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第百八十五話
京之介は、とりあえず――すっとぼけてみる
ことにした。
「邪魔すんでー! 話ってなん――」
気だるく投げた声は、途中で喉に絡みつき、
音にならなかった。
視界に飛び込んできた光景に、思考が――
一拍、完全に止まる。
椅子に座る愁。
その真正面、床に膝をつき、身を乗り出すようにして両手を握り込んでいる古和美。
近い。
近すぎる。
古和美は何かを確かめるように、愁の手から視線を離さない。
あと少し、顔を寄せれば――
唇が触れてしまいそうな距離。
私室の柔らかな照明が、二人の輪郭を溶かし、
影が、まるで抱き合っているかのように重なって見える。
――迫っている。
どう見ても、古和美の方から。
京之介の目には、そうとしか映らなかった。
次の瞬間。
京之介の瞳孔が、はっきりと開く。
頭の奥で、何かが――
ブチッ。
確かに、切れる音がした。
「うちのぉ愁にぃぃッ……」
低く、喉の奥で唸るような声。
「何してくれてんねんッ!! この陰きゃぁぁっっ!!!」
言葉と同時に、拳が固く握られる。
考えるより早く、感情が身体を突き動かした。
踏み込む――古和美へ。
だが。
「ッ!!」
遮ったのは、標的ではなかった。
愁が、一歩、前に出る。
跪いた古和美の前へ、迷いなく。
伸びた京之介の拳を――両手で、受け止めた。
鈍く、重い衝撃。
「く……ッ」
愁の掌に走る震えが、拳越しに伝わり、私室の装飾が一斉にガタガタと揺れる。
「……京之介さんッ!!」
その声で、はっと我に返る。
――止められている。
自分の拳が、愁に。
力を抜いた瞬間、堰を切ったように、疑問が
頭を駆け巡る。
(……なんで?
……なんで、二人きりで私室におる?
……なんで、あんな距離で、見つめ合っとる?
……なんで、手ぇ……握っとる……?)
そして――
(……なんで、愁は今、あいつを庇うんや……)
胸の奥に、重たいものが沈む。
「なんで……庇うんや……愁……」
喉が詰まり、息が浅くなる。
「……あんた、まさか……」
浮気。
不倫。
言葉になる前に、必死で打ち消す。
愁に限って、ありえない。
愁を変えてくれた葵。
弟みたいに可愛い凛。
それは――例外。許せる。
(……そやけど……他は……絶対、許せへん……)
純粋な愁に、手を伸ばす存在なんて――
許せるはずがない。
再び、殺意が拳に宿る。
視線が、古和美へ定まった――その瞬間。
愁の手が、変わる。
今度は、押さえ込むのではなく。
包み込むように。
熱を帯びた掌が、京之介の拳をやさしく覆う。
落ち着かせるような、静かな力。
「……そんなわけ、ないでしょ」
淡々と。
けれど、迷いのない声。
その一言が、張りつめた空気を、すっと
緩めた。
愁の両手のうち、右手だけが、そっと離れる。
残った左手は、京之介の拳を包んだまま。
離れた指先が――
赤く火照った京之介の頬に、触れた。
確かめるように。
撫でるように。
その温度に、京之介の呼吸が、わずかに
乱れる。
ひやりとするほど、優しい感触。
見上げてくる愁の赤い瞳は、わずかに潤んでいて優しく――
その奥に、責める色はどこにもなかった。
「……誤解です」
囁くような声と、柔らかな微笑み。
その一言で、胸の奥に張りつめていたものが、きし、と音を立てて緩んだ。
「古和美さんが……星薙の件で、真剣に謝ってくれてただけ。俺は、気にしてないって……そう伝えてただけで」
頬を撫でる指は、そのまま離れない。
熱を帯びた肌を宥めるように、ゆっくり、
ゆっくりと動く。
「手を握ってたのも……その流れ、ですね」
それだけ。
たったそれだけの説明なのに。
(……ああ……)
京之介の肩から、すとん、と力が抜けた。
さっきまで全身を支配していた殺気が、嘘みたいに引いていく。
残ったのは、どうしようもない安堵と、遅れて押し寄せる後悔。
それから――少しの照れ。
京之介は、愁の手を、今度は自分から両手で
包み込んだ。
逃がさないように、確かめるみたいに。
「……かんにんえ、うち……勘違いで……
愁の、手ぇ……」
声は途切れ途切れで、情けないほど小さい。
愁は少し首を傾げ、困ったように笑った。
「気にしてません。俺も……
京之介さんの気持ち、ちょっと分かる気がしますから」
その言葉が、胸に深く沁みる。
(……あんたまで、そんな顔せんでええのに)
次の瞬間。
愁の腕が伸び、京之介の身体を、そっと引き
寄せた。
抱きしめられる距離。
服越しに伝わる熱。
胸の奥で重なる鼓動。
それだけで、心がほどけていくのが、はっきり分かる。
(……ああ……そうやな)
大切な相手の温もりが、不安も怒りも溶かしてしまうことを――
愁は、もう知っている。
京之介はその事実を、少し誇らしく思いながら、愁の背に腕を回した。
(……いつの間に、愁はこんなにも大人になってしもたんやろ。)
抱いた身体は細いままなのに、体温は確かで、
腕の中に収めると、不思議と落ち着く重みが
ある。
その感覚が、たまらなく嬉しくて。
背に回した腕は、いつの間にか、自然と――
愁を求めるように、腰へと回っていた。
「……京之介さん……?」
戸惑いを含んだ声。
「んふふ……♪ なーに?」
すべすべした頬へ、自分の頬をすり、と
寄せる。
愁の身体が、びくりと小さく揺れたのが分かって、それだけで、口角が勝手に上がった。
耳元へ唇を寄せる。
息が触れるほどの距離で、低く囁く。
「うち、今な……いつのまにか、こないええ男になったあんたを、じっくり堪能しとるとこや……♡」
吐息に熱が混じる。
「ん……こそぐったい、です……」
愁は、分かりやすいほど身体を震わせて、
声まで、少し揺れている。
(……ほんま、大人や思ても……
こないなとこ、かいらし過ぎやん……♡)
その反応がたまらなく愛おしくて、京之介は、無意識にもう一歩、距離を詰めていた。
「ええやん……♡
それに、こないだは凛ちゃんの方、ちょぉっと多めに可愛がられとった気ぃするさかい」
冗談めかしながらも、ほんの少しだけ本音を
滲ませる。
「今から、その分……取り戻させてもらお
かな……♡」
そう囁いて、耳たぶに、そっと――軽いキスを
落とした。
「ん……ぁ……」
抑えきれずに零れた、愁の声。
その直後、コートの背を、きゅ、と掴む指先。
逃げ場を探すでもなく、こそばゆさに耐える
ように必死に動かない――
その健気な様子が、もう。
(……あかんやろ、これ……♡)
京之介は、思わず喉を鳴らし、視線をふいと
泳がせた。
そして、私室の奥。
きちんと整えられたベッドの存在を――
しっかりと確認する。
(……環境、万全やな♡)
そう思った、その瞬間。
「ごほんッ!!」
空気を切り裂くような、わざとらしすぎる
咳払い。
一瞬、完全に存在を忘れていた人物の気配に、京之介はぴたりと動きを止めた。
舌打ち、ひとつ。
「……なんなんッ!!
せっかく、ええ雰囲気やったのに!!」
腕の中の愁を離す気配はない。
むしろ、逃がすまいと腕に力を込めたまま、
ぎろりと古和美を睨み据える。
不機嫌は、隠すどころか剥き出しだった。
「なんなん!? ……なんなんじゃない
でしょう!! ここを、どこだと思ってるんですか!!」
古和美は、京之介の拳の衝撃で散らかった装飾品や小物を、すべて元の位置へ戻し終えたところだった。
抑えきれず、声が荒れる。
それに、京之介も即座に噛みつく。
「煩いアホッ!! 叫びなや!!
だいたいなぁ、あんたが紛らわしいことして
るんが悪いんやろ、この陰きゃ!! 気ぃ利かして出てけッ、ボケッ!!」
売り言葉に、買い言葉。
低く荒れた声と、鋭く張りつめた声が、私室の空気をさらに逆立てる。
「さっきから人のこと陰キャ陰キャって煩い
ですよ!! それにここは私の部屋ですよッ!!
このチャランポラン!!
いい歳して、愁の前だと頬赤くしてナヨナヨ
してッ……遅めの思春期ですかっ!?」
「なッ!?」
容赦のない一撃に、京之介は別の意味で顔を
真っ赤にする。
「だぁれが思春期でチャランポランやて!?
わざわざ足ぃ運んだんやさかい、まずは感謝の
一言くらいあらへんのか、しょたこんッ!!」
投げ返されたその言葉に、古和美の表情が一気に熱を帯びる。
「だ、誰がッ!?
それにですね、あなたが来る予定だった時間は二時間も前です!! 遅刻しといてなんですか
その態度ッ!? そもそも、私の作品を無断で
持ち出した相手に、どうして感謝なんて――」
一歩、京之介に詰め寄る。
床を踏む音が、短く鋭い。
呼応するように、京之介もまた一歩踏み
出した。
「便利そうやったさかい、試験も兼ねて使う
ただけやろ! 壊してもあらへん!!
素直に“おおきに”の一言も言えへんの!?」
吐き捨てるように言い放ちながらも、腕の中の愁は離さない。
その挑発的な態度に、古和美は歯噛みし、拳をぎゅっと握り締める。
「試験ッ!?
あのデバイスは未完成なんですよ!!
武装も未搭載、内部換装も途中で――」
語気を強め、さらに一歩踏み込もうとした、
その時。
火花を散らし続ける二人の応酬を、京之介の腕の中で聞いていた愁が――
「ふふ……♪」
小さく、けれど妙に胸に響く声で笑った。
その瞬間、京之介の肩から力が抜ける。
嫌な予感しかしない。
こういう時の愁は、大抵――とんでもなく
無防備で、とんでもなく強い。
案の定、愁はするりと京之介の腕の中を
抜けた。
止める暇もなく、一歩、また一歩と前に出る。
一触即発で睨み合う京之介と古和美。
その、わずかに空いた隙間へ――愁は静かに
入り込む。
「……二人共……落ち着きましょう……ね?」
そう言って、両手を広げた。
制止の仕草。
あまりにも素直で、あまりにも柔らかい。
「ッ……」
「……う」
京之介の喉が、無意識に詰まる。
脳裏をよぎったのは、つい先ほど。
感情のままに振るった拳を、愁が真正面から
両手で受け止めた、あの瞬間だった。
――しまった、と思った。
本気で、壊してしまったかもしれない、と。
その“重さ”を知っているからこそ、今、
差し出されたその手のひらが――やけに小さく、
脆く見えてしまう。
次の瞬間、愁がこちらを見上げて、にっこりと笑った。
(……反則や……)
赤い瞳が、少し潤んでいる。
叱るわけでも、責めるわけでもない。
ただ、困ったように、優しく。
京之介は、言葉を完全に失った。
一方で、古和美の様子も同じだった。
“星薙”によって傷つけてしまった愁の手。
今は癒えているとはいえ、その原因が自分に
あるという事実は、胸の奥から消えていない。
それでも――
京之介が試作品を勝手に持ち出した件に
ついて、言いたいことは山ほどある。
「ッ……いや、でもッ!!」
古和美が口を開きかけた、その時。
「……仲が良すぎて喧嘩も、良いですけど」
愁が、すかさず古和美の方を向いた。
赤い瞳を潤ませ、ほんの少し首を傾げて、
見上げる。
「二人が喧嘩したら……この島、無くなっちゃいますよ……ね?」
――可愛い、の暴力だった。
あまりにも無垢で、あまりにも真っ直ぐで。
守りたい、という感情を、容赦なく抉って
くる。
古和美の頬が、みるみる赤くなる。
言いかけた言葉は、喉の奥で霧散した。
京之介も同じだ。
何か言い返そうにも、愁の手と、愁の顔と、
愁の存在そのものが邪魔をする。
――まったく。
京之介自身、否定しようもなかった。
自分も古和美も、揃って年下に弱い。
互いを苦手だと思っているくせに、愁から
見れば、きっと似た者同士なのだろう。
結局、二人は黙り込む。
叱られたわけでも、裁かれたわけでもない。
ただ、穏やかに差し出された手と、あまりにも可愛すぎる存在を前に――
今日の二人は、何ひとつ、逆らうことができ
なかった。
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