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第百八十四話

 パリから帰還してから、二日後。  深骸域:地底五層―― 《武装研究区画》。  通称、クリーナー・アームズラボ。  分厚い遮音扉の前で、愁は一度足を止めた。  「はぁ……」  本来なら、今回の件はメールで済む。  “星薙の刀”の使用ログ。  最大出力時の挙動。  そして――大爆発を起こし、消失したという 結果。  昨夜のうちに、簡潔にまとめて送っている。  報告としては、それで十分なはずだった。  ――にもかかわらず。  返ってきた返信は、たった一行。  《直接、ラボに来なさい》  (……やっぱり、壊したから怒ってるの かな……)  胸の奥が、じわりと重くなる。  (……壊した、って言うより……壊れたんだ けど……二度使うななんて、説明なかったし…… でも、結果は大爆発だし……。罰とか……? 何を言われる……? されるのかな……?)  考えても、答えは出ない。  愁は小さく息を吐き、仕事着の上から羽織っていたチャコールグレーのショートジャケットを 脱ぎ、片腕にかけた。  (……謝ろう……)  そのまま、扉の横の操作パネルへと指を 伸ばす。  インターホンの子機のような役割のそれに 触れる。  ピッ、と短い操作音。  間を置かず、低く落ち着いた声が返ってきた。  『……入りなさい』  同時に、ピッ、という電子音。  赤から緑へと変わるランプ。  内部ロックが解除され、重厚な遮音扉が、 ゆっくりと開いていく。  愁は一歩踏み出し、開口一番に言った。  「……すいませんでした」  そして、深く頭を下げる。  顔を上げた、その先――  そこにいたのは、装甲服を脱いだ、 熟山 古和美だった。  私室のテーブルに腰掛け、繊細な装飾の 施されたティーカップを手に、静かに紅茶を 啜っている。  柔らかな照明と、温もりのある空気。  ラボとは正反対の、落ち着いた空間。  彼はゆっくりとカップを置き、愁を見た。  「……無事で、何よりでした」  その一言に、愁の胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩む。  それはきっと、古和美の服装のせいもあった。  いつもの、あの特殊な装甲服。  獰猛な狼を模したマスク。  本人に威嚇する意図がなくとも、あれは どうしても周囲を緊張させる。  近づけば、鋭い牙に食い破られるのではないかと錯覚するほどの存在感。  ――その彼が。  今日は、柔らかな色合いのケーブル編みの ニットセーターを着ていた。  首元は詰まりすぎず、肩の線は穏やかで、装甲服のときよりも、ずっと細く見える。  下は、淡いベージュのカジュアルパンツ。  この部屋に漂う静けさと、不思議なほど、 違和感なく溶け込んでいる。  戦場も、殺戮も、武装研究区画の無機質さも ――すべてが、少しだけ遠くへ押しやられる ような装いだった。  (……私服……)  愁は、古和美の素顔を何度か見たことはある。  だが、私服姿を見るのは――初めてだった。  正直、驚いた。美しい、という認識は元から あったはずなのに。  こうして日常の衣服を纏った姿を見ると、 それがやけに生々しく、現実味を帯びて胸に 落ちてくる。  しばらくの沈黙。  古和美は、わずかに視線を逸らし、小さく 咳払いをした。  「……立ち話も、なんですから」  言い終えると、言葉の代わりのように、指先で椅子の背を軽く叩く。  視線は、相変わらず愁を捉えないままだった。  「あ……はい」  愁が腰を下ろすと、今度は古和美が落ち着かない様子で立ち上がる。  「紅茶……飲みますか?」  疑問形のはずなのに、返事を待つ前に、もう キッチンへ向かっていた。  ポットを手に取り、カップを探し、動きは丁寧なのに、どこか忙しない。  その背中を見ながら、愁は気づく。  (……この人……優しいけど……不器用なんだ よね……)  湯を注ぐ音。  茶葉が開く、かすかな香り。  少し間を置いてから、古和美は慎重にカップを運び、愁の前に置いた。  「……どうぞ」  言葉は短く、声も低い。  けれど、その所作は――驚くほど丁寧だった。  「いただきます」  そう言って、湯気の立つカップへ手を伸ばした、その時。  横に立っていた古和美が、ふと膝を折り、 愁の視界の高さまで身を落とした。  次の瞬間、愁の指先が――温もりに包まれる。  両手で。  そっと、確かめるように。  「っ……」  不意を突かれ、愁は息を呑む。  指の間に、古和美の指が触れる。  逃がさないように、しかし強すぎない力で、 包み込まれる。  視線が合った。  古和美は、愁を見上げたまま――ぽつりと、 言った。  「……すまなかったね……」  「……え?」  間の抜けた声が漏れる。  怒られると思っていた。  責められるか、罰を言い渡されると覚悟して いた。  だから、この距離も、この温度も、その言葉も、あまりにも予想外で―― 愁は、瞬きを繰り返すしかなかった。  古和美は、その反応を待つように、一拍置く。  そして、ゆっくりと――顔を寄せた。  近づく。  逃げ場を残しながら、しかし確実に。  赤い瞳が、真正面から愁を捉える。  ニット越しに伝わる体温。  紅茶の香りに混じる、かすかな香水。  距離が詰まるたび、愁の呼吸が、少しずつ 浅くなる。  「……」  古和美は何も言わない。  ただ、覗き込むように、愁の瞳を見つめて いる。  あまりにも整った顔立ちに、思考が遅れた。  「……い、いえ……俺の方こそ……」  慌てて言葉を探す。  「古和美さんの……大切なものを壊し――」  「報告書も、記録映像も……すべて確認しま した」  静かな声が、言葉を遮る。 「あの状況で、リミッター解除に頼るのは…… 仕方がない」  さらに、ほんのわずか、顔が近づく。  その拍子に、包まれていた指先に変化が あった。  古和美の指が、ゆっくりと―― 愁の指の間へ、滑り込む。  絡める、というより、確かめ合うように。  指と指が触れ合い、自然と、その形に収まっていく。  「……っ」  驚きに、息が漏れる。  指先から伝わる熱が、はっきりとわかる。  思っていたより、ずっと温かい。  「それに……」  古和美の視線が、絡み合った手へと落ちる。  「二回目の使用を想定していなかった…… それは、私の最大のミス……」  指に、ほんの少しだけ力がこもる。  「……危うく、君を殺してしまうところ だった……」  その言葉と同時に古和美の表情が、静かに 曇った。  眉が下がり、唇がわずかに結ばれる。  後悔が、そのまま形になったような顔。  愁の胸が、きゅっと痛み。  (……そんな顔……)  反射的に。  絡められていた指に、そっと――応える。  逃がさないように、慰めるように。  指先に、ぬくもりが重なる。  「あっ……」  小さく息を呑む声。  古和美の瞳が、わずかに揺れた。  曇りに、戸惑いが混じる。  頬に、ほんのりと赤みが差す。  気づけば、二人の指は――さらに深く、自然に 絡み合っていた。  ほどけない。  離れない。  「……そんなこと、ありません」  愁の声は、驚くほど穏やかだった。  「“あれ”があったから……俺たちは、誰一人欠けることなく、帰還できたんです」  言いながら、指先に、ほんの少しだけ力が こもる。  大丈夫だと、そう伝えるみたいに。  「……それに」  視線を落とし、治った自分の手を見る。  「もう、完治してますから」   一拍、置いて。  「……それよりも」  ゆっくりと、顔を上げる。  真正面から、古和美を見る。  「古和美さんが……一生懸命作ったものを 壊してしまって……」  少し照れたように。  けれど、まっすぐに。  「俺の方こそ……本当に、すみませんでした」  そう言って、絡んだままの手をほどくことなく、ぺこりと頭を下げた。  その瞬間。  「ッ……それは、君が謝ることじゃ――  そもそも……」  古和美が、慌てたように言いかけた、その時。  ――ゴウン。  重厚な私室の扉が、ノックもなく、勝手に 開き始めた。  二人の間に流れていた、静かで、濃密な空気を――無遠慮に切り裂くように。  そこに立っていたのは―― 九条 京之介だった。 ***  深骸域――地底五層。  ひんやりと冷えた空気が、ゆっくりと肌を 撫でていく。  鉄と機械油が混じった匂いが、呼吸のたびに 肺の奥へ沈んだ。  無骨で無機質な通路。  光沢を失った床と、無言で並ぶ配管。  その景色の中を――あまりにも不釣り合いな 赤が、揺れていた。  艶やかな赤のロングコート。  歩くたび、裾がなめらかに波打つ。  「……あーあ」  ヒールが床を叩く音が、コツ、コツ、と響く。  低く唸る金属の通路は、その音さえ吸い込む ように静かだった。  (……まぁ、呼び出される理由なんて、分かっとるけどな)  京之介は軽く肩をすくめる。  気怠げで、どこか余裕を含んだ仕草。 (あれやろ。どうせ、“あれ”や)  古和美とは、正直言って相性が良いとは 言えない。  向こうは規則第一。  几帳面で、理屈が先に立つタイプ。  対して京之介は、気分と直感がすべて。  その場の空気で動き、面白い方へ流れる。  会えば小言。  顔を合わせれば溜め息。  ――仲良くなれる要素は、どこにもない。  だから京之介は、普段この地底五層に近づか ない。  息が詰まる。  居心地が悪い。  冷たくて、硬くて、融通の利かない場所。  それでも今回、こうして素直に足を運んでいるのには――はっきりとした理由があった。  (……格好、めっちゃ好みやったんよなぁ……)  報告書で目にした、古和美の試作品。  蝙蝠型の三次元デバイス。  無駄が削ぎ落とされた輪郭、鋭く、静かで、 実に使い勝手が良さそうで――  つい最近、葵の影響で【ダークナイト】シリーズを全部観てしまった京之介が、我慢できるはずもなかった。  少し借りるだけのつもりだった。  試して、すぐ返す予定だった。  ……予定、だった。  (……あぁ)  不意に、思考の奥を掠める感触。  愁の体温。掌に残る、柔らかな熱。  指先に触れたときの、わずかな震え。  すぐ近くで混ざりあった呼吸―― 温度と匂いが、境界を曖昧にする距離。 (……気持ち良すぎて、すっきり忘れとったわ)  内心で舌打ちしつつ、どこか満足げなのがまた質が悪い。  古和美が、自分の作ったものを無断で使われるのを嫌うことは、嫌というほど知っている。  しかも無断。  しかも事後報告すらなし。  ここで呼び出しを無視すれば―― 間違いなく、向こうから怒鳴り込んでくる。  経験済みだ。それは、非常に、面倒くさい。  「はぁぁ……」 (……キレたら長いし、ネチネチするしなぁ……)  京之介は、重たくなった足取りのまま通路を 進み――やがて、目的のラボの前に立った。  中を一瞥。  作業スペースに、古和美の姿はない。 (……ほな、あそこやな)  視線の先。ラボ最奥に鎮座する、重厚な 遮音扉。  以前、面白そうな試作品を“拝借”しに忍び 込んだ時。  古和美が、ひっそりとその奥へ消えていくのを見ていた。  もちろん――  その時に、パスワードも覚えている。  京之介は迷いなく端末に指を走らせた。  ピッ。  低い駆動音とともに、重厚な扉が、ゆっくりと開いていく。

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