腕の回し方も、「離すつもりがない」ことだけは、はっきりと伝わってきた。  「……おかえり」  小さく、噛みしめるみたいな声。  それだけで、胸の奥をきゅっと掴まれたような気がして。  「……」  愁は一瞬、息の仕方を忘れる。  あまりにも無防備で、あまりにも愛おしくて ――  どう触れればいいのか、どう応えればいいのか、分からなくなって、腕が宙で止まった。  それでも、迷う時間はほんの一拍だけ。  やがて、そっと、その背中に手を回す。  抱き返した瞬間、葵の体温がじんわりと胸に 広がっていき、張り詰めていたものが、音もなく、少しずつ解けていった。  「……ただいま、葵さん」  その言葉を受けて、葵の腕に、ほんの少しだけ力がこもる。  愁を見上げる瞳が、揺れて――熱を帯びた。  吐息が、触れるほど近くで溶け合い、気づけば、どちらからともなく唇が重なっていた。  「……ん……」  最初は、ただ触れているだけ。  深く求めることもなく、離れることもなく、  お互いの柔らかさと、確かな温度を確かめ合うように、ゆっくりと――。  葵の唇が、わずかに震える。  それが合図のように、二度目のキス。  ちゅ……ちゅ……  唇が触れては離れ、また重なり、そのたびに、甘さが増していく。  まるで、砂糖を溶かした紅茶のような、 じんわりと、身体の奥まで沁みわたるキス だった。  葵の肩から力が抜け、愁の胸元に、そっと身を預ける。  「……は、ぁ……」  小さな吐息と一緒に、頬がとろりと緩む。  瞳は潤み、声も、どこか蕩けていて―― ただキスをしていただけなのに、葵は、すっかり甘さに溺れてしまったようだった。  愁は、葵の腰を左手で抱いたまま、右手を そっとその頬に添えた。  触れるか触れないかほどの距離で、指先は ひどく優しく―― 温もりに、葵の肩が小さく震える。  「……ん……」  その仕草を目にするたび、愁の脳裏をかすめていたものが、少しずつ遠のいていく。  パリでの、長く、激しい戦闘。  継ぎ接ぎだらけの不自然な身体。  金属製の義肢にへばりついた老人の皺だらけの醜い顔。  生き物とは呼びたくない、“人間もどき”。  怖かったわけじゃない。ただ、ひどく不快で、後味の悪い記憶。  けれど今、葵のぬくもりと、柔らかな唇に 触れただけで、霧が晴れるように、それらが薄れていった。  目の前には、蕩けるような表情で自分を見つめる葵がいる。  それだけで、胸の奥が自然とほどけて、愁の 口元に微かな笑みが浮かんだ。  「ね……愁くん……ケガ、したの……?」  ふと、葵が視線を落とす。  愁の右手、ガーゼもテープも取れているが、 まだ皮が剥けたままの、少し痛々しい傷。  「っ……あ、いえ。これは、ちょっと…… 全然、大したことないです。もう、ほとんど 治って――」  「……ほんと……?」  首を傾げて、疑わしげに見上げる葵。  愁が心配をかけまいとする、猫のような癖を、 葵はよく知っている。  確かめるように、葵はその手をそっと握った。  「……ほんと、です」  愁は小さく呟く。  その声を聞いて、葵はほっと息を吐き、肩の 力を抜いた。  「良かった……」  そう言って微笑む葵の顔を見た瞬間、愁の胸に、あたたかいもので満ちていく。  また、あの嫌な記憶が、遠くへ押し流され ていく。  「……?」  愁がふっと笑ったのに気づいて、葵は不思議そうに首を傾げる。  「……どうしたの?」  愁は少しだけ目を細めて、どこか力の抜けた、穏やかな笑みを浮かべた。  「いえ……なんでも……。ただ……」  そう前置いてから、葵の額に、そっと額を 寄せる。  距離が近すぎて、息がかかる。  「……葵さん、可愛いなって……」  囁くような声。  「っ……」  葵は一瞬、完全に言葉を失った。  次の瞬間、頬が一気に熱を帯びて、目を 泳がせる。  「……な、なに言ってんだよ……もう……」  困ったように笑いながらも、その声は少し 裏返っていて、愁から視線を外さずにはいられ なかった。  その反応すべてが愛おしくて、愁の胸が、 ぎゅっと締めつけられる。  (――やっぱり……)  この人がいるから、自分は戻ってこられる。  どんな戦いの記憶も、ここでは意味を失う。  葵は、赤くなった頬を両手で隠すようにして、くるりと愁に背を向けた。  「あ、あの……まだ時間あるし……」  一歩離れてから、振り返り、照れたまま目を 逸らす。  「お茶でも淹れるよ……ほら……ちょっと、話、聞かせて……ね」  そう言って、逃げるように紅茶の準備を 始める。  「……はい」  愁は小さく返事をして、その背中を静かに 見つめた。  胸の奥に残っていた、最後のざらつきが、 ゆっくりと、完全に溶けていくのを感じながら。 ***  ダイニングのテーブルに並んで腰を下ろす、 愁と葵。  椅子の間隔はほとんどなく、肩と肩が自然に 触れ合っている。  意識すれば離れられるはずなのに、どちらからともなく、そのままでいた。  葵が淹れてくれた紅茶から、やわらかな湯気が立ちのぼる。  ふたりの間を満たすみたいに、静かに、 ゆっくりと。  愁はその香りに一度、深く息をついた。  隣から伝わる体温を確かめるようにしてから、カップに口をつけ。  「……今回は、パリでした」  静かな声で、ゆっくりと言葉を選ぶ。  「本当は偵察の予定だったんですけど…… 少し、手違いがあって」  ――“少し”なんて言葉では、到底済まないほどの激戦だった。  けれど愁は、それ以上を語らない。  エッフェル塔と凱旋門が崩れ落ちたことも。  街が“人間もどき”で溢れていたことも。  フランスと周辺国の、かつて人だった数千万人を、自分たちの手で殲滅したという事実も。  葵の前では、言えなかった。  ――否、言う必要がないと、思っていた。  葵は黙って話を聞きながら、何度も小さく 頷いている。  時折、目を見開いて驚いたり、少し眉を下げて心配そうな表情を浮かべたりしながらも、決して言葉を挟まない。  肩と肩が触れ合ったまま。  その温もりが、静かに続いている。  「玲真の仲間……探してた存在は、結局見つからなくて」  そこまで話して、愁はカップを置いた。  「……そう……」  ぽつりと呟き、葵は愁の横顔を見る。  その視線があまりに優しくて、愁の胸の奥が、じんわりと温かくなる。  「大変、だったんだね……」  その一言だけで、十分だった。  少し間を置いてから、葵は思い出したように首を傾げる。  「……そういえば」  愁の方を向き、柔らかく尋ねる。  「京之介さんと、凛くんは……?」  その問いに、愁は一瞬だけ視線を泳がせた。  そして、ふっと――困ったような、どこか 気まずい苦笑を浮かべる。  「……え、ええ。京之介さんも、凛も…… ちゃんと無事ですよ」  そう言いながら、カップを持つ指先が、ほんのわずかに止まる。  「ただ……少し、疲れているみたいで。 今日は『日向』の仕事は、お休みするんじゃない ですか、ね……」  どこか歯切れの悪い言い方。  それでも一応は整った“説明”に、葵は一度、 ふぅん……と小さく頷いた。  ――が。  次の瞬間、葵はすっと身を寄せる。  肩が触れ合ったまま、さらに距離を詰め、 愁の首元へ顔を近づけた。  近い。  愁の喉が、無意識に鳴る。  葵の鼻先が、首元に触れるほどまで寄せられて――  すん。  すん。  軽く匂いを確かめる仕草。  「……?」  愁の肩が、ぴくりと揺れた。  近さに対する、別種の鼓動。  けれどそれ以上に、次に来る“何か”を本能が 察して、胸がざわつく。  葵は、にこりと笑っている。  けれどその笑顔は、ただ柔らかいだけではなくて――ほんの少し、むっとした色を含んでいた。  「京之介さんと、凛ちゃんの匂いがするんだ けど」  穏やかな声。  なのに、逃げ道を塞ぐような一言。  「……どういうことかな?」  「えっ……!?」  愁は、思わず素の声を上げてしまう。  「そ、そんな……っ。ちゃんとシャワー……!」  言いかけて、はっと口を噤んだ。    ――しまった。  葵は一瞬だけきょとんと目を瞬かせ、それから、くすっと小さく笑う。  「あ」  愁の顔を覗き込んで、楽しそうに。  「今の、かまかけだったんだけどな」  愁は言葉を失い、ほんの一瞬だけ固まった あと、観念したように小さく息を吐く。  葵はそんな様子を見て、頬を少しだけ膨らま せた。  「……もぉ」  怒っているというより、拗ねたような、甘えを含んだ声。  「ちゃんと無事なのは安心だけど……愁くん、正直すぎ」  そう言ってから、ふっと表情を緩めて、 葵は愁の袖を軽く引いた。  そのまま距離を詰めるように、肩がさらに深く触れ合う。  「……二人は、もう十分満足したみたいだし」  悪戯っぽく、それでいて確信に満ちた声音。  同時に、葵の指先がそっと、愁の太ももに 触れた。  逃げ場のない、さりげない接触。  そのまま指は留まらず、布の上をなぞるように、わずかずつ内側へ。  体温を確かめるみたいに、ゆっくり、確実に。  「……今夜は、僕の番だよね……?」  愁は、一瞬、なにも言えなかった。  喉が、かすかに鳴る。  触れられている場所から、熱がじわじわと 広がっていく。  指先は、太ももの付け根に近づいて―― そこで、わざと迷うように、止まった。  否定も、冗談も、軽口も浮かばない。  ただ、静かに――こくりと、頷いてしまう。  きっと、愁にとって葵は強い。  どんな敵よりも。  パリで対峙した“人間もどき”などよりも。  どれほど腕を磨いても、どれほど生き延びても――この人には、勝てない。  その事実を、誇りのように胸に受け止めながら、愁はそっと視線を逸らした。  (……このままだと、まずい。   理性より先に、身体が応えてしまう……)  朝だ。  これから大切な仕事がある。  自分に言い聞かせるように、愁は胸の奥に しまっていた問いを、必死に選び取る。  「……あ、あの」  肩が触れ合ったままの距離で、愁は葵をちらりと見た。  「俺達がいない間……『日向』は、どうでしたか?」  そう問うと、葵は一瞬きょとんとして―― 「あ」という小さな声とともに、何かを思い出したように目を瞬かせた。  「え、えとね……」  言葉を探す仕草のあと、ぱっと表情が明るく なる。  「そう、玻璃くん!」  その名が口に出た瞬間だった。  愁の太ももに触れていた葵の手が、するりと 離れる。  ……思っていたよりも、あっけなく。  一瞬だけ生まれた空白。  失われた温もりを追うように、愁の胸の奥が、かすかにざわつく。  「玻璃くんが頑張ってくれて、とっても 助かったよ♪」  葵は嬉しそうに頷き、続けた。  「玻璃くんね、短い間なのに、なんでもすぐ 覚えてくれて。接客も丁寧だし」  愁は黙って聞いていた。  カップを持つ指先に、気づかないうちに力が 入る。  「玻璃くん、お料理もしたことないって言ってたんだけど、ちょっとやってみたら、すぐ慣れ ちゃって」  「……そう、なんですね」  返した声は、自分でも驚くほど平静だった。  「僕、すごく助かったよ♪」  その言葉が、胸の奥に、小さな棘として 刺さる。  「それにね、玻璃くん、お客さんにもすごい 人気で♪」  仕事の話だ。  『日向』の話だ。  そう、自分に言い聞かせる。  けれど、葵の口から他の男の名が繰り返されるたび、胸の内側に刺さった棘が、一本、また一本と増えていく。  葵は気づかないまま、言葉を重ねる。  「それで……玻璃くんと、友達になれたんだ♪」  その一言で、棘が、深く、太く、突き立った。  「……友達、ですか?」  問いかける声が、ほんの少しだけ遅れる。  「うん♪ 玲真くんがいなくて、ちょっと寂しそうだったからさ。この部屋に泊まってもらって、一緒に映画を観たんだ♪ 一緒に好きな 映画観たら、もう友達だよね♪」  答えを聞いた瞬間、思考が、止まる。  ――泊まり。  「玻璃くん、映画とか観たことなかったみたいで。すごく喜んでくれてね♪」  葵はくすっと笑う。  「何本も観てたら、玻璃くんそこのソファで そのまま寝ちゃってさ、僕も一緒に――」  ……一緒に。  その言葉に、胸の内側で刺さった棘が、音を立てた。  ちり、と。  乾いた音で、擦れ合う。  理屈では分かっている。  何もなかったのだろう。  葵に、悪気なんてあるはずがない。  それでも。  葵が、他の誰かと。  同じ空間で、夜を過ごした。  ただそれだけの事実が、胸に刺さった無数の棘を、言葉の風で揺らし、ちりちりと、痛みを 鳴らす。  息が、浅くなる。  ――おかしい。  こんな感覚は、初めてだった。  愛する人が、自分以外の誰かと一夜を共有 した。  それだけで、胸がこんなにも締めつけられる なんて。  愁は視線を落とし、絡まった思考の中から、 ようやく言葉を拾い上げる。  「……も、もう大丈夫です……」  それが、今の自分に差し出せる、精一杯だった。   胸の奥には、まだ棘が残っていて、重たい。視線はどうしても床から離れない。  そんな愁の様子を、葵は見逃さなかった。  少し身を乗り出し、横からそっと顔をのぞき 込む。  「どうしたの? やっぱり、どっかケガとか ――」  言い終わる前に、愁は衝動のまま、葵の胸元にぎゅっと抱きついていた。  不意を突かれて、葵のポニーテールがふわりと揺れる。  「しゅ、愁くん……? だ、大丈夫?」  驚きつつも、葵はすぐに愁の背に腕を回し、 落ち着かせるように、ぽん、ぽんと優しく 叩いた。  その温もりに縋るように、愁は低い声で息を 吐き出す。  「……自分でも、よく分からないんですけど」  そう言いながら、愁は無意識に顔を上げて いた。  眉が下がっていることも、赤い瞳が潤んでいる ことも、自分では気づいていない。  胸の奥が棘でいっぱいで、言葉にしながらも 感情が追いつかず、唇がかすかに震れている。  そこにあったのは、パリで無数の敵を退けた 戦闘特化体の姿ではない。  ただ、好きな人の前で戸惑い、縋るように 揺れる―― ひどく無防備で、愛おしい存在だった。  「葵さんが……玻璃と……ここで、一緒だったって聞いて……」  言葉を選ぶたび、声が少しずつ小さくなる。  「それが……なんだか、胸の奥が苦しくて。 重たくて……」  ふたりの間に、短い沈黙が落ちる。  やがて、葵の頬が、じわじわと熱を帯びて いく。  視線が泳ぎ、少しだけ言葉を探してから――  「……それって」  一拍、間を置いて。  「玻璃くんに、ヤキモチ……してる、って こと?」  その一言に、愁の肩がぴくりと揺れる。  否定もできず、ただ視線を彷徨わせるその仕草が、何より雄弁だった。  ヤキモチ――嫉妬。  愁は、その言葉自体は知っていた。  任務の資料にも、人間関係の分析にも、当たり前のように出てくる感情だ。  誰かを独占したい気持ち。奪われることへの 不安。  ――そういうものだと、理解していたつもり だった。  けれど、今、胸の奥に沈んでいるこの重さは 言葉で整理するよりも先に、じわじわと広がって、呼吸を鈍らせる。  凛もいる。京之介もいる。  三人も恋人がいる愁が、こんな感情を抱くなんて、筋違いなのかもしれない。  それでも。  理屈とは関係なく、心が勝手に反応してしまうこの感覚は――  どう考えても、初めて“自分のもの”として 味わう嫉妬だった。  愁は、その事実に少し驚いたまま、否定も肯定もできずに、ただ小さく、こくりと頷く。  葵は一瞬きょとんとして、それから―― ふっと、堪えきれないように笑いだした。  「あはは……♪ 僕と玻璃くんになんか、 あるわけないじゃない。玻璃くんは――」  愁も、それは分かっている。  玻璃の視線が、誰に向いているのかも。  それでも――同じ空間で、同じ夜を過ごしたと いう事実だけが、胸の奥をざわつかせた。  「……知ってます。けど――」  言い切るより先に、愁の唇は、葵の唇に ふさがれていた。  ふわり、と。  紅茶の残り香が混じる。  確かめ合うようでいて、逃がさない―― 熱を含んだキス。  ゆっくり唇が離れると、葵は頬を赤く染めた まま、少しだけ悪戯っぽく微笑む。  「これで……おあいこ、かな?」  そして、声を落として、静かに続けた。  「愁くんがね。凛くんとか、京之介さんに 優しくしてるのを見ると……僕も、ちょっと同じ気持ちになるんだよ?」  「……ッ」  その言葉に、愁の頬が一気に熱を帯びる。  言い返す言葉は、どこにも見つからない。  ――やっぱり、強い。  どう足掻いても、敵わない。  「……ごめん、なさい……」  ようやく零れた謝罪に、葵の表情から悪戯っぽさが消え、柔らかな笑顔になる。  「ふふー♪ わかれば、よろしい」  そう言ってから、ほんの少し間を置いて。  「だったら……今夜――」  その続きを聞く前に。  愁は、静かに立ち上がり、迷いのない動作で 葵を抱き上げた。  「ふえ? え?」  驚く声。  腕の中で揺れる体温。  その軽さと温もりが、決定打になる。  ――朝だ。これから大切な仕事がある。  分かっている。分かっていた。  けれど。  理性で積み上げてきた判断が、葵の体温ひとつで、音を立てて崩れていく。  守ろうとしていたはずの一線は、気づけば 愁自身の手で越えられていた。  「……まだ、出かける準備まで、時間…… ありますよね?」  「……い、今から……?」  驚きと期待が混じった声。  愁は、その反応ごと抱きしめるように、低く 答える。  「今からも、です。……もちろん、夜も」  「……はぅ……♡」  葵は一瞬息を詰まらせてから、くすぐったそうに、でも嬉しそうに笑った。  「じ、じゃあ……朝は、やさしくね。夜は…… その分……♡」  その囁きに、愁の胸が静かに熱を帯びる。  扉が、そっと閉まる。  その先の時間は、言葉にする必要もなく――  互いの温もりを確かめ合うように、ゆっくりと溶けていった。  気づけば、朝食の準備をする間もなく。  二人の出発は、少しだけ――遅れることに なった。

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