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第36話 【番外】afterwards⑪ …… 勉強
翌朝目が覚めると、俺の体は綺麗になっていた。その後はシャワーを浴びて、朝食は食べずに、朝早く帰らなければならないというヒースを送っていった。
新東京行きのモノレールの乗車口で、ヒースが俺を見た。
「また来てくれ」
「ああ。来週は日曜の夜から月曜にかけてこられる」
「うん、待ってる」
俺が言うと、ヒースが頷きながら、改めて俺を見た。じっと見つめられて、俺は小さく首を傾げる。
「どうかしたか?」
「そのマフラーつけて貰えるのが嬉しくてな」
「ずっとつけてるよ」
両頬を持ち上げて俺が笑うと、ヒースもまた笑顔になった。その後、指定席へと向かうヒースの姿を、俺は窓越しに見ていた。帰ってしまうのは寂しいが、また会える。それに、この週末で、リアルでの初対面の時ほどは緊張しなくなった俺がいる。距離が近づいたようで嬉しい。
モノレールが走り出してからも、俺は暫くホームで見送っていた。
こうしてヒースとリアルで顔を合わせてから一週間――と、その後三日が経過した。俺はヒースと約束したから、タブレットに入っている心理学関連の参考書を見ていた。インターホンが鳴ったのは、その時の事である。なんだろうかと顔を上げ、俺は玄関に向かった。すると宅配ドローンが映っていた。
扉を開けると、ドローンが大きな茶色ダンボールの箱を、玄関に置いた。視線を落として、俺は手を伸ばす。持ち上げてみるとそれなりに重くて、表面に貼らている伝票を確認すると……ヒースの本名が送り主の欄に書いてあった。
「なんだろう?」
俺の住所は、ヒースが一人でも来られるようにと、事前にアプリで送付した事がある。しかし俺は、ヒースの住所は知らなかった。ただ箱には確かに、印刷された伝票があって、新東京からの荷物であり、マンションの部屋番号まで書いてある。
それをコタツの上まで持っていき、俺は開封した。
「あ」
そして驚いた。中には、最新型のVR接続装置が一式入っていたのである。インストールソフトとしてVR空間と――VR学、英語、どころか心理学の学習ソフトまでDL出来るカードが入っていた。
「これ……」
慌てて俺は携帯端末を取り出して、ヒースに連絡を取った。
『ヒース、荷物が』
するとすぐに既読がついて、返信が返ってきた。
『今日から、夜は勉強を教える。時間を取れ』
『良いのか?』
『ああ。対面だけじゃ、時間が足りないだろ』
ヒースは本気で勉強を教えてくれるらしい。俺ではとても手が出ない代物ばかりだが、俺は借り受ける決意をした。
『使わせてもらう。絶対に返すから』
『気にするな』
こうして、俺はこの日から、ヒースと夜、VR空間で顔を合わせる事が決まったのである。その後もアプリを用いて、ヒースの都合の良い時間を聞いた。俺の方は、大学は休学中かつテロ被害者への支援金が政府から援助されているため、半年間は暇しかない。アルバイトでもしようかと考えていた所だ。要するに、時間がある。
この日、ヒースとは、夜の八時にVR空間で会う約束をした。俺は緊張しながら、七時という、一時間も前にログインしてしまった……。
――ヒースに会える。
無論勉強のためだと理解してはいるのだが、会える事自体も嬉しい。
VR空間は、焦げ茶色の学習机と椅子が二つ、大画面のモニターが一つ、他には寝台がある、マンションの一室のような部屋だった。無機質な白い壁紙の部屋で、この空間自体は、VR個人空間と呼ばれる、VR内で所持できる部屋の一つだ。机やベッドは、デフォルトで存在する代物だ。
情報の確認をすると、十八歳以上から使用可能な空間であるそうで、つまりR18制限のコードが無い。VR内で仮想の飲酒や喫煙、SEXといった事柄が可能な部屋という事だ。ゲーム内と同じである。VR自体が、そういう制限が存在するからだ。
椅子を一つひき、俺はその場で、カードでインストールしてきたソフトの中身を確認する。特に英語は俺には難解だった。VR学の方は、初歩の初歩だけは大学の講義で学んだ事があるから、最初の部分だけは何となくは理解できた。
「早かったな」
その時、ヒースの声がした。振り返ると、ヒースが立っていた。リアル共有機能を俺も使っているのだが、お互い私服である。
「すごいな、このVR装置。最新式だけあって、すごくリアリティがあるし」
「――ログアウト不可時と同じように、感覚制限を解除しているからな」
「え?」
「VR医療で使うタイプの最新型では、手術時の精度を上げるために、解除している場合が多いんだ」
「それって……ただの最新型じゃなく、研究所クラスの……」
「ああ。院の研究室で取引がある業者から買ったからな」
なんでもない事のようにヒースは述べてから、テーブルの上に触れた。するとカップが二つ出現した。
「飲んでみろ」
「――すごい。味がする……」
まるでログアウト不可だった時のような味覚の反応に、俺は驚いた。VR学は、そこまで進化しているのか……全然知らなかった……。
「さて、語学は毎日の積み重ねだ。だから最初は英語を毎日やろう。それが終わり次第、少しずつ残り時間でVR学だ。心理学は空き時間に自分でやってみろ。俺には教えられないからな」
「分かった」
こうして、勉強が始まった。俺がテーブルの上と同化しているモニターに表示された英文を訳し始めると、後ろに立ったヒースが屈んで、俺が間違って訳した英文の箇所を指でなぞった。すると文字が赤くなる。
……ヒースからは、良い匂いがする。シャンプーの香りだ。リアル共有で、香りまで再現できているのだとすぐに分かった。勉強中だというのにドキリとしてしまう。ヒースが屈んでいるから、時々髪が俺に触れた。
その後は単語の勉強と長文読解を主に二時間ほど行い、十時になった。そうしてこの日は三十分ほど、VR学についてヒースに教わった。
「十一時半か。そろそろ終わりにするか」
「うん。有難うな、ヒース」
「そろそろ寝るか」
「ああ。ヒースは、院は何時からなんだ?」
「明日は昼過ぎに行く」
ヒースの答えを聞きながら、俺は椅子から立ち上がった。すると――ヒースが後ろから俺を抱きしめた。そして息を呑んだ俺の顎を掴むと、目を伏せ深々と唇を貪ってきた。突然の事に、俺は息継ぎも忘れて硬直する。本当に、グランギニョルの夜からログアウト出来なくなって、内部で抱かれていた時のように、実際にキスをされている感覚がある。
「寝台に行くぞ」
「え、え?」
「嫌か?」
口角を持ち上げたヒースの瞳が、どこか獰猛に見えた。俺は真っ赤になってから、目を閉じる。
「嫌じゃないけど……」
「けど?」
「べ、勉強するだけじゃ……」
「二時間半も集中したんだ。そしてそれは、これから俺が直接会いにいく日以外は毎日だ、何かない限りは。無理をするより、毎日地道に覚える方が効率が良い。残りの時間は、俺にくれ」
「……うん」
目を開け、チラリと俺はヒースを見た。ヒースが俺の腕を引く。そしてベッドへと移動した。こうして――俺にとっての新しい体験が始まる事となった。
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